そわそわ

 その日の夜――夕食後の憩いの時間。

 飯野は台所仕事をしている。コロは、未来の膝の上でいつも通り過ごしていた。

 きょうの未来はなんだかそわそわしている。見ていたテレビも、いつのまにか消してしまった。いつも通りうつらうつらしているコロの背中を、未来はなぞるようにして撫で続けていた。白いキャミソールは犬の毛皮みたいで撫でていて、未来の手にもきっと心地がよいのだろう。


「コロ、口開けて」

 未来が言うと、コロは反射的とでもいえる速さであがっと口を開けた。未来の意図はわかっていない。ただ、「開けて」と言われたので、開けたのだ。従順な飼い犬というのは、そういうものだ。

 コロの口内は健康的な色をしている。飯野の努力の賜だ。

 未来がうーんと顎に手を当ててなにかを悩んでいる。コロはその間ずっと口を開きっぱなしで未来を見上げていた。あんまりにも長時間口を開けていたので、唾液が口の端から漏れそうになる。未来はそのことに気づいて、慌てたように「あ、いいよ、いっかい閉じて」と言った。コロはぱくりと口を閉じた。

「うーん。難しい。これは難しいぞ……」

「……う? 未来さま、なにか悩みごとですか……?」

「……っていうか。きょうさあ、保健の授業があったんだけど。……あ。エッチいやつじゃないからな。そういうんじゃなくて、ただの歯磨き講座」

「わう」

「おまえ、痛い歯とか、ないよな?」

「はい。コロはいつもきれいにみがいてもらってるから」

「そうそう、それなんだよ。自分でみがいてみたらどうだよ?」

「コロ、犬だから……歯磨きガムとかでですか?」

 歯磨きガムとは犬用の歯磨き用品である。甘い味がついていて骨の形をしていて、犬がそれをずっと噛みたくなるような作りになっている。しかも、噛んでいるだけで犬の口内をきれいにしたり虫歯予防をしたり、歯磨きの効果がある。

 だが、それは犬のためのものである。コロは犬の扱いではあるが、身体的には人間なので、当然犬用の歯磨きガムでは歯磨きにはならない。

 コロは目をぱちくりさせた。コロがなにか結論を得たときの仕草だった。

「んー。歯磨きガムは、コロには向かないかも……?」

「おれが歯ブラシの使い方くらい教えてやるから。だいじょぶだよ。モノつかめんじゃん、手がそれでも」

「あう。それは、そうなんですけど……」

「――なんだよさっきから口答えばっかしてっ、犬らしくしろよっ」

 コロはびくりと全身を震わせた。

「……う、うぅ。わたし……ごめんなさい」

 そしておずおずと未来の顔を見つめると、目を閉じて未来の手をぺろぺろと舐めはじめた。その表情はどこか苦しそうでもあった。

 コロは謝罪をするときには犬らしく人間の肌を舐めろと徹底的に教えられているので、この行為は当然で、また仕方のないことでもある。コロは、これで謝っているつもりなのだ。謝罪のしるしなのだ、と。人間が頭を下げるかのごとく。

 未来はそっぽを向いてしまった。テレビをもういちどつける。手だけはコロに舐めさせてやっていた。

 ゴールデンタイムのテレビの音。

 未来の不満も、コロの戸惑いも、――自覚するにはふたりともまだ幼すぎたのだ。



 そのあとの時間。

 飯野はほかの仕事を終えて、居間に戻ってきた。

「坊ちゃま、もう十時になりますよ。そろそろ歯磨きを……おや」

 テレビがつけっぱなしだ。未来は、ダイニングテーブルに両手を置いて、授業中にサボって寝るみたいにうつぶせになっていた。その足もとではコロがどこかしょんぼりとして伏せている。飯野が入ってきたことに気がつくとコロは顔を上げて、きゅうん……と弱々しく鳴いた。未来のことを心配しているときの仕草だ。

 飯野は未来の肩を軽く揺さぶった。

「眠ってしまったのですか。坊ちゃま。未来さま」

「……寝てないもん」

「おや」

 飯野はサングラスの下の目で、未来を見た。これは……ふてくされている。

「コロ、あなたのご主人さまはどうしたのです」

 飯野はコロに尋ねるが、コロは伏せの格好のままふるふると首を横に振った。……飯野は、未来には犬に頼るなと言うわりには、自分自身はコロに対してこうやって人間相手のようなふるまいになることが、多かった。飯野はコロが犬扱いをされている人間の少女であることを知っているし、コロは同年代に比べて心身ともにいくぶんしっかりとした成長を遂げていることも知っている――犬として生きているというのに。いや……だからこそ、かもしれないのだが。

 飯野はわざとらしくため息をつくと、未来の向かいのいつもの定位置に座った。リモコンで、テレビの電源を消す。

 そしてまたしてもわざとらしく、咳ばらいをする。

「坊ちゃま。十時です。お子さまはもう歯を磨いて寝る時間です」

「……わかってるよぉ……」

「しかしですね、お眠りになる前に。坊ちゃま、なにかがありましたのでしょう」

「……べつに、なにもないし……」

「嘘おっしゃい。坊ちゃまのお好きな番組を、電源をつけていながらして見ていないだなんて。ええ、飯野にはわかりますよ。坊ちゃんがお拗ねになっていることくらい、お見通しでございます。……だいじょうぶですよ、ここだけの話ですが、あなたのおばあさまもたいがい拗ねる性分でしたので」

「えっ? おばあさんが……?」

 未来は、顔を上げた。服の袖の跡がついて、ついでに涙の跡もあるその赤く火照った顔。……したり、と飯野は小さく口の端を持ち上げた

「ええ。それですので、飯野には、そのお孫さまである未来さまがお拗ねになっていることもお見通し、というわけです。さて、なにが」

「……べつにたいしたことじゃねえよ」

 未来はいつのまにか、ずいぶん生意気な言葉遣いをするようにも、なった。おとなみたいな――。

 ごそ、とコロが四つ足で立ち上がって、とてとてと飯野の足もとにやって来た。飯野の割烹着の裾を、口でちょいちょいと引っ張る。飯野が見下ろすと、割烹着をくわえたコロはもの言いたげに飯野を見上げる。完全に洗練された犬の動きであった。

「なんですか。コロ」

「……あぅ。あの」

「いいですよ。言ってみなさい」

「コロがいけないのです……」

 コロがそう言う場合はたいていコロが悪いわけではないということを飯野は知っているので、とりあえず黙っていた。

「未来さまは、コロが虫歯にならないかどうか、心配してくれただけなの……です」

「……え?」

 ちょっとさすがに予想外の話に、飯野は未来を思わずサングラス越しに見つめた。

 未来は頬杖をついて、視線をあさっての方向にやって、むっすー、としている。

「未来さま、学校で、はみがきの授業を受けたから。それで、コロが虫歯にならないか、心配してくださったの……です」

「……はあ。いやはや。なんとまた……」

 飯野はある種、感動さえしていた――この子どもふたりは、そこまで主従になったのか、と。

 飯野はなるべく優しい声になるように努力しつつ、未来に語りかける。

「未来さま。ご心配なさらずとも、コロの歯磨きはしっかりとこの飯野がやっております。虫歯にはなりませんよ」

「――けどさっ!」

 未来はとても大きな声を出した。コロはびくっとする。飯野は、微動だにしない。

「コロにもちょっとは自分でやらせたらどうなの!? コロさあ、いつも飯野さんにみがいてもらってさあ、なんか……赤ちゃんみたいじゃん。コロはさあ、たしかに犬だけど、すっごく頭がいいんだから教えたらはみがきくらい、できるんじゃないの!?」

 飯野は――こんどこそほんとうに、感動していた。

 ああ、未来は――天王寺薫子の孫であるこの子どもは、……まさに帝王の血が流れているのだと。

 自身はおそらくひとを犬になしたいなどとまったく思わない性質で――それでいて、コロを思いやっている。

 ここまで犬と成ってしまったコロを、公子を、この少年はいまもなお、人間扱いしたくてたまらないのだ――と。

「おれが教えてやってもいいよ! コロならきっとはみがきくらいできるって! っていうか……手だって、べつにいいじゃん、わざわざ犬に近づけなくてさ……コロはそういう『ケンシュ』なだけなんでしょ?」

 未来はもはや、飯野にすがりつくようにして見上げた。

「……そう、ですね」

「でしょ!?」

「それでしたら。――未来さまが、コロの歯磨きをしてやったらどうですか」

「……え」

 飯野は当然、自分が未来にとってはとんちんかんなことを言っていると知っている。

「コロは、歯磨きは、できません。……コロはどんなに人間に近く見えても、犬なのですよ。未来さま」

 嘘を――きっぱりと。いや、あるいは嘘ではないのかもしれない。

 天王寺薫子が犬と言ったら、コロは犬なのだ。たとえ人間であったとしても――問答無用で、犬なのだから。

 そして、当然、飯野は薫子にだけは世界で唯一絶対に、逆らわない――いや、逆らえない。

 つまり、コロは、犬なのだ。

 犬が歯磨きを自分でできるはずがない――ただそれだけの、常識だ。

 未来はすごく不満そうにむくれて飯野を睨んだ。だが、それしきのことで飯野が怯むわけもない。

「……でも、やっぱり、コロは自分でできると思う」

「いいえ。できません。コロは犬なのですよ、犬にかわいそうなことをおっしゃらないでください」

 コロが、また四つ足で立ち上がった。

 とてとて、と未来の足元に戻ると、犬のグローブで覆われた前足で、未来の脚を包み込むように、ぎゅっ、と抱えた。目を閉じて、その頬をも少年の脚に繰り返しこすりつける――犬のくせに、そんな愛しそうな顔をして。

「未来さま。……ありがとう。えへへ」

 未来の肩はどくん、と跳ねた。

 そして未来は長く、息を吐いた。おでこに手をやる。

「……しょうがないなあ。もう」

 飯野は、思う――この少年はその感情をなんどもなんども噛み殺し、そしてそれは今後も続くのであろう、と。

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