歯磨き指導

 おなじ週のできごとだった。

 未来の通うブランド男子校の小等部。お昼休みのあとの時間。

 廊下の一か所を拡張して、ひと学年百人ほどの人数がゆったり入るひろびろとした多目的ホール。そこに集められた男子小学生たちは、ワックスがかけられてぴかぴかの木の床にめいめい座り、ざわざわとざわめいていた。保健の授業。性知識の授業なんじゃないか、と騒ぐのはスピーカー的な立ち位置を確保しているお調子者だ。どの教室にもだいたいこういった少年がいる、というよりクラスという集団の性質上そういう役割をになう者が、かならず出てくる。それは2003年のこのあたりからだんだん発覚して、キャラ、と呼ばれるものになって、……しかしこのときの未来はそこまでのことがわかってはいないので、まーたそいつがうるさくし出した、とくらいに思っていた。

 未来はどこの輪にも入らずに、膝を抱えてぼんやりと多目的ホールの窓枠を眺めていた。外はあいにくの曇り空。だが未来には天気はとくに関係なかった。空の美しさもとくに関係なかった。未来にとってだいじなのは、じっと見つめていても違和感のない対象、ただそれだけであった。だから未来はいまも空ではなく、ステンレス製の窓枠をぼんやりと見つめていた。

 べつに性知識の授業でも、どうでも……いや、どうでもいいというわけではないが、未来から見れば幼稚にも見えるクラスメイトたちがエロ授業かなどうかなエロだったら保健のにょーこをいじめてやろうぜ、とか言い合って騒いではしゃいでいるのは、じつにどうでもよかった。ちなみににょーこというのはそのときの未来の学校の養護教諭で、彼女の京子という名前から来ているあだ名である。司書教諭とおなじく男子校であるこの学校にいる女性という数少ない例外であったので、それはもう大人気であった。

「にょーこだったら突っ込んでやろーぜ、にょーこと言えどもネットの知識とか知らないっしょ!」

「めっちゃ突っ込め突っ込め!」

「つか、センセーにも突っ込んでもいいかなーとか訊いちゃわね!?」

「おめー、そりゃちょっとやっべーって!」

 あはははは、という笑い声を、未来は別世界のもののようにして聞くともなしに耳に入れている。

 膜が、張られているみたいだった。未来は、そう感じていた。クラスメイトの彼らと、未来のあいだに。

 この明るい時間は自分にとってなんなのだろうと、哲学ともつかないことをいつもぼんやり考えていた。

 いまの自分とおなじように、コロが、いま公立の小学校で天王寺公子としてなにかをしているのだ、なんてことはとうてい信じがたかった。

 そのうちに、養護教諭の高階京子(たかなしきょうこ)がやって来た。男子たちのざわめきは、嫌な感じのニヤニヤ笑いを余韻に残したまま、しかし素直に収束していく。

「はい、みなさん、どうもこんにちは」

 高階京子は気さくに右手を上げた。こんにちはー、と男子たちはそれでも素直に唱和する。なんだかんだで高階にはみな素直になるのだ。未来もいちおう小さく、「……ちわ」と合わせておいた。未来がここでみなとともに挨拶をしなかったとて気づく人間はだれもいないだろうが、未来は、やはり根本的にまじめな性質なのだった。

 高階は白衣の下の腰を曲げ、パネルの用意をはじめた。パネルはつねにこの多目的スペースに重ねられて用意されている。未来は膝を抱えたまま、高階のことを目で追う。

 高階は、小等部の男子たちには「ぼさぼさ頭」「だらしない」「男女」などと馬鹿にされるが、じっさいはかなりの美人だ。学校には最低限の化粧しかしてこないし、黒縁のでかい眼鏡をかけて、せっかくの背中まである長い髪をいかにもテキトーといった具合でひとつに結んでいる。ポニーテールではなくひとつに結んでいる、いかにもそういった無造作ふうの髪型だ。

 だが、見るひとが見れば、高階は若く美しい女性だ。むしろ高階は、男子校の養護教諭という立場では過剰な自身の美しさを充分に把握し、あえてそうやってふるまっている感までもあった。

 未来は、そのことに気がついていた。未来にはそういった、ほんもののお坊ちゃんに特有の審美眼とでもいったものが、すでにこのときにはそなわっていた。……もっともだからと言って、なにか特別な感情やら欲望やらを高階に抱く、なんてことはまるでなかったが。

 未来は自分の性の目覚めについてむしろ尋ねてみたいくらいだった。……コロが家でも全裸ではなくキャミソールを着るようになってから、未来は、どうも自分がおかしいとずっとずっと感じている。

 クラス担任の教師たちもやってくる。三クラスぶん、三人の教師は、全員男性でそれぞれ若く、教師でもありながらまるで大学時代の友人どうしのような気軽な親しさがあった。じっさい三人とも伝統あるこの男子校の出身なわけであるから、それもさもありなんといったところかもしれない。

 腰を曲げて、よっこらしょ、などとわざと雑っぽく言う高階に、クラス担任のひとりが寄っていき、話しかける。

「高階先生、だいじょうぶですか。パネル、僕たちがやりましょうか。ほら、男手はこんなにありますので、あはは」

「んあー、けっこうですよ。パネル運びくらいできないと、養護教諭もつとまりませんのでー」

 当たり障りなく、のんびりとした口調だったが、その表情はやけにきっぱりとしていた。児童の手前、本音は言えない。そういう緊迫感をはらんでいた。

 あはは、そうですかー、と話しかけた彼はわかりやすく頭を掻き、ほかのふたりのところに戻っていった。

 未来はその光景を、すべての意味はわからずとも、なんとなく興味深いものとして見ていた。

 高階は、クラス担任勢の二十代半ばの三人よりは数歳、年上だ。三十路手前の身からすれば、教師といえども新米で年下の男性教師はむしろかわいく見えてしまう。

 そういうことを、未来はもちろんまだ自覚的にはっきりと知ってはいなくとも、見つめているのが好きだった。

 教室の人間たちよりも、おとなたちのふと見せる人間関係が好きだった。このころはとくに熱心に観察していた。

 そもそも、……未来にとっては祖母の天王寺薫子と使用人頭の飯野阿子の関係性だって、よく、わかっていないわけなのだし。

 パネルの用意が終わる。高階が大きな紙をわざと隠すかたちで磁石でパネルにくっつけ、指示棒を持ってパネルの横に立つ。

「あーい、じゃあこれから、保健の特別授業をしまーす」

「エロいやつですか! にょーこ先生!」

 チャレンジャーがチャレンジをした。

「んーにゃ、残念ながら、歯の話ですー」

 高階はぺろりと紙をめくった。そこにはたしかに、口内や歯ブラシやばい菌のイラストがあった。

 えー、と男子たちのまだ甲高い声が上がる。

 未来だけはこのなかでどぎまぎしてそのイラストを眺めていた。

 ――なにせコロの歯みがきがとても気になっているお年ごろなのだ。



 高階京子養護教諭の歯磨き指導。児童たちは保健の授業が思った通りの性教育ではないことに最初は不満を漏らしていたが、高階はそのあたりもうまいことユーモアでいさめ、やがて児童たちは少年というよりもむしろこの年代でぎりぎり保有している子どもらしさを全開に、笑い声や歓声を上げながら、歯磨き指導を聞き始めた。

 たしかに高階京子は優秀な養護教諭であり、ブランド男子校の小学五年生の児童たちのハートを掴んだうえで、ほんらい子どもにとっては耳の痛いことである歯磨き指導をどうプレゼンテーションすれば効果的か、いうことを熟知していた。

 で、あればこそ――高階京子の歯磨き指導は、未来にとてつもない恐怖感を与えた。

『みなさん虫歯になったことはー。ありますかー。はーい、なったことあるひと。いますねー。あのですねー、痛みを感じるところって、人間にはたくさん、あるんですけど、歯だけが例外な理由はなんでしょー。……わかりませんかー。わかりませんねー。それはですねー、歯だけはほっといて治らないんですよー。みなさん、風邪引くでしょ。そのときってあったかくして、果物食べて、ちょっとテレビ見て、寝るでしょ。そうすると、元気な免疫があるうちは治っちゃう。なんですけど、歯はそうはいかないんです。いちど虫歯になったらもうずっと虫歯のまま。進んでくばっかりなんですよー、おとなになったあとのせんせーたちの人生みたいにねー』

 しれっとしている高階の、言った内容というよりはその怠いノリに、何人かが小さく笑う。

 しかし未来は震えていた。

 いちど歯をいためると、治らない。

 いわば――虫歯の不可逆性というものをはじめて知り、震えていた。

 しかも虫歯は超痛いという。

 超痛い。

 飄々としてなにかと強そうなにょーこ先生が、深夜にもんどりかえって救急車を呼んでさんざんひとに迷惑をかけたというエピソードを、これでもかこれでもかこれでもかというほど痛そうに語っているとき、児童たちも、――未来も青ざめてしんとしていた。


 未来は、虫歯になったことがない。コロもだ。

 これは未来も知らないことだが、彼らは虫歯菌が入らないように、幼少期から慎重に管理されていた。虫歯菌は唾液で移る。そして赤ちゃんの口内にはほんらい虫歯菌はいない。つまり、虫歯菌をもつ人間が口移しなどしなければ、感染しない――一般にもそう言われている。

 天王寺薫子のひとり娘で未来の母である天王寺良子が、なぜか小学校高学年のときに虫歯になってしまったときの、天王寺薫子の怒り具合はすさまじかった。天王寺の子が虫歯だなんて。汚い、汚らわしい。自分の歯は真っ白で、良子にも生まれつきの歯並びの悪さを早くから矯正してやった。それなのに虫歯になるなんて。おまえは地味なおぼこのくせに、まさか男とまぐわったのか。せっかく自分も言った伝統ある女子校に入れてやったのに。そのときの唾液なんだろう……。

 良子はそのとき背筋を伸ばしてすっくと立ち、震える声で、けれどきっぱりと返した。太い三つ編みをおさげにし、丸眼鏡をかけて、伝統ある女子校の小等部のほんとうに深層女子校ならではの貞淑風な制服をきっちりと着こなした姿で。

『もちろん、男性と接触などしてません。私は学校に行って、勉強をして、そのまま帰ってきているだけなのに。お母さまは、私のことがよっぽど信用ならないのね』

 薫子は良子のそのまともな答えに、なんだかつまらなくなってしまったようで、騒ぐのをやめたが――未来とコロについてはよく気をつけるよう、裏で飯野に指示をしていた。飯野からすべての使用人に隅々まで指示がいきわたる。コロのことは当然犬扱いではあるのだが、やはりそれは、いわば人間でありながら犬となった子――そういうかたちでの、扱いなのだった。食べものや口にするもの、雑なようでいて、とても慎重に気を配られている。

 なにげなく過ごしているつもりの未来とコロの日常は、裏でさまざまな力や思惑が働いているのだった。そして、莫大な金や労働力も。なにせ彼らの安全を観察するための監視室は、いまも変わらず、淡々と機能していた。一時間どころか、分刻みでも、一般社会ではありえない給料がトントンと換算されていく。

 ちなみに――良子がほんとうに男性と接触していないのかどうかということは、屋敷のなかでもだれも知らない。確認しようがなかったのだ。良子はそういうところがある。抜けめがなく、地味で穏やかで愛想はいいのに、その根底をだれも知らない。

 きっと知っているのはエキセントリックな婿養子として一族でも有名な、良子の夫、そして未来の父でもある、美加登(みかど)くらいであろう。


 未来は、高階の歯磨き講座が終わってみなでぞろぞろと廊下を歩くとき、足どりがふらふらとしていた。

 コロが痛い思いをしたらどうしよう。いや、いまほんとはもう虫歯なのだとしたら、どうしよう。

 だとしても、コロにはどうしようもない。

 それにこれから、コロが虫歯にならないためには、どうしてやればいいのだろう。

 自分はいま、適切な歯磨きのやりかたを教わったから、自分で磨くことができるけど。

 だってコロは自分で歯磨きができないのだ――。


「……コロは、教えてやれば、歯磨きできると思うんだけどなあ」

 周りがざわめいていて未来のつぶやきなんてだれにも聞こえないと思ったから、未来は、その喧騒にまぎれてあえて声に出してつぶやいてみた。

 そのつぶやきは周りがうるさいくせにやけにぽつりと宙に浮かんだ。

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