奇妙に愛することしかできない
柳なつき
しゃこしゃこしゃこしゃこ
彼らはそのとき、小学五年生であった。
ちょっと冷える十月。ふたりはまだそこまで強い違和感なく、ペットの犬と飼い主であった。
プツッ、と42インチの液晶テレビが音を立てて消えた。
ちなみに2003年現在、42インチの液晶テレビというのはもちろん家計に余裕がないと所有できない。そしてもちろん、天王寺家の家計は「余裕がある」とかいったレベルではない。
だが、天王寺家のふたりの子ども――未来と公子は、天王寺家の屋敷のなかでも最奥にある、このいかにもふつうの一軒家を模した居住スペースで、なるべくふつうの家のペットの犬とペットの犬を飼う子どもとして育てられていた。つまりあえて予算を絞って飯野を中心に管理させることにより、、過度なゴージャス感を排除し、地に足のついた生活感が醸し出されていた。
そんな、リビング。……しかし42インチの液晶テレビが設置されているところは、やはりあえて予算は絞るとはいえ天王寺家、ぬかりがないのである。
テレビが急にかき消えて、あーっ、と未来は不服そうな声を出した。
その膝にはいつも通り公子が――犬としてはコロという名前をもつ少女が寝そべっていた。あぐらをかいた未来の膝に両手――というよりいまは肉球のグローブを嵌められたいわば前足を乗せ、その上にあごを乗せ、気持ちよさそうにうとうとしていた。だが未来の声でぱちりと目を開ける。
「……う?」
時刻は夜十時。子どもは眠るべき時間だった。
コロが家でも白いキャミソールという着衣をさせられるようになってから、早一年。公子は身体的には少女としてすくすくと成長していた。公子の第二次性徴期は、継続していたが、その発達は緩めだった。だが確実に続いていた。胸は膨らんできていて、飯野はそろそろ公子のブラジャーをスポーツブラからカップ付きのものに変えなければと思っている。そして公子は、性徴もなのだが、このごろは身長が伸びてきて、幼女らしいふにふに感がなくなった代わりにすらりとしたモデル体型に近づいてきていた。……これは天王寺家のだれもが正確な情報をいまだ掴んでいない、公子の父の遺伝子によるものだった。
「いまいいとこだったのにー、ねえー、なんで消すのー……」
未来はぶつぶつ言いながら振り返った。
そしてすぐにその表情は固まった。いかにも少年らしい生意気そうな反抗的な表情は消え、やべっ、という顔で口の動きがカクカクとぎこちなくなる。
仁王立ちした飯野は激怒していた。
いつもの割烹着を着て、お玉を持って、腕を組んでいた。
漫画であったら、ゴゴゴゴゴ、という音が聞こえてきそうなくらいに、活火山のごとしだった。
「……坊ちゃま。テレビがずいぶん楽しかったようですが。歯磨きは当然いたしましたのでしょうね? 飯野は、坊ちゃまが十時までにはきちんと五分以上ていねいに歯を磨くとおっしゃっていたので、信用したのですよ」
「み、磨いたよ。なっ、そうだよな、コロ? CMのあいだにちゃちゃって……な、な、コロ?」
「コロに頼るとはなにごとですか!」
飯野は大声を出した。未来はびくうっと全身を震わせる。コロだけがのんびりとした様子で、ぱっちりと開いた目で飯野を見上げている。
コロは犬としてしつけられることはあっても、未来のように人間の子どもとして叱られることはない。人間の子ども的なしつけにかんしては、未来に全責任がいく。コロはそういうときにはぱっちりぱちぱち、と未来や飯野を見上げているだけだ。自分が主題ではない、と感じているから、ただ、見ているのだ。
「まったく。どこの子が、ペットの犬に頼りますか。そういう性根に坊ちゃまがお育ちになってしまったことが、飯野は非常に悲しいですよ。そろそろまたいちどおばあさまに喝を入れていただきますかね……」
「あ、そ、そうそう、おれ思い違いしてた、こ、これからやろうと思ってたんだったなー! もう、マジ、いまからソッコーいますぐって感じ! なっ? そうだよな、コロ!」
「だからコロに頼らない!」
「ひっ!」
飯野は、はあ、と大きなため息をついた。腕をほどいて、お玉でトントンと自身の膝のあたりを二回叩いた。
「……コロは犬なのですよ。コロに訊いたり、頼ったりしたところで、コロにはどうしようもございませんでしょ。そうやってコロにかわいそうなことをするんじゃありませんよ。……未来さまがしっかりしなければコロはほんとうにどうしようもないんですからね」
「……二回も言わなくたっていいじゃん……」
「なにか?」
「なんでもなーい」
「それではいまからちゃんときっちり五分間、磨きますね?」
「はいはい」
「はいは一回」
「……はーい」
「今回だけですからね。二回めはないと思ってください。それでは飯野はリビングでコロの歯磨きしながらお待ちしてますからね」
「……ねーえ、飯野さん」
「なんですか。テレビの続きですか。『魔女の宅急便』ならビデオもありますでしょう。続きが観たいなら歯磨きのあとですよ」
「……うん。それもなんだけどー……。コロはずっと飯野さんに磨いてもらうわけ?」
未来はちらっと飯野を見上げてうかがった。
「――なんですか。まさかこんどは磨くのが面倒などと……おっしゃいませんよね。未来さま。まさか犬のようにしてほしいのですか。コロとおんなじがいいと? あぁ、嘆かわしい。未来さまのぐうたらも、そこまで来てしまったとは。それでしたらすでに未来さまは飯野の手には負えません、いよいよおばあさまに報告せねば――」
「わーっ、わーわーわーっ、ちがーう、なんでもなーい、自分で磨けるし! 歯磨きくらい、自分でできるし! 僕、人間だしー!」
未来は勢いよく立ち上がる。その勢いで、コロが投げ出された。未来はそのまま、ばたばたばたと騒々しく洗面所へ駆けていった。バタン、と洗面所の扉を開ける音。ジャーッ、という水道の音。
コロはカーペットの上に投げ出されたままの格好で、仰向けと横向きのあいだくらいの体勢で、きょとんとして目をぱちくりさせていた。嵐が過ぎ去ってなにがなんだか、といった表情だった。自身の主人が部屋からいなくなったことを確認すると、「……きゅう」と小さく鳴いて、おすわりをして態勢を整えた。
飯野はサングラス越しにコロを見下ろした。
「あぁ、コロ。うるさかったですね」
「……んぅ。わたし、ちょっとうとうとしてたから……猫さんの声は聴いてたんですけど」
「猫さん?」
「魔女の、黒猫さんです」
「ジジですか。あなただってあれなんども見てるでしょう」
「ん……名前は、覚えてるんですけど。わたしと似てるなぁって思うから……」
「似ている? あなたはジジほど生意気ではないでしょう」
「……うん。そうかもしれないんですけど」
公子はごろんと仰向けになって、眠たそうにしながらも小さく笑った。
「あの猫さんも、わたしとおなじで、人間の言葉がしゃべれるから」
「……はあ。そうですか。また妙なところを……あぁ、そんなことはいまどうでもよろしい。歯磨きしますよ、コロ。未来さまが戻ってこられる前にあなたも済ましてしまわないとね」
未来にあのように怒ったわりには――飯野は、コロを犬扱いしない。
……コロはそもそもほんとうは犬ではないのだから――いくら飯野とはいえ、完璧な催眠術でも開発されなければ、コロを犬として認識することは、やはり難しい。
けど、やっぱり。
コロの両手には肉球のグローブがはめられているし、その手はけっして歯ブラシをつかめないことも、変わりない。
「わう」
コロは、「お願いします」のしるしに、鳴いた。
しゃこしゃこしゃこしゃこ。
テレビも消した静かなリビングでは、コロの歯を磨く音がくっきりとして大きい。ほかにいまここにある音と言えば、アナログ時計がちくたくと秒刻みする音と、空調管理のためのエアコンが稼働する音。
しゃこしゃこしゃこしゃこ。
歯磨きをされているあいだもコロはとてもいい子だ。「あーんして」と言われればあーんとするし、「いーってして」と言われればいーっとする。十一歳の女子らしき恥じらいやためらいは、どこにもない。飯野はコロにも反抗期くらい来るかと思っていたようだが、……自分の甘い見通しをいまでは反省している。
この子が反抗、できるわけないと。人間の子どもとは違う……親にいくら当たっても最後は保護してくれんだろくらいに考えている、あまあまの子どもたちとは。
コロの根源にはいまも捨てられるかもしれないという気持ちがまっくらな底なし沼として存在している。
こんなに無防備にまるで幼稚園児みたいにあーんともいーっともしていながら。
しゃこしゃこしゃこしゃこ。
リビングのケージのそばでコロはいつも歯を磨いてもらう。体勢としては「おすわり」だ。赤い首輪からつながるリードは、いつも通りにダイニングテーブルの脚につながれている。コロはいつでも繋がれていなければならない。犬だから。
しゃこしゃこしゃこしゃこ。
飯野はコロの歯を丁寧に磨き続ける。虫歯にぜったいならないように。それも、飯野の責任の範疇だ。もちろん。
コロは病院にかかることによるリスクが未来よりもずっと、高い。リスクというのは、コロが体調不良で意識が朦朧としてなにかを口走ってはいけないという点もそうだし、病院にかかったらコロはもしかしたら人間扱いに慣れて目覚めてしまうかもしれないからだ。風邪を引いたら天王寺家懇意の内科医に来てもらっているが、歯科というのはなかなか呼べるものでもない。
しゃこしゃこしゃこしゃこ。
コロはいい子に歯を磨かれている。
人間のプライドもなにもなく。
ただ、なされるまま、歯ブラシを口に突っ込まれて動かされて撫でられて当てられて、そういうのを、ただ甘受している。
それが、天王寺公子、だった。
しゃこ……。
「おしまいです。コロ。良い子でした」
飯野がコロの頭をひとなですると、コロは嬉しそうに「きゃう!」と鳴いた。
飯野はそんなコロを目を細めて見ると、「おうがいセット持って来ますからね。ついでに未来さまのようすも見てきますから」と言って、洗面所へ消えていった。
深夜の十一時過ぎ――けっきょくあのあと最後まで『魔女の宅急便』を見ることのできたふたりは、そのあとすぐに寝なさいと飯野に言われた。いくら明日が土曜で学校が休みだからと言って、日付を超えてはいけません、と。飯野は、あれであんがい教育に厳しい。まっとうな教育をしようとする。それは――この家で飼われている少女の異常性のことを、骨身にしみて理解しているからであろう。それであれば、せめてほかのことは、……まっとうにしたいと、まっとうであるべきだ、と。
電気も消した暗い部屋。未来の部屋――そしてじっさいの実質的には、未来とコロのふたりの部屋。
きょう、ふたりはもうこれから眠るだけだった。未来は巨大なベッドであおむけになって目を開けている。コロはケージのなかでリラックスして丸まっている。冷えてくる時期、コロのケージにもちゃんとふかふかの毛布が与えられている。あたたかさは確保されているが、一枚きりだ。犬らしく。その一枚のふとんで自身の全身をくるんで、コロはまゆのように毎晩眠る。肉球のグローブをはめられた両手で、不器用にその柔らかさを掻き抱いて。
いま、コロはもうなかば眠りの世界にいた。コロは寝つきがいい。いっぽう、未来は寝つきが悪い。ずっと天井を見つめている。
未来はごそ、とコロのケージの方向に寝返りを打った。
「……コロはさぁー……」
未来はぼそっと言った。コロのケージからもごそごそっと音がした。
「……んう。未来さま……?」
「うん。寝てた? 眠い?」
「……うーう、眠たい、ですけど、未来さまが呼んでくれたなら……だいじょぶー……」
「コロさぁ、歯みがき、ずっとあれでいいの?」
「……歯みがき……?」
「ずーっとさ、飯野さんにみがいてもらってるじゃん。あんなの、赤ちゃんみたいだよ。っていうか、コロは犬だけどすっげえ賢いんだから、ふつうに人間みたいにできるんじゃねーの? 歯みがきくらい僕が教えてやるよ。手だってさ、その下さ、なんか人間とおなじで指もあんだしさ……」
コロはケージのなかでばた、とあおむけになった。そして透明な無表情をする。……未来にはそこまでは見えていない。
「……でも、それは、違う気がするのですねえ」
「なにがだよ。僕の言ってることは、正しいだろう?」
「……うーん。コロが人間だったら、そうかもしれないんですけど……」
真っ暗闇のなかで、コロも、いまは目を見開いていた。
なにも映さないたぐいの瞳で。
「コロ、犬ですから」
暗闇と同質、あるいはもっと深い虚ろさがその瞳にはあって――それは病みや痛みというよりも、判断を完全に停止した人間の持ち得る、目だった。……とくに本人は幸せとも不幸せとも思わず、そういうものだ、と、すべてを受け入れている人間の、それだった。
……だってそっちのほうがきっとずっと、らくに、生きられるのだし。
それであるから、コロの――公子のその言葉は、ひどくきっぱりとして響いた。
未来はなんだかなにも言えなくなってしまい、「……ふんっ」と子どもならではの幼稚な捨て台詞を残すと、おおげさに寝返りを打ってコロのケージにがばりと背を向けた。
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