第2話:手を伸ばせないもの、そのいくつか。(二)
窓辺をいろどる桜の花が、色鮮やかな青葉によそおいを変えた頃。梅雨明けを迎えた空の下、
ペタ ピチャ ペタ ペタ
水をまとった足音が、やけに耳につく。
プールからあがり、ゴーグルと水泳帽を取った
「────はさ、カラダだけ見ればエロいよな」
すり抜けざまにふと聞こえた言葉の生々しさに、
「……はぁ?おまえブス専かよ。さすがにあの顔じゃ勃たねぇって」
同級生の口から
うなだれた淳也の視界を満たすコンクリートの足場は、つま先からしたたる水にぬれ、ひどく黒ずんだ色に染まっていた。一歩ふみ出すたび、プールサイドにたまった太陽の熱が足の裏を焼く。やけど防止の水まきを
「お前らー!この
飛び込み台のかたわらで、体育教員が声を張りあげた。しきりに手元の腕時計を気にしているところを見るに、どうやら時間が押しているらしい。
「えー!自由時間はー⁈」
教員の言葉を聞いた男子生徒のひとりが、すかさず不服の声を上げた。
「残念ですが、今日はありまセンネ」
「なんだよソレー!」
にわかに生徒から沸き起こる不満の大合唱。それを
塩素の匂い。
汗の匂い。
肌にまとわりつくワイシャツ。
すし詰めになった
蒸しかえるプール更衣室。
古ぼけた扇風機が首を振るたびキィと鳴る。
カチッ カシッ カチッ
じっとりと汗のにじむ襟元で、ボタンを
上手く
第一ボタンが、留められない。
「……五限がプールとか、ぜってぇ六限目ねむくなるヤツじゃん。しかも授業変更で、まさかの国語らしいしさー」
「なー淳也。オレ寝てたら起こしてくんね」
「…淳也?」
ワイシャツの第一ボタンに集中していた淳也は、怪訝そうな友人の
「ぁ、え、なに?」
淳也は首を
「…なに、留めらんねーの?」
「────、うん」
「つかボタン、いっこズレてんぞ」
「えっ」
どこ。
そこ。
ここ?
いや、違う。
いくつかの言葉のやりとりを挟んだあと、
「あーもう貸せよ、俺がやる」
日に焼けた肌。
シワの寄った
伏せられた目元。
第二次性徴、
同性ゆえの距離感は、どこまでも無遠慮で、無警戒で。
友人が示したのは、ごくありふれた手放しの厚意だった。
それに比して湧きあがったこの感情は、友愛とはほど遠い。
『エロいよな』
プールサイドで聞こえた男子生徒の声が、ふいに耳元でこだました。もし仮に、この感情に、感覚に、名前をつけるのだとしたら。「恋」や「成熟」という言葉で片付けるには、あまりにも血肉じみている。
初めて自覚した、未知であり既知のそれは、思春期の少年が素手で触れるにはひどくグロテスクな手触りをしていた。グジュリと内臓を掻き回すような生々しさが、ゆっくりと鎌首をもたげていく。呼吸を忘れるほどの焦燥が、淳也の背筋を駆けていった。
これはきっと、誰にも悟られてはならない感情だ。
おそらくそれは、咄嗟に弾きだされた自衛手段だった。
「────ッ、!いいって‼︎」
友人の手を振り払いながら放った声は、自分でも聞いたことがないほど鋭く
────ああ、まずい。
即座に淳也は、自身が墓穴を掘ったことに気がついた。周囲から一手に集まった視線が、深く肌に突き刺さる。頭の先からつま先まで、一気に血の気が引いていった。
驚愕、困惑、詮索。それらの感情がない混ぜになった
嫌だ。
いやだ。
見ないで。
触れないで。
見つけないで。
誰も、何もかも。
俺を見つけないで。
「…え、なにお前。
ふいに部屋の隅から、その場にはそぐわぬ呑気な声が響いてきた。思わぬ方角からの
「……は、『なにした』っておま、はぁ⁈なんでオレがやらかした前提なんだよ!ふっざけんな
友人が怒鳴った方向に目をやると、ひどく淡白な顔立ちの少年が悠然と髪を拭いていた。その少年の周りだけ、緊張感とは無縁の空気が流れている。四月のはじめに友人が好奇の目を向けていた“タカショー”出身のクラスメイトの一人だった。
「え、だって
小首を
「…や、マジでなんもしてねーし……」
「……ふぅん?じゃービックリしただけか」
山下の言葉を受けた友人が、淳也に「そうなん?」と問いを振った。淳也は黙ってコクコクと頷く。それを見た友人が「なんだ、」と表情を和らげた。ふたりの一連のやりとりを見たあと、山下はニッと口角を上げた。
「…ある意味ラッキーだな、お前。めっちゃレアな
そうこぼした彼の口ぶりは、どこまでも気の置けない不思議な大らかさがあった。
「……フ、んだそれ」
山下の笑みにつられて友人も吹き出す。それを合図に、場の空気が日常へと立ち返っていった。淳也たちを取り囲む空間に、さざ波のように雑談の声が広がっていく。その波の変わりざまは、
淳也は安堵の息をつくと、友人に謝罪を述べた。
「…大きな声だしてごめん」
「いーって、気にしてない。それより早く着替えよーぜ。六限、間に合わなくなるぞ」
「うん」
いつもどおりの距離感。友人同士の会話だった。緊張で冷えていた指先に、体温が戻ってくる。現状を
教室へもどる道すがら、淳也は山下の姿を探した。山下と話してみたかった。しかし、特徴に欠ける彼の容姿もあいまってか、
……でも。
同じクラスにいるのなら、きっとまた話す機会もあるはずだ。
六限目の教室で、国語教諭の声を子守り唄に健やかな寝息を立てる山下の背中を眺めながら、淳也はウトウトとそんなことを思った。
スノードームと菓子ブーツ 玉門三典 @tamakado-minori
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