第2話:手を伸ばせないもの、そのいくつか。(二)

 窓辺をいろどる桜の花が、色鮮やかな青葉によそおいを変えた頃。梅雨明けを迎えた空の下、飛沫しぶきにぬれ陽光をたずさえたプールサイドは、涼しげな水音を学舎まなびやのふちに響かせていた。


 ペタ ピチャ ペタ ペタ

 水をまとった足音が、やけに耳につく。


 プールからあがり、ゴーグルと水泳帽を取った小野おの淳也あつやは、ただ黙々とプールサイドを歩いていた。ペタリペタリと響く足音のかたわらを、男子生徒らの談笑が追い越していく。まだまだ幼い背中を日にさらす彼らの声は、どこか虚勢きょせいまじりの奇妙な熱っぽさがあった。


「────はさ、カラダだけ見ればエロいよな」


 すり抜けざまにふと聞こえた言葉の生々しさに、淳也あつやこおりついた。淳也あつやが舌の上で転がすには、気恥ずかしさと粘り気がり勝つ単語だった。居たたまれなくなりうつむくと、濡れそぼった淳也あつやの髪の先から、水とも汗ともつかない生ぬるい雫がポタリと垂れた。

「……はぁ?おまえブス専かよ。さすがにあの顔じゃ勃たねぇって」

 同級生の口からはなたれた野卑やひな物言いは、淳也あつやたちが思春期の真っ只中に身を置いていることを知らしめるに充分な威力を持っていた。字面じづらとは似つかない幼気いたいけな羞恥が言動の端々はしばしにじんではいるが、「もう子どもではないのだ」と張り合うさまは、成熟への憧れや見栄を皮肉なほど無邪気にあらわしている。無邪気の先に据えられた成熟が、淳也は後ろめたかった。

 うなだれた淳也の視界を満たすコンクリートの足場は、つま先からしたたる水にぬれ、ひどく黒ずんだ色に染まっていた。一歩ふみ出すたび、プールサイドにたまった太陽の熱が足の裏を焼く。やけど防止の水まきをおおせつかった見学者たちがホース片手に冷水を流してはいるが、まいたそばから水が湯へと変わっていた。

「お前らー!この一巡いちじゅんが終わったら全員あがれー!」

 飛び込み台のかたわらで、体育教員が声を張りあげた。しきりに手元の腕時計を気にしているところを見るに、どうやら時間が押しているらしい。

「えー!自由時間はー⁈」

 教員の言葉を聞いた男子生徒のひとりが、すかさず不服の声を上げた。

「残念ですが、今日はありまセンネ」

「なんだよソレー!」

 にわかに生徒から沸き起こる不満の大合唱。それをさえぎらんばかりに、ホイッスルの音がひときわ高く鳴りわたった。授業の終わりを告げる合図だった。なおもくすぶる不平のさざめきを引き連れて、育ちざかりの素足たちはペタペタと足音を立てながら男女それぞれの更衣室に流れ込んでいった。


 塩素の匂い。

 汗の匂い。

 肌にまとわりつくワイシャツ。

 すし詰めになった人熱ひといきれ。

 蒸しかえるプール更衣室。

 古ぼけた扇風機が首を振るたびキィと鳴る。

 カチッ カシッ カチッ

 じっとりと汗のにじむ襟元で、ボタンをはじく小さな爪音つまおとが響いていた。指先が手汗でしめって滑る。手元の狙いが定まらない。

 上手くめられない。

 第一ボタンが、留められない。

「……五限がプールとか、ぜってぇ六限目ねむくなるヤツじゃん。しかも授業変更で、まさかの国語らしいしさー」

「なー淳也。オレ寝てたら起こしてくんね」

「…淳也?」

 ワイシャツの第一ボタンに集中していた淳也は、怪訝そうな友人の声色こわいろでようやく自身が話しかけられていることに気がついた。

「ぁ、え、なに?」

 淳也は首をうつむけたまま、視線だけを友人のほうへと返す。問いかけてきた友人を、淳也は直視できなかった。頭の上で、キィ、ときしんだ音が鳴る。古びた扇風機が、生ぬるい風を淳也たちへと送っていた。その風にあおられて、濡れた毛先からポタリポタリと雫が落ちる。

「…なに、留めらんねーの?」

「────、うん」

「つかボタン、いっこズレてんぞ」

「えっ」


 どこ。

 そこ。

 ここ?

 いや、違う。

 いくつかの言葉のやりとりを挟んだあと、


「あーもう貸せよ、俺がやる」


 れた友人のため息が、ふつりと会話を断ち切った。友人は無言で淳也の襟元に手を伸ばす。きょかれた淳也は、返事をする間も与えられないまま、シャツごと体を引き寄せられていた。気がついた時には、もう友人の顔が目の前にあった。淳也が手を伸ばせば、触れてしまえるほどすぐそばに。


 日に焼けた肌。

 シワの寄った眉間みけん

 伏せられた目元。

 第二次性徴、過渡期かとき肢体したい

 同性ゆえの距離感は、どこまでも無遠慮で、無警戒で。


 友人が示したのは、ごくありふれた手放しの厚意だった。

 それに比して湧きあがったこの感情は、友愛とはほど遠い。


『エロいよな』


 プールサイドで聞こえた男子生徒の声が、ふいに耳元でこだました。もし仮に、この感情に、感覚に、名前をつけるのだとしたら。「恋」や「成熟」という言葉で片付けるには、あまりにも血肉じみている。

 初めて自覚した、未知であり既知のは、思春期の少年が素手で触れるにはひどくグロテスクな手触りをしていた。グジュリと内臓を掻き回すような生々しさが、ゆっくりと鎌首をもたげていく。呼吸を忘れるほどの焦燥が、淳也の背筋を駆けていった。


 はきっと、誰にも悟られてはならない感情だ。


 おそらくそれは、咄嗟に弾きだされた自衛手段だった。

「────ッ、!いいって‼︎」

 友人の手を振り払いながら放った声は、自分でも聞いたことがないほど鋭くとがっていた。そのひと言で、更衣室内が水を打ったように静まりかえる。

 ────ああ、まずい。

 即座に淳也は、自身が墓穴を掘ったことに気がついた。周囲から一手に集まった視線が、深く肌に突き刺さる。頭の先からつま先まで、一気に血の気が引いていった。

 驚愕、困惑、詮索。それらの感情がない混ぜになった耳目じもく渦中かちゅうに、淳也はひとり立っていた。言いようもない後ろめたさと恐怖が、淳也の肺を満たしていく。

 嫌だ。

 いやだ。

 見ないで。

 触れないで。

 見つけないで。

 誰も、何もかも。

 俺を見つけないで。


「…え、なにお前。小野おの君になにしたの」


 ふいに部屋の隅から、その場にはそぐわぬ呑気な声が響いてきた。思わぬ方角からの一石いっせきに、全員の関心がさらわれる。

「……は、『なにした』っておま、はぁ⁈なんでオレがやらかした前提なんだよ!ふっざけんな山下やました‼︎」

 友人が怒鳴った方向に目をやると、ひどく淡白な顔立ちの少年が悠然と髪を拭いていた。その少年の周りだけ、緊張感とは無縁の空気が流れている。四月のはじめに友人が好奇の目を向けていた“タカショー”出身のクラスメイトの一人だった。

 山下やましたと呼ばれた少年は、頭に被っていたタオルをシュルリとはずしてから、のんびりと言葉を続けた。

「え、だって小野おの君が怒るってよっぽどだろ。俺はじめて見たもん」

 小首をかしげて淡々と話す山下やましたの顔つきは涼しげで、まるで世間話でもしているようだった。その振る舞いは宥めるでもなく咎めるでもない。彼に噛みついていた友人の口調も、しだいに毒気が抜けていく。

「…や、マジでなんもしてねーし……」

「……ふぅん?じゃービックリしただけか」

 山下の言葉を受けた友人が、淳也に「そうなん?」と問いを振った。淳也は黙ってコクコクと頷く。それを見た友人が「なんだ、」と表情を和らげた。ふたりの一連のやりとりを見たあと、山下はニッと口角を上げた。

「…ある意味ラッキーだな、お前。めっちゃレアな小野おの君じゃん」

 そうこぼした彼の口ぶりは、どこまでも気の置けない不思議な大らかさがあった。

「……フ、んだそれ」

 山下の笑みにつられて友人も吹き出す。それを合図に、場の空気が日常へと立ち返っていった。淳也たちを取り囲む空間に、さざ波のように雑談の声が広がっていく。その波の変わりざまは、うずの外からポチャンと石を投げ込まれたかのようだった。

 淳也は安堵の息をつくと、友人に謝罪を述べた。

「…大きな声だしてごめん」

「いーって、気にしてない。それより早く着替えよーぜ。六限、間に合わなくなるぞ」

「うん」

 いつもどおりの距離感。友人同士の会話だった。緊張で冷えていた指先に、体温が戻ってくる。現状をかんがみれば、淳也が抱える後ろめたさの解決は何ひとつしていない。してはいないのだ。…けれど。他愛もない会話をできることが、どうしようもなく嬉しかった。底知れない不安に、淳也は無意識で蓋をした。


 教室へもどる道すがら、淳也は山下の姿を探した。山下と話してみたかった。しかし、特徴に欠ける彼の容姿もあいまってか、ついぞ見つかることはなかった。


 ……でも。

 同じクラスにいるのなら、きっとまた話す機会もあるはずだ。


 六限目の教室で、国語教諭の声を子守り唄に健やかな寝息を立てる山下の背中を眺めながら、淳也はウトウトとそんなことを思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スノードームと菓子ブーツ 玉門三典 @tamakado-minori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ