スノードームと菓子ブーツ

玉門三典

第1話:手を伸ばせないもの、そのいくつか。


 ───…幼い頃の憧憬を、いつまでも捨てられないでいる。


 小野淳也おのあつやには、クリスマスの季節が近づくと決まって頭をよぎる幼稚な憧れがふたつあった。

 キラキラ輝くスノードームと、色とりどりの菓子が詰まったサンタブーツ。

 それらはいずれも、富裕層の者だけが手に取ることを許されているような、極端に高価な品ではない。しかし、こと淳也あつやにとっては縁遠い存在であった。淳也あつやの家が貧しかったわけではない。むしろ彼が育った家庭は、どちらかと言えば裕福な部類に振り分けられるものだった。

 衣食住、さらには進学、どれを取っても金銭的に不自由な経験をしたことは一度も無い。愛情が注がれなかったわけでもない。手入れの行き届いた黒髪や、ツヤのある肌、そして何より“愛され慣れている者”特有のどこかゆったりとした受け答え方は、淳也あつやが親から惜しみない愛情を受けて育てられたことを示すには十分だった。

 …だから、

「俺は恵まれてる」

 それは自覚している。感謝もしている。

 けれど。


「みんな貴方のためなの」

淳也あつやも大きくなったらきっと、お母さんの言ってることが分かるようになるから」


 淳也が反論しようとする時、母が決まって口に出す言葉。それが淳也は苦手だった。母がそう言って涙ぐむたびに、底知れぬ息苦しさが肺を満たし、淳也の反抗の意をいだ。

「貴方のため」という母のまじないことばは、淳也からありとあらゆる“あぶないもの”を遠ざけた。

 小学生の頃、淳也の登下校は決まって母の運転する車だった。淳也には通学団の子と遊んで帰った記憶がひとつも無い。“道草”という言葉を知ったのは、買い与えられた児童書を読んでいた時のことだった。

 遠足で、駄菓子の代わりに全て手作りの菓子を持ってきたのは、学年で淳也ただひとりだった。可愛らしく作り込まれたクッキーは同級生からの羨望を集めたが、菓子を交換しあうことは叶わなかった。「よその子」から食べ物を貰うことは、母親から固く禁じられていた。淳也の母は、食品添加物や合成着色料が淳也の口に入ることをひどく恐れていた。淳也が生まれて初めてファストフード店の商品を口にしたのは、大学進学の折に下宿生活を始めた時だった。

 本屋でねだってみた漫画は、「淳也が乱暴な子になって欲しくないの」と棚に返された。仲間を守るために戦うヒーローは、淳也の母親にとっては暴力をふるう悪者でしかなかった。淳也の部屋の本棚には、研究者の伝記や図鑑、有名な文学作品しか並んでいなかった。淳也が自らの意思で選んだ本の数は、片手に収まる程度だった。

 それでも小学校を卒業するまで、苦痛を感じたことはほぼなかった。母は決して淳也に手を上げず、よほどのことがない限り声を荒げることすらなかった。淳也への過保護さは否めないものの、それ以外の場面では必ず筋の通ったさとし方をしてくれた。苦手なものや出来ないことがあると、淳也が克服するまで何度でも一緒に向き合ってくれた。

 友人からは「優しいお母さん」として羨ましがられ、淳也自身も誇らしく感じていた。

 転勤が激しい父は滅多に家にいなかったが、寂しさを覚えたような経験もあまりない。盆と正月以外はほぼ母ひとり子ひとりの状態ではあったが、賑やかな毎日だったように覚えている。母は淳也が「行きたい」と言った場所には大体連れて行ってくれたし、細かな季節の折々にささやかなイベントごとを催して楽しませてくれた。母が父の転勤について行かなかったのも、ひとえに淳也にかかる負担を避けるためだった。

 幼い頃の淳也にとっては、母が選ぶものこそが正解であり、世界の全てだった。

 しかし中学へとあがってほどなくした頃、淳也の中に小さなひずみが生まれはじめた。真新しい制服に袖を通し、まだ馴染みの薄い学舎まなびやの門をくぐった日。窓から桜の花びらが舞い込むクラスの中には、淳也の見知らぬ顔ぶれがちらほらあった。

「……あいつらたぶん、タカショーの奴らだろ?」

 背後の聞き馴染んだ声に淳也が振り向くと、小学校から仲の良かった友人が、「オレも2組。またよろしく」と笑っていた。

 よろしく、と返したあと「タカショー?」と尋ねると、友人は妙に興奮した様子で彼らのことを語り出した。

「あれ、アツヤ知らねーの?ほら公民館のこっかわにある…あのちっちぇー学校ガッコ。タカなんとか…、って名前分かんねーからやっぱタカショーでいいや。ま、とにかくあそこの奴ら」

 ふいんきちげーからすぐに分かんのな。と友人は淳也に耳打ちし、躊躇う素振りもなく“タカショー”の彼ら彼女らへ好奇の視線を注いでいた。新しい環境に現れた“新入りたち”に、友人はすっかり浮き足立っていた。

 淳也は友人の反応にいまひとつ乗り切れず、「そう?」と曖昧に相槌を打った。友人との付き合いが長い淳也には、彼の態度に攻撃的な意図がないことが理解できるが、ぶしつけな振る舞いには違いない。

「あんまジロジロ見んのはよしたほうがいいんじゃない?あっちからしたら居心地悪いだろ、ソレ」

「なんだよー。ツレないなーアツヤ君は」

 淳也はかるく肩をすくめ、友人の軽口をやんわりといなした。友人のほうも食い下がる素振りはなく、はやくも教室内の顔なじみへとその関心をうつしている。

「――うわ、やっぱあいつもスカート履いてんだ。なんか……見慣れねーな」

 友人の声にいつもとは違う淡い色のような気配を感じて目をやると、彼の視線の先でひとりの少女が笑っていた。「あいつ」と呼ばれたその少女をしばし見て、淳也はああ、と納得する。どうやら友人は、その少女に訪れたよそおいの変化にひどく驚きをいだいたようだった。

 つい数週間前、小さくなったランドセルを背負ってまだ歩いていた頃。彼女のトレードマークとして長らく定着していたのは、快活な笑顔とズボン姿だった。その同級生が突然、進学を機にスカート姿に変わったのだ。

 確かに活発さが際立っていた今までの印象とは若干の齟齬がある。しかしそれは、少女の印象を損ねるような違和感ではなかった。むしろ――――――

「ほんとだ。よく似合ってるね」

 こともなげにサラリと呟いた淳也の言葉に、友人はギョッとした顔を向けた。

「え、あ、お前……?」

「うん?」

 なにげなく見かえした友人の表情には、ほんのりと敵意のまじった疑問符が浮かんでいる。その表情の意味を即座に理解し、淳也は慌てて手を横に振った。ひらひらとなびかせた手のひらが、白旗の意だと伝わるように。

「ああ、違う違う。誤解しないで」

「な、バ――、俺はなにも」

 なんのりきみもなくアハハと笑う淳也とは対照的に、言葉を詰まらせた友人の頬は真っ赤に染まっていた。その初々しい光景に、淳也は「恋」という言葉を結びつかせる。胸の奥にどこかひりついた痛みを覚えたような気がしたが、その時の淳也はまだ、その痛みの正体を探るすべを持たなかった。

 かすかに軋んだ心臓の音は、直後によぎった「貴方のため」という母のまじないに掻き消されたのだ。聞き慣れたはずの母の声が、なぜかひずんで聞えた。

 小学生という児童期を終え中学生となった淳也たちは、心身ともに子どもから大人へと変わっていく繊細な過渡期に足を踏みいれようとしていた。

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