第10話

 いつもの中庭に、いつもの彼がいた。


 病み上がりのくせに、いつもと変わらず剣を振っている。


「ギヨーム・ロラゲ!」


「ティロル……。どうしたの?」


 木剣を腰に納めた彼は軽く息を吐きながら、ティロルの声量に目を丸くする。


 ──私だって声を張るときはある。


 でも、それは意識して行った時だ。


 思わず、それも目の前にいるのに大きな声を出すなど、初めてだ。


 戸惑いもする。


 胸の中で火花が何粒も爆ぜ、抑えればすぐに燻ってしまいそうだ。


 燻った感情を、溜め込んだ結果を一例だけ見たことがある。


 当時通っていた学校から帰って、寂しくとも思い出が詰まった扉を開けて漂ったのはアルコールと糞尿が入り混じった、死神が絶望を引き取っていった匂いだ。


 これは、死に値する感情なのかと問われれば、ティロルは否定するだろう。


 だが、いつか姿を見せる死神が突きつけてくる光景が、今見ている景色にされることは望まない。


「私が、あなたに剣を教える!」


 突きつける本は、図書室から借りてきたものだ。

 ちゃんと、正式な手続きを踏んでいる。


 貸出期間は図書委員が定める最大日数。

 対抗戦の当日まで。


「君が? 剣も握ったことないのに?」


「ない! でも、私には私のコードがある!」


 ティロルは己の手の甲、浮かぶコードを見せる。


 本の形をしたコード。


 用兵科副主任教師──イサベル・アウストリアと同じ形状だ。


 アウストリアのコードは記憶。彼女が見聞きしたものを記録という形で記憶する。


 対し、ティロルのコードは、

「私のコードは〝伝える〟こと。私が見聞きしたものを正確に伝えることが出来る!」


 イアイギリについてティロルが本から正確に理解したとき、彼女はその内容を正確に伝えることが出来る。


 伝えられると言っても、彼女が会得できるわけではない。彼女には、それだけの身体能力がないからだ。


「あなたは私から剣を教わる! 私から教われば、あなたの剣は完璧になる!」


「どうして?」


 ──どうして?


 どうして、あなたは目の前に楽な方法が転がっているのに目を逸らすのか。黙って受け止めればいいのに。そうすれば、あなたはもっと強くなれるのに。


 ──理由が欲しいのね。


 ならば、与えてあげよう。


 ときに、人は生きるのにも意味を必要とする。 


 見失った人間は、世界から隔絶を望む。


 ならば、与えてやろう。


 世界から、現実から逃げられなくなるようなリアルで冷徹で、ロマンティシズムの

欠片もない理由を。


「私に氷を買いなさい!」


「こ、氷?」


「そう、氷。

あなた、お金持っているでしょ! 訳あって私には氷が必要なの。知っている? 氷っ

て高いのよ。士官学校からの給与だけじゃ間に合わないぐらいに!」


 どっちが上だとか、下だとか。


 誰が会話の流れを掴んでいるだとか。


 関係ない。


 対等だ。


 対等になろう。


「私と契約を結ぶの。あなたは私から剣を教わる。その報酬に、私はあなたから氷を買ってもらう。どう、商家出身のあなたにとってはとてもわかりやすいでしょ?」


 伝えることは伝えた。


 あとは、彼が頷くかどうか。


 蛹はまだ殻を破らない。


 暗所の中、窮屈に身を寄せて、やがて空を羽ばたくための翅を準備している。


 この世界は運命によって廻る。


 でも、取捨選択は人の手の中にある。


 掴め。手は伸ばした。


 あとは、もう片方の手が掴んでくれるのを待つだけだ。

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かつて英雄だった君たちへ。 白夏緑自 @kinpatu-osi

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