第9話
お互いに平行線。
それが、昨日の医務室でティロルとロラゲが出した結論であった。
お互いに相手の意見を聞く義理もなければ、従わせる義務もない。
「あそこまで運んだ、衛生科の私の意見を聞く義理は彼にあるのでは……?」
ゴルトンの言を借りれば、主治医の指導には従うべきなのではないだろうか。そう考えると、無性に腹が立ってくるが、怒っても仕方がないことだ。
この日も、ティロルは図書室にいた。
カウンターにではない。
今日は当番の日ではないが、利用者として本棚に挟まれている。
雪中蝶の幼虫が蛹になったのだ。
蛹になれば、与える餌について思案する必要は無くなるが、飼育方法は知っておくべきだろう。ロラゲが倒れた日、用兵科副主任──イサベル・アウストリアに教えてもらった本を探すことにした。
大方、飼育場所の温度や湿度などが重要になってくるのだろう。個人的な、自室の中で可能な要求だとありがたいと期待しながらの探索だ。
「たしか、このあたり」
動植物の飼育についての蔵書数は、他ジャンルに比べてトップクラスに少ない。寮での動物の飼育が禁止されていることもそうだが、士官学校にそれらを学ぶ学科が設立されていないことが要因だろう。
ゆえに、目当てはすぐに見つかった。
雪中蝶の蛹の飼育方法。
本来、雪や日の当たらない影に隠れて変態を遂げるこの種を人工的に孵化させる場合、最善は雪や細かく砕いた氷を用意することである。
「これは少し難しいわ」
今の季節は晩春。異常気象が起きない限り、雪は降らない。
だとすれば、細かく砕いた氷だが、
「氷雪系のコードか、魔法が使えた人なんていたかしら」
街で買うのも、選択肢の一つだが、値は張るし、そう毎日外出は不可能だ。現実的ではないので却下。
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先に記したいずれも用意が難しい場合、虫かごに布をかぶせ、日の当たらない暗所など、できるだけ温度の低い場所での飼育が好ましい。雪中蝶は温度に弱い種であるので、之を重々気を付けるべし。
シンプル。簡単だ。気温に気を付けろ。できるだけ冷やせ。要点はこれだけ。
ゆえに、難しい。
さて、どうしたものか。
ひとまず、布を用意するべきだろう。持ち合わせ、例えば、シーツなどで代用はできるだろうか。だが、日に日に気温が上がっているこの頃だ。下手をすれば、熱がこもって逆効果を与えてしまいかねない。
やはり、一番は氷の用意。
知り合いの顔を思い浮かべても、適当な人物は巡り合えない。
負傷者へのアイシング用の氷を、衛生科の氷室から拝借するのもアリだが、氷は貴重品だ。入退出、持ち出しには申請が求められるので、これもあまり気乗りしない。
どうしたものか。頭を抱えていると、声をかけてくる人物がいた。
「やーやー、ティロルじゃないか。どうした浮かない顔をして。ムカつくやつでもいたか」
本の入ったカートを押した、オレンジの髪の女。
「委員長」
「いかにも、私がエルゼール士官学校、技術科二年、図書委員長のマルガリータ・フェルディナントだ」
彼女は、カートから手を放し、腕を大きく広げ、周囲に名乗りを響かせる。
「委員長。図書室ではお静かに」
「おっと、すまない。つい、テンションが上がってしまっていてね」
テンションが高く、声がデカいのはいつものことだろうと思うが、爆発が怖いので黙っておく。この女、いたるところに己のコード──〝爆発〟を仕込んでいる節がある。
ある意味で、今一番ティロルが求めていないタイプの人物だ。
フェルディナントでは、温度をあげられても下げることはできない。
「なにか良いことでも?」
一応、訊いておく。図書委員の仕事に関わる部分であるかもしれない。
「そうだ、聞いてくれ。そして、喜べ。私の城に蔵書が増えるぞ」
そういって、フェルディナントがティロルにカートの中身を見るよう促す。
そこには、何十冊もの本が背表紙をうえに並べられている。
装丁から、時代の古いものが多そうだが、埃は被っていない。
「地下の倉庫から引っ張り出してきて、今、今日の当番の者と磨いてきたところだ。年代物ばかりだが、過去を知れることも書物の醍醐味だからな」
「なるほど」
図書室のラインナップは、図書委員にある程度の権限が与えられている。
売り出された新書は学校側に申請を通して買うこともできるし、地下の倉庫から引っ張り出してくることも可能だ。
「これを今から、棚に納めていくところだ」
背表紙を上にしているのは、取りやすさと視認性の上からだろう。積み上げるよりも、一度に運べる数は劣るが、取りこぼしは少なくなる。
タイトルを見れば、それぞれジャンルごとに分けられていることにも気づく。
ここ、飼育に関する本もあれば、技術科向けの錬金術に関する研究書もある。
「これは……?」
見慣れない単語が一つ。
「イア、イギリ……?」
その本の両隣が剣術や武具の取り扱いについて書かれているものなので、機動科向けのジャンルになるだろう。
「ああ、それは。なんでも、古く、異国の地から流れてきた剣士がとある富豪の家に身を寄せていた際に書かれたものらしい」
めくる。
文字よりも、絵が多いのが印象だ。
指南書の類か。
「聞いたことのないスタイルだ。調べたところ、異国の剣士が使えば無敵だが、しかしその他の剣士が扱えば目も当てられぬらしい」
「それは、その剣士が強かっただけでは」
「そうだね。その通りだ。だからこそ、廃れたのだろう。戦いが止まぬこの世で、しかし、最強の剣は歴史の底に埃と共に眠っていった。忘れ去られ、名前を失ってね」
フェルディナントの声はティロルに届かない。
耳からの情報よりも、目に入る情報と記憶を照合することに、意識が追い付かない。
釘付けとなったティロルに、フェルディナントは薄く笑みを浮かべているが、それすらも彼女は気づけない。
名前を失った剣術。
イアイギリ。
知らぬ名だ。
だけど、知っている。
己はこの剣術を知っている。
とある剣士が使えば最強。
しかし、他の剣士が使えば目も当てられぬ弱さ。
型にハマろうとすれば、窮屈さに身を動かせなくなる。
剣すら抜けぬほどに。
知っている。
ティロルはこの剣を知っている。
使い手も知っている。
忘れ去られ、名前すら失ったはずの剣を。
彼は、彼の剣に名前を付けていなかった。
当然だ。弱い剣術に誰が名など付けようか。
ロラゲ家に伝わるはずの剣に、呼称がないことの違和感。
ページをめくる。
仮想の敵を相手取っていたとはいえ、彼の動きは完璧だ。口伝だけで身に着けたとすれば、ほぼ完ぺきに体現していると言える。
だが、まだ足りぬ技術がある。
きっと、口伝だけではダメなのだ。
真に会得したものだけが、体現できる技というものがある。
それに、脚の運び、手指の捌き。
言われるだけでは絶対に身に着けぬ技。
ギヨーム・ロラゲは弱い。
当然だ。剣術を半端にしか身に着けていないうえ、彼は完璧を知らないのだ
だが、ティロルの手の中には完璧が広がっている。
暗い地下から呼び起こされた完璧が。
これを彼に与えれば。
否、それだけではダメだ。
開祖とも呼べる剣士しか最強になり得なかったからこそ、イアイギリは廃れたのだ。きっと、この本を読んで習得を志した剣士が多くいたのだろう。
正しい導き手が必要だ。
そして、その導き手となれるのは──、
「委員長、この本、私が借りてもいいですか?」
「いいよ。ちゃんと貸出手続きを踏むなら、我が図書室は誰に対しても平等だ」
「ありがとうございます」
「うん。それと、中庭でうるさく剣を振り回す彼の家はとてもお金持ちだ。私たちのお小遣いよりも多くを持っているだろうね」
ティロルは踏み出す。
フェルディナントの横を抜け、本棚の谷の出口を目指す。
背中に声がかけられる。
「あ、あと。君、昨日当番をほっぽり出しただろう。罰として、君の持ち物に爆発を仕込んだから、次は気を付けろよ」
──あれ、私、いきなり死と隣り合わせですか?
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