玉子焼き殺人2

「玉子焼きの味が気にいらないと言って、夕食の料理を全部、床にぶちまけたんです」

 女性は堰を切ったように震える声で話しだしました。

「これまでもずっと、夫の罵倒や理不尽に耐えてきました。でももう、限界で……床に散らばった料理を見たら、なんだかもう、頭が真っ白になって……気づいたら目の前にあった灰皿で、夫の頭を殴っていました。我に返ったら、恐ろしくなって、こうして、自首しにきました」

 女性は一息に言って、泣き出しました。

 その女性の気持ちは痛いほど分かりました。いわゆるモラハラ夫というやつです。私の父がまさしくそういう男でした。母や私に暴言を吐き、金銭を渡さずに交友関係の自由を奪い、少しでも着飾ろうとすれば「売女」と罵って化粧や服装を過度に質素にさせ、ちょっとしたことでケチをつけて料理をぶちまける――暴力は振るいませんが、負の感情で私達を支配下に置こうとするような人間でした。

 私が中学生の時に母の離婚が成立してして父とは縁が切れ、それ以降は会っていません。両親は高校卒業後すぐ結婚していたので、専業主婦だった母はなかなか就職に苦労しましたが、女手一つで私を大学まで出させてくれました。そういう経緯もあり、私は弱い立場の人達を守りたくて、この仕事に就いたのです。

「殴ったのは、いつのことですか」

 山本さんは慌てたように、しかしさすがにベテランです、努めて穏やかな声音で女性に聞きました。

「つい、さっきです。ここまで十分くらいなので、十五分くらい、前かと」

「なるほど。脈や呼吸は確認しましたか」

「えっ? いいえ……頭から血が出て動かなくなって、気が動転して、死んだものと思って、確認は、していません」

「もしかしたら、まだ生きているかもしれません。僕は救急車を呼びます。高橋くんは、すぐに現場に向かってください。」

 山本さんはサッと顔色を変えて私に言いました。

「奥さん、お名前と住所は言えますか」

「は、はい……名前は鈴木和美、住所は、富川市朝倉町、小島二丁目、十三番地……」

 女性の言う名前と住所を慌ててメモを取りました、自転車で行けば5分で着く場所です。日々のパトロールの成果で大体の場所の見当はつきます。女性から家の鍵を借り、部屋の間取りを聞いてから、私は交番の自転車に飛び乗りました。モラハラ夫のせいで辛い思いをしてきた彼女が殺人者になってしまうのはあまりに忍びなく、夢中で自転車を飛ばしました。モラハラ夫なんて死ねばいいと普段は思っていますが、助けなければという使命感で全力でペダルをこぎました。


 女性の自宅は小さな一軒家でした。念のため呼び鈴を押して、声を掛けましたが応答がありません。ドアに手を掛けると鍵は開いていました。

「鈴木さーん、朝倉北部交番の者です、入らせて頂きます」

 玄関で声を掛けて、聞いていた犯行現場のダイニングに向かいました。

 開いたドアから倒れている男性の周りの血たまりが見え、慌てて駆け寄りました。

「鈴木さん! 大丈夫です、か……っ」

 顔を見て、ハッとしました。白髪も増え、端正だった顔立ちも老けてはいますが、紛れもなく、私と母の尊厳を踏みにじった父でした。

 あの男は母と離婚した後、再婚相手をまた貶めていた――しかも相手に殺意を抱かせるほどに――という事実を目の前にして、頭に血が上るようでした。

 それでも職務を思い出し、呼吸と脈を確かめようと落ちていた灰皿の近くに膝をついたときです。

「うぅ……」

 うめき声と共に、薄っすらと男の目が開きました。

「鈴木さん、聞こえますか」

 意識確認の呼びかけに頷き、私の方を向いた男の顔が痛みにしかめられました。

「お巡りさん、助けてください」

 非常に哀れっぽい声で男は言いました。思いの外しっかりした声です。実の娘と気づかれなかったことに安心するとともに、家族以外には人当たりのいい対応をして、誰にもモラハラの事実を信じてもらえなかったことを思い出させる声音でした。

「もちろんです。すぐに救急車を呼びますね。一体、誰に襲われたんですか」

 私の中で、確かめたいような気持が生まれ、何も知らない体で尋ねました。ここまでされたのだから、自分の非を認めて奥さんに謝る様子や、奥さんを庇う様子でも見せてくれたら――という、期待のようなものを抱いたのです。

「妻に、やられたんです……食事中に、料理の感想を言ったら、急に激昂して……それで灰皿で殴られて……もう、何が何だか」

 被害者面で言うのを聞いて、自分の愚かさを知りました。

 この男は自分の体面のためなら平気で嘘を吐く男だったではないかと。一体、何を期待していたのだろうと。ここまでされてもまだ、自分のしたことの重大さに気付かないのかと。

 そう思うと、自然と身体が動いていました。

「なるほど、よく、分かりました」

 そう言って、私は傍に落ちていた灰皿を手に取り、男の頭めがけて何度も、何度も、顔の形が分からなくなる程、振り下ろし続けました。



 その後すぐ、応援で駆けつけた警官に私は取り押さえられました。モラハラ夫が妻と、元妻の娘である婦警に殴られ、殺された事件はセンセーショナルに取り上げられ、妻の出頭時の供述から『玉子焼き殺人事件』と呼ばれました。

 夫のモラハラの事実から情状酌量の余地ありと、殴っただけで殺していない奥さんには傷害罪で執行猶予が付きました。

 私は一応、幼少期の精神的虐待のトラウマによる心神喪失として減刑されましたが、警察の道は閉ざされ、こうして女子刑務所にいます。今はただ、あの奥さんが今後はモラハラ男に苦しめられることなく、静かに暮らしていけることを願うばかりです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

玉子焼き殺人事件 佐倉島こみかん @sanagi_iganas

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ