猫の手、お貸しします

まつしまにしき

第1話 非日常との出会い

 「猫の手も借りたい」ということわざがある。

 非常に忙しい状況を表した言葉であり、ネズミを捕まえること以外では役に立たないような猫の手だろうが、今は借りたいと思うような場面に使われるフレーズだ。しかし、意味合いとしては「誰でもいい」というようなニュアンスを含んでいるため、手伝ってもらいたい相手に対して直接使うのは、失礼になってしまうらしい。

 誰もが一度は耳にしたことのある、あまりにも有名なことわざ。

だが、俺はまさか自分が、その「猫の手」を文字通りの意味で借りる日が訪れるなど、夢にも思っていなかった。そう、ほんの数週間前までは。



第1話 『非日常との出会い』


 

 「明人くん、いつもありがとねぇ」

 「いえいえ。こちらこそ、遊びに来てくださってありがとうございます。またお待ちしてますね」

 和やかな笑みを浮かべた初老の女性が、ドアを押して店の外へと去っていく。カウンターから出てその背中を見送っていた俺――楠木明人は、壁に掛かった時計を見上げ、深い溜め息を吐いた。

 ここは、自然豊かな高原の麓にぽつりと佇む『楠木雑貨店』。俺がまだ母親のお腹にいた頃、都会から移住してきた両親が始めた店だ。その名の通り、生活用品やアクセサリー、小物など日用雑貨を取り扱っている。

 今年で築25年になるこの店の経営を、現在は訳あって俺が受け継いでいる……のだが、楠木雑貨店は今、大きな危機に直面していた。

 「客が、来ない……っ!」

 ついさっき店を訪れてくれた初老の女性は、ここから歩いて5分ほどの一軒家でひとり暮らしをしているフミさん。両親が店を回していた頃から足繁く通ってくれている常連さんなのだが、今日は午前10時に営業を開始してから3時間が経とうとしているのに、なんとまだ彼女しか来店していない。

 田舎と都会では人口密度が桁違いだから、ある程度暇な時間が生まれてしまうのは仕方ないことなのだろう。しかし、あまりにも暇すぎるとだんだん危機感を覚えてくる。両親から受け継いだこの店を、俺の代で潰してしまうのではないだろうかという危機感だ。

 幸いなことに、楠木雑貨店が店を構える地、月ヶ崎は日本でそこそこ名の知られた観光地だ。四季の風景が存分に楽しめる豊かな自然や数々の温泉、美術館など、やや交通の便は悪いが遊べるスポットが沢山ある。特に夏にもなれば、全国から避暑目的で訪れる多くの観光客が、楠木雑貨店に立ち寄ってくれることも少なくない。

 だが、問題はそれ以外の時期だ。つまり、ゴールデンウィークでもお盆休みでもない、世間が忙しなく働いているような時。ハイシーズンと比べて客の入りはガクンと減り、今日のように、フミさんが遊びに来てくれればまだ良いほう、というレベルにまで落ち込んでしまうのだ。

 「はあー……」

 もう一度深い溜め息を吐き、壁にかかったカレンダーを見上げる。月ヶ崎の山々が紅葉している写真を使用した「11月」の面も、あと数日で捲らなければいけない。ああ、もう今年も終わってしまうのか。年が明けたら、確定申告の用意をしないとな。あの作業、面倒くさくて嫌いなんだよな……まあ、申告するだけの所得がギリギリあるぶん、有り難いと思うか……。

 入り口から一番近いところにある棚へ、ぼんやり視線を移した。今日入荷したクリスマス用の雑貨を並べるため、朝からディスプレイ作業をしていた箇所だ。赤や緑に彩られ、世界の幸福を一所にぎゅっと集めたような空間とは対照的に、俺の心はどんよりと沈んでいた。

 本当に、このままじゃマズイよなぁ。俺も、この店も。

 せめて何か打開策をと頭を捻ってみたものの、結局閉店の時間になるまで、具体的なアイディアを思いつくことはできなかった。


 それから数日が経った、ある日の夜。俺は店の飾り付け用の小物を探すため、物置部屋にしている納戸に足を踏み入れた。

 「楠木雑貨店」として使用しているのは、2階構造になっている建物の1階部分。いわゆる店舗併用住宅というやつで、2階にはかつて俺の両親が使用していた寝室、俺の子供部屋、小物や消耗品を保管しておくための納戸がある。

 客の目が届かない空間のため、ちょっと気を緩めていると塵や埃が溜まってしまう。それに加え、入荷する商品が入れられている段ボール。何もしなければ納戸に溜まり続ける一方で、店が段ボール屋敷になってしまうので、店の休業日や閉店後に少しずつ整理しなければならない。

 明日は、楠木雑貨店の休業日である水曜日だ。飾りを探すついでにある程度不要な物も纏めておけば、搬出業者が来る明日の昼には充分間に合う。そうしたら、久しぶりにゆっくり寝ていられるぞ……。

 俺はささやかな幸福を噛み締めつつ、飾り付け用小物の保管場所にしてある、透明のプラスチックボックスを開けた。クリスマス用雑貨を陳列してある棚に比べて、周囲の壁やカウンター、店先がすこし寂しげだったので、追加で飾り付けを施そうと思ったのだ。

 俺が生まれる前、東京の大手雑貨店で働いていた母親があれこれ買い揃えてくれていたおかげで、クリスマスリースやモール、サンタクロースの人形など、店じゅうをクリスマス一色にするには充分すぎるくらいの飾りを見繕うことができた。

 「さて、あとは軽い掃除と整理整頓だな……」

 袖を軽く捲ってからクリスマス用の飾りを隅へ移動させ、棚を見上げた時だった。

 針が止まってしまった時計やら、非常用のキャンドルやらを並べてある上から二段目の端っこで、小さな置物のような何かが倒れていた。気になったので手に取ってみると、銅のひやりとした冷たさと共に、僅かな重みを感じる。

 「何だこれ……月?」

 それは、まさに月としか言いようのない形をした置物だった。それも三日月。クロワッサン、はフランス語での表現だっただろうか。小さな長方形をした台座から丸い柱が伸び、その上に、三日月が乗っかったような状態だ。

 こんなもの、前からあっただろうか。納戸には頻繁に出入りしているが、この置物はまるでたった今姿を現したかのように、初めて目に飛び込んできた。

 更に気にかかったのは、この置物のモチーフとなっているらしい「月」が、俺が生まれ育った町であり、楠木雑貨店の所在地でもある「月ヶ崎」を連想させることだ。制作年月も作家の名前も彫られていないが、月ヶ崎に関係のある人物が作った置物なのだろうか。

 自分で買ったり誰かから貰ったりした覚えはないので、両親のどちらかが入手したものに違いない。だが、それは一体何のためで、どうして今日まで納戸にしまい込んだままにしていたのか。

 考えても分かるはずはなく、俺はその場に座り込んだ。「気になるのなら親に電話なりメールなりして、訊いてみればいいだろう」と人は言うかもしれないが、俺には、そうしたくても出来ないある事情があった。

 「……うん、やめよう。悲しい気持ちになるために掃除をしてるんじゃないからな」

 頬を軽く叩き、落ち込みかけていた自分に喝を入れる。置物に関する疑問は次から次へと湧いてくるが、今は深く考えないことにした。

アンティーク調の小物のようで雑貨店にぴったりだし、月ヶ崎全体をアピールするという意味も込めて、レジカウンターに飾ってみよう。そう思い、用意していた布巾で丁寧に磨き上げた。手を加えれば加えるほど、円柱に据え付けられた小さな三日月は独特の輝きを増し、まるで命が宿ったかのような存在感を放っている。

 「本当、不思議な置物だなぁ」

 磨き上げた置物を右手に持ち、しげしげと眺める。「今は深く考えない」と決意したばかりなのに、何度も手に取っては床に置き、また手に取りを繰り返す自分がいた。

 そんなことをしているうちに、気が付けば夜の十時を回っていた。まだ風呂に入っていないし、胃の中も空っぽだ。

 ぐぐっと身体を伸ばし、腰を上げる。冷蔵庫も浴室も1階にあるので、下りるついでに月の置物をカウンターに飾ってしまおうと考えた。クリスマス用の飾りは少し時間がかかるから、明日にしよう。断念してしまった掃除の続きもしないといけない。

 「クリスマスかー、少しでも客が来てくれるといいな……」

 小さく溜め息を溢し、納戸の電気を消した。

 この時の俺は、先の見えない不安と、いつまでも打開策が浮かばない焦りでいっぱいだった。このままでは大好きな楠木雑貨店の存続が危ないのに、未熟な自分のせいで、どうすることもできない。クリスマスが近づいているというのに、これっぽっちも浮かれた気分になれなかった。

 だが、俺の胸に渦巻いていた不安や焦りは、思わぬ形で打ち消されることになる。


 いつものように開店時間を迎えた、ある日曜日のこと。

 商品を宣伝するためのPOPを作っていると、ドアに取り付けられている小さなベルがチリン、と音を立てた。来客を知らせる合図だ。

 「いらっしゃいませ!」

 開店早々お客さんが来てくれるなんて、かなり久しぶりだ。自分でもいつもより表情が輝いているのを自覚しながら、元気よく挨拶をする。

 店の入り口に立っていたのは、まだランドセルを背負って学校に通っている年頃らしき、小さな男の子だった。灰色のパーカーにジーンズを履いた、どちらかといえばスポーツ少年タイプ。

 親や友人らしき人物は見当たらないから、1人で来たのだろう。雑貨店に1人で来るには珍しいタイプのお客さんだなと思っていると、その少年は何か決意をしたような顔でずんずんとカウンターに歩み寄り、突然こう言い放った。

 「お兄さん、好きな人いる?」

 「……えっ!?」

 晴天の霹靂とは、まさにこのような場面に使われるのだろう。あまりにも急すぎる問いかけに、一瞬声が出てこなかった。

 鯉のぼりの鯉よろしくぽかーんと口を開ける俺には構わず、真剣な表情の少年はさらに続けた。

 「おれ、ずっとひとりで悩んでたんだけど、どうしたらいいのか分からなくて……好きな人ができるなんて初めてだったから、クラスで顔を合わせても照れ臭くなって、ついからかっちゃうんだ。好きになったのは同じクラスの女の子なんだけど、実は……」

 「ちょ、ちょっと待って」

 「なに?」

 必死なのか、とにかく言葉をぶつけてこようとする少年を片手で制し、状況を整理する。

 どうやらこのスポーツ少年は、俺に恋の相談をしたくて楠木雑貨店までやって来たらしい。開口一番で「好きな人いる?」と訊かれた際は正直ちょっとだけ焦ったが、法に触れるような事態に巻き込まれる心配はなさそうなので、ほっと胸を撫で下ろした。

 ……いやいや、違う。そうじゃない。この少年の目的はひとまず分かったが、問題は、なぜその目的である「恋の相談」をするために楠木雑貨店を選んだのか、ということだ。

 「……ボク、ちょっとお兄さんからも訊かせてもらっていい?」

 「うん、いいよ」

 「今日、お店へは1人で来たんだよね。どのくらい時間かかったかな?」

 「うーん……朝の9時半頃に家を出て、寄り道しないでここまで自転車漕いできたから……30分くらいかな」

 30分。この少年がスピードをどれだけ出していたかにもよるが、時速10キロメートルから20キロメートルの範囲には収まっていると仮定してみよう。その場合、少年の自宅からここ楠木雑貨店までは、最長でも10キロ程度。

 「ん……?」

 もしかして、と脳裏をある記憶がよぎる。今からちょうど1ヶ月ほど前、主に月ヶ崎に店を構えるレストランやカフェ、雑貨店などを紹介しているフリーペーパーの執筆担当者から、取材を受けていたのだ。発行されたのは、一昨日の金曜日。少年の自宅が月ヶ崎、もしくは近隣の市町村にあるならば、そのフリーペーパーを見て「楠木雑貨店に行こう」と決めたのかもしれない。

 だが、仮にそうだとしても不思議な点がある。取材を受けた後、店で配布できるように刷りあがったものを分けてもらったのだが、楠木雑貨店の紹介欄には「悩み相談、どんなことでも承ります」といった内容のことなど、一言も書かれていないのだ。俺がそう依頼していないからに他ならないのだが。

 念のため確認してみたところ、やはり少年はフリーペーパーなど見ていないという。小さく首を横に振った後で、いよいよ不可解な事を言い始めた。

 「夢の中で、誰かに言われたんだよ。『悩みを抱えているなら、楠木雑貨店の扉を開きなさい』って」

 「ゆ、夢の中で……?」

 一体、この少年は何を言っているのだろう。見ず知らずの雑貨店員である俺にいきなり恋の相談を持ちかけてきたと思ったら、夢のお告げがあっただって?

 からかわれているのだろうか。しかし、俺に向ける眼差しは真剣そのもので、とても冗談を言っているとは思えない。それに、この少年が悪戯の相手として俺を選ぶ理由も見当たらなかった。

 正直頭が追い付いていないが、勇気を振り絞ってこの店を訪れてくれたであろう少年を、無下に追い返すわけにもいかない。俺は小さく息を吐いてからカウンターを出て、少年と目線を合わせるように屈みこんだ。

 「さっき、君の相談を途中で遮っちゃったよね。最後まで聞かせてくれるかな?」

 「うん。同じクラスの女の子を好きになっちゃった、ってところまでは話したっけ」

 「そうだね、その続き」

 「えっと、実は……好きになった子とはまた別の女の子から、先週告白されちゃったんだ。俺はずっと仲の良い友達だと思っていた子で、てっきり向こうもそうだと思ってたから……すごく驚いたし、どうしたらいいか分からなくなったんだよね」

 ぱちぱちと瞬きをし、照れ臭いのを誤魔化すように床の辺りへ視線を落とす少年。しっかりした受け答えと体格から察するに、おそらく小学校高学年だろう。11歳、もしくは12歳……その頃の自分はどんな交友関係をもっていただろうと振り返ってみたが、ろくな思い出がなかったのでやめた。好きな子はおろか、心を許せる友人さえほとんどいない子供時代だったからだ。

 だが、経験はなくとも、歩んできた人生の分だけ知識は身に付いている。少年が抱いている悩みを完全に解決できる保障はないが、せめてもの助けとして、広く世間にも通用しそうなアドバイスを与えてあげなければ。

 俺は少年の肩にぽん、と優しく手を乗せ、真っ直ぐに視線を合わせた。

 「クラスの女の子を好きになったと思ったら、また別の子から突然『好き』という気持ちを向けられて、戸惑っちゃったんだね。君はその子を純粋に『友達』だと考えていたから、告白されたのはそれだけ予想外の出来事で、余計にどうすべきか迷った」

 「そうなんだよね……俺に告白してきた方の子は、一緒に学級委員をやってる子なんだ。その子が委員長で、俺は副委員長。仲も良いし、委員会の活動でほとんど毎日顔を合わせるから、どうやって断っていいのか分からなくて……」

 迷いながら、けれどしっかりと紡がれる少年の言葉を聞いて、俺は内心ほっとしていた。少年の中では、「告白されたけれど自分の好きな人は別にいるので、断りたい」という気持ちがしっかり出来上がっているのだ。それなら、アドバイスをするのはかなり容易くなる。

 俺は押し付けるような言い方にならないよう注意しながら、ひとつひとつ慎重に言葉を選んでいった。

 「まずは、勇気を出して君に『好き』って気持ちを伝えてくれた子に対して、感謝の気持ちを伝えるといいかもね。その後で、ちゃんとごめんなさいって言う。曖昧なままにして何も返事をしないでいると、その子も戸惑ってしまうだろうから」

 「うん……傷つけちゃわないかな」

 「君が素直な思いを伝えてあげれば、きっと分かってくれるよ。そうしたら、次は君が勇気を出す番だ」

 もう一度、少年の肩を優しく叩く。真剣にこちらを見つめる瞳はあまりにも眩しく、純粋で、胸の奥が少し痛くなった。ごめんな、少年。君の目の前にいるお兄さんは、偉そうにアドバイスをしてやれるほど、大層な人間じゃないんだ。

 けれど、そんな胸の内を少年が知るよしもなく、彼は俺の言葉に勢いよく頷いた。瑞々しい子供の頬に、みるみる笑みが広がっていく。悩みを打ち明けていた時の不安そうな表情は、いつの間にか消え去っていた。

 「ありがとう、お兄さん!おれ、頑張ってみる」

 「うん!君ならきっと大丈夫だよ、応援してるからね」

 少年は何度も頭を下げ、「告白する時のプレゼントにしたい」と、チューリップがモチーフのネックレスを買っていった。礼儀正しく快活で、小学生ながらネックレスを女の子にプレゼント出来てしまう粋な男の子。そりゃあモテるだろうなと内心苦笑しつつ、元気よく店を出ていく少年の背中を見送った。

 「……はあ」

 パタン、と扉の閉まる音を聞きながら、自然と溜め息が零れてしまった。たった数十分の出来事だったが、何だかどっと疲れてしまったのだ。

 客に悩み事の相談をされるなんて、これまで経験のなかったことだ。俺が楠木雑貨店の経営を引き継いでからは勿論、両親が店番をしていた頃も、そんな場面を目にした記憶がない。何でもないような雑談なら、フミさんをはじめ沢山の人としていたけれど。

 少年の話で一番引っかかったのは、やはり「夢のお告げ」だ。

 ――夢の中で、誰かに言われたんだよ。『悩みを抱えているなら、楠木雑貨店の扉を開きなさい』って。

 「誰か、って誰なんだよ……」

 何故だか、あの少年が嘘やデタラメを言っているようには思えなかった。俺は元来、魔法やらファンタジーやら、非現実的なものを信じるような性格ではない。明らかにフィクションと分かっているものなら割り切って楽しめるけれど、今、自分が生きている現実世界と「不思議なもの」が交わることなど、ありえないと思っていた。

 それなのに、どうしてだろう。俺はあの少年の話を信じかけているどころか、今回だけでは終わらないような気がしていた。


 結論から言うと、俺の予感は当たった。少年の件を皮切りに、楠木雑貨店には悩みを抱える人が次々と訪れるようになったのだ。

 「反抗期の息子にどう接したらいいか分からない」という、40代とおぼしき夫婦。

 「友人と喧嘩してしまって気まずい」という、高校2年生の女の子。

 「今の仕事にやりがいを感じられなくなった」というサラリーマン。

 年代も悩みの内容もバラバラだが、彼らは相談事をもちかけてきた際、決まってこう口にした。「夢の中で『楠木雑貨店』へ行くように言われた」と。

 夢の内容に間違いはないのか。夢に出てきたのは別の店の名前だったけれど、勘違いで「楠木雑貨店」だと認識してしまった可能性はないか。念を押すように一人一人へ問いかけたが、皆一様に間違いや勘違いではないと答えるのみだった。

 戸惑ったが、俺は必死に頭を捻ってアドバイスを続けた。それらのほとんどが、きっと誰でも思いつくような一般論であり、単なる綺麗事だったと思う。それでも、彼らは俺の言葉に「ありがとう」と喜んでくれて、帰り際に店の商品をひとつずつ買っていってくれた。

 以前は客が少なすぎることを嘆いていた俺だったが、今度は毎日のように訪れる相談客のことで頭を悩ませるようになった。

客足が増え、店の名前が広がるのはありがたい。けれど、ここはそもそも楠木「雑貨店」だ。俺の本業はあくまでもアクセサリーや日用雑貨を販売し、店を経営すること。悩み相談ならば、俺より適した人材が他に山ほどいるはずだ。

 どうして俺なのか。どうして、悩み相談に訪れる人は皆、「楠木雑貨店へ行け」と言われる夢など見ているのか。彼らの夢の中でお告げをしているのは、一体誰なのか。

 「考えても分かりっこないことだけど、どうにも気になるなぁ……」

 12月もいよいよ下旬に突入し、クリスマスが目前に迫ったある日の夕方。もう何人目か分からない相談客を見送った俺は、ようやく一息ついたタイミングを利用してレジの点検をしていた。

 「よし、誤差ゼロっと」

 点検内容が印字されたレシートが、レジからビーッと出てくる。それを切り取ってファイルに挟もうと思った時、足首の辺りに突然、柔らかい毛のようなものが触れた。

 「うわああぁぁっ!?」

 思わず絶叫しながら後ろへ飛び退き、カウンターの下をおそるおそる確認する。そこにいたのは、つやつやの黒い毛並みに、青と銀のオッドアイをした一匹の猫だった。

 こちらが大声を上げたのにも構わず、その猫は欠伸を溢し、ぐぐっと身体を伸ばしている。そして身軽な動きでカウンターの上へ飛び乗ると、以前俺が納戸の掃除をしていた際に発見し、そのまま飾っていた月の置物の前へ座り込んだ。

 「お前、どこから入ってきたんだ……?」

 店の出入り口も、バックヤードの小窓もしっかり閉めてある。扉の開く音すらしなかったが、前の客が店に来た時、紛れ込みでもしたのだろうか。

 すらりと細く、りんとした顔つきの黒猫は、銅で作られた小さな三日月を興味津々といった様子で見つめている。まるで、ここにあることが分かっていたかのような反応だ。

 「恋する少年を筆頭とした相談客たちといい、お前といい、この店には不思議なお客さんが沢山くるようになっちゃったなぁ……せめて、お前が店の手伝いをしてくれるっていうんなら嬉しいけど」

 冗談交じりにそう言うと、月の置物をじっと見つめたままの猫の耳が、ぴくりと反応を示した。こちらにまるで興味を示していなかったのが初めて話を聞いてもらえたようで、ちょっぴり心が躍る。

 それと同時に脳裏を過ったのは、「猫の手も借りたい」という有名なことわざだった。忙しさのあまり、ネズミ捕りしか出来ないような猫の手ですら借りたい、と思うような時に使われる言葉だ。

 突然俺の足元にいて、月の置物だけに異様な興味を示す目の前の黒猫も、きっと本質的には同じような猫なのだろう。もしも俺が本気になって店の手伝いを教え込んだところで、「そんなことやってられないニャ」とばかりにそっぽを向かれ、昼寝場所としてカウンターを占拠されるのがオチだ。

 「まあ、そんなこと期待しないけど。猫だもんな、お前」

 そう言い残し、水分補給をしに行こうとバックヤードへ足を向けた時だった。

 「――お兄さん、あまり猫を馬鹿にするもんじゃないよ」

 俺のすぐ背後から、若い男の声がした。

 全身を緊張が走る。誰も店に入ってきた気配がしなかったのに、どうして俺以外の声が聞こえるのだろう。しかも、声はかなり近いところから聞こえた。

 頭が混乱し、心臓はうるさく音を立てる。もしも俺に危害を加えようとしている誰かが店に侵入してきたのなら、すぐに警察を呼ばなければ。しかし、それより先に攻撃されてしまったら……?

 恐怖で停止しそうになる思考を何とかフル回転させながら、そっと背後を振り向く。だが、店内のどこにも見知らぬ男などおらず、代わりに先程まで月の置物に興味津々だった黒猫が、俺の方をじっと見つめていた。

 「何だ……?空耳か?」

 「空耳なんかじゃない。私は紛れもなく、君に話しかけている」

 「ひ……ひいいいいぃっ!」

 今度こそ、恐怖で頭がどうにかなりそうになった。目の前にいる黒猫の口が動くたび、若い男の声が言葉となって、俺の耳に届いているのだ。信じられないし信じたくない出来事だが、俺はどうやら、人間の言葉を話す猫に出会ってしまったようだ。

 父さん、母さん。俺は一体、どうしてしまったんだろう。2人が大好きだったこの楠木雑貨店を存続させようと必死になるあまり、気付かぬうちに神経をすり減らしてしまっていたのだろうか。そのせいで、猫が人間の言葉を話すなどという幻覚を見てしまっているのだろうか。

 けれど、俺は「幻覚であってほしい」と願う一方で、これはもう目を背けられない「現実」なのだ、という認識も抱き始めつつあった。

 「君が、楠木明人くんだね?」

 「……は、は……はい……」

 窓から差し込む西日を背中に受け、黒猫は凛とした佇まいのまま、穏やかな声で俺の名を呼んだ。

 人ならざるものに出逢う時間、逢魔が時。これまで俺の過ごしていた平凡な日常は、この黒猫との初対面を境に、大きく変わることになるのだった。


(第1話 完)

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