第188話 離間の計

 宵は一仕事を終えると鍾桂しょうけいと共に自室に戻って来た。


「お疲れ様、宵」


「死ぬかと思った。色々な意味で」


 寝台に腰掛けた宵に、鍾桂しょうけいはすかさず湯の入った茶碗を差し出す。

 中には胃の痛みを和らげ、粘膜を修復し、胃酸を抑えるいわゆるこの世界での胃薬が溶き入れてある。

 宵が頻りに腹をさすっている様子を見て、鍾桂しょうけいが軍医に頼んで手に入れてきてくれたのだ。

 胃痛の原因はもちろん、この長期に渡る籠城戦と軍師という重責によるものだ。


「ありがとう」


 宵は渡された茶碗を受け取ると、フーフーと息を吹きかけてからゆっくりと薬を啜った。

 そのあまりの苦さに顔は歪み、身震いしたが、身体の内側がほんのりと温まるのを感じる。

 宵はそのまま目を閉じ、夕刻に徐檣じょしょうが宵の部屋を訪ねて来た時の事を思い出した。


 ~~~

 数刻前


「どうしたの? 徐檣じょしょう


 棒叩きを命じた事に対する報復かと、宵は身構えたが、どうやら違うようだった。

 先程までの殺意に満ちた雰囲気は完全に消え失せている。

 大方、楽衛がくえいに諭されて謝罪に来たのだろう。衝動的に感情を抑えられなくなる事があるが、根は素直な子だという事を知っている宵はすぐにそう考え直し警戒を解いた。


「これ」


 徐檣じょしょうは手に持っていた紙切れを宵に差し出した。

 宵は怪訝な顔をしてそれを受け取り紙を開いて見ると、中にはとんでもない内容が書かれていた。


「これって、朧軍からの密書? 本物? どうしたのこれ??」


 さすがに驚いた宵は神妙な顔をしている徐檣じょしょうに訊ねる。大人しい徐檣じょしょうはまさに親友の厳島光世いつくしまみつよと瓜二つだ。


「貰ったの。さっき。兵士から。多分だけど、朧軍の間諜が潜り込んでるよ」


 朧軍の間諜。その可能性は考えていたので驚きはしない。有能な指揮官ならば間諜は必ず使う。『孫子』でも間諜の重要性を説いているし、宵自身も間諜は早い段階で戦に取り入れた。


「この密書の真偽はともかく、これを私に見せてくれたと言う事は、貴女は朧軍には戻る気はない、という事?」


 宵の問に徐檣じょしょうは応えず、視線を伏せて沈黙していた。


「なるほど、迷ってるんだ」


 宵の言葉に、徐檣じょしょうの視線は宵へと戻る。


「朧は貴女の故郷であり、知り合いも多くいる。まだ許されるなら戻りたいよね」


「私が、戻りたいと言ったら、素直に帰してくれる?」


 宵は徐檣じょしょうの問いを聞き、僅かに逡巡する。


「軍師の立場としては、認められません。その質問をするような人に兵は預けられませんので、今すぐにでも貴女を捕えなければなりません」


「そんな事言ったら私がまた暴れるとか思わないの? 今この部屋には私とお前だけ。殺そうと思えばお前みたいな細い女、簡単に殺せるんだよ?」


「でしょうね。けど、貴女はそんな事する為にここに来たんじゃない」


「じゃあ、何しに来たと?」


「私に知恵を借りに来たんでしょ? 貴女は今、朧に戻りたい気持ちもあるけど、閻に残りたいとも思っている。約束したもんね、光世と、また会おうって。その約束は、貴女が朧に戻ってしまっては叶わない」


 宵が言うと、徐檣じょしょうはムスッとして視線を逸らす。


「やっぱり……お前嫌い。私がこんなに迷って苦しんでるのに、それを見透かしてちゃんと言語化して纏めてくる……」


「軍師としては、貴女が朧に戻る事は許さない。けど、私個人としては、朧に戻してあげたい」


「……え……本当?」


 ムスッとしていた徐檣じょしょうの表情は一瞬で晴れやかになった。


「貴女のお父上との思い出があるのは朧だし、まだ貴女の帰りを待ってくれている仲間もいるみたいだしね。故郷に帰るのが一番だよ」


 宵がそう言うと、徐檣じょしょうは唇を噛み締めて突然床に額を付けた。


「宵……!! さっきは酷い事言ってごめんなさい!! 私、馬鹿だから自分の事しか考えられない……、でもそれだと皆から怒られてばっかりで、どうしたらいいのか分からないの……。さっきね、楽衛がくえい殿に叱られて気付いたんだ。私を本気で想ってくれる人は、私を本気で叱る。今の宵の言葉を聞いて分かった。宵も私を本気で心配してくれてるって……」


徐檣じょしょう……」


「都合のいい時だけ宵に頼ってるってのは分かってる。けど、お願い、教えて! 私は朧にも戻りたいけど、閻にもいたい!! どうしたらいいの??」


「難しい事を聞くんだね」


 宵は羽扇で口元を隠してポツリと言うと、徐檣じょしょうは顔を上げて宵を見た。


「朧に戻るのが難しくても、せめておじさんとは仲直りして一緒にいたい。軍師なら何かいい方法思い付くでしょ??」


「もちろん、私は閻の筆頭軍師ですから」


 宵の応えに曇っていた徐檣じょしょうの顔は再び晴れやかになった。


「先に言っておくけど、この密書の通りに朧へ戻るのは貴女自身も危険だからやめて」


「え? 何で?」


「仮にこの密書の差出人の全耀ぜんよう殿が貴女を受け入れてくれたとしても、他の朧軍の人達が必ずしも貴女の帰還を快く受け入れてくれるとは限らない。一度こちらに投降し、既に朧軍の将兵を斬ってるんだから」


「あ……うん……そっか」


「特に、金登目きんとうもくは貴女を殺そうとしてくる可能性が高い」


「え!? じゃあ、ここにいても、朧に戻っても、私、金登目あいつに狙われ続ける……って事??」


「恐らくね」


「そんな……」


 肩を落として徐檣じょしょうは俯いた。


「落ち込まないでよ、徐檣じょしょう。私には既に策があるから」


「え? 本当!? どんな??」


 宵の自信に満ちた言葉に、徐檣じょしょうは顔を上げた。


「良く聞いてね。まず、この密書を貴女に渡した間諜を見つけ出して特定して欲しい。他にも間諜がいるようならばその人達も全員。顔は覚えてたりするのかな?」


「んー、顔はうろ覚えだけど、楽衛がくえい殿の部隊の格好だったから探してみる。でも、そいつらを見付けてどうするの? 殺す?」


 宵は首を横に振った。


「殺さない。『反間はんかん』にする」


「『反間』?」


「こっちの偽の情報を持ち帰らせて敵を混乱させるの。今回は『私と徐檣じょしょうが上手くいってなくて、徐檣じょしょうが閻での居場所をなくしている』って情報を流す」


「何の為に?」


「そうすれば、貴女と私に確執がある事、故に貴女が朧に戻りたいと思ってると信じて、私の策を疑わなくなる」


「やっぱ頭良いよね、宵って。で、その策って?」


「反間を放ったら、貴女はこの密書に書いてある通りに深夜、北門を開けて糜喬びきょうを城内に引き入れる。この時、糜喬びきょうに朧軍に戻るように言われても聞いちゃ駄目。必ずこの時糜喬びきょうの軍を全て城内に招き入れて。恐らく朧軍は、貴女の救出だけじゃなく、城内の制圧も狙ってる筈だから、城内の守備が手薄だと伝えれば誘いに乗って中に入ってくる筈」


 うんうんと、徐檣じょしょうは黙って頷く。


「あ、それと、城内に糜喬びきょうを誘い込んだらもちろん城門は閉めるんだけど、その時城門は完全に閉めちゃ駄目。何人か通れるくらいには開けておく事」


「え? 何で?」


「『囲師には必ずき、窮寇きゅうこうには迫ることなかれ』。逃げ道を絶たれた敵は、死にもの狂いで反撃して来る。そうなると、少なからず死人が出るでしょ?」


「なるほど。でも、誘い込んだ糜喬びきょうはどうするの?」


 徐檣じょしょうは何故か不安そうに訊く。いつもの徐檣じょしょうなら、敵の安否など気にしないだろうに、この時ばかりはとても不安そうだった。


「全員捕らえる。全耀ぜんようの配下の将兵は極力殺さない。そうする事によって、金登目きんとうもく全耀ぜんよう殿はいよいよ味方同士でぶつかり合う。『全耀ぜんようは閻と繋がっているから攻撃されないんだ』って、金登目きんとうもく全耀ぜんよう殿を不審に思うよね」


「え? え? 2人を戦わせるの??」


「そうだよ。それが私が当初から仕掛けていた『離間りかんの計』。2人が争い始めれば、いずれどちらかが滅びるよね。その機に乗じて、私達の軍は全面的に全耀ぜんよう殿を加勢し金登目きんとうもくを討つ」


「おおー!!」


金登目をきんとうもくを討てれば、あとは全耀ぜんよう殿と貴女の事で交渉も出来る。金登目きんとうもくがいなくなれば、貴女が殺される事もなくなる筈だから」


「交渉?」


「うん。貴女が朧に戻れるように」


 宵の言葉に、徐檣じょしょうは唇を噛み締めたまま固まっていた。大きな瞳が潤んでいたのを宵は良く覚えている。



 ~~~


「宵、大丈夫? ボーッとして」


 鍾桂しょうけいの声に、宵は我に返った。


「あ、ごめん。大丈夫」


 言いながら宵は眉間に皺を寄せながら残りの薬をごクリと飲み干すと、茶碗を鍾桂しょうけいに返し、被っていた綸巾かんきんの顎紐を解き傍の卓に置いた。


「ちょっとだけ横になりたい」


「分かった。じゃあ、何かあったら呼んでくれ。部屋の外にいる。風呂はどうする?」


「いつも通り朝方湯桶をお願い。しばらく湯船に浸かる時間は取れないから」


「無理するなよ」


「ありがとう」


 心配そうな顔の鍾桂しょうけいが部屋を出たのを見ると、宵は立ち上がった。閻服の上着を脱ぎ捨て、腰紐を緩めると、そのまま寝台に倒れ込んだ。

 目を閉じると宵はすぐに眠りへと落ちた。



 ***


 朧軍~全耀ぜんよう陣営~


 糜喬びきょう糜倉びそうが閻軍に捕らえられたという報せはすぐに届いた。

 陽も昇らぬ真夜中である。

 帷幕いばくで吉報を待っていた全耀ぜんようは頭を抱えた。


糜喬びきょうがしくじるとは……」


「1千騎の兵馬も全て閻軍に捕らえられました。いかがいたしましょうか、将軍」


 知らせにやって来た斥候の兵が全耀ぜんようの指示を待つが、徐檣じょしょうが自分を拒絶した事、閻軍に人質を与えてしまった失態に思考が纏まらず、ただ拳を震わす事しか出来ない。


 その時だった。


 帷幕いばくに武装した男が兵士6人を引き連れて勝手に入って来た。


「何だ」


「金将軍の遣いで参った。全耀ぜんよう将軍、私と共に金将軍の陣営に来て頂く」


「金将軍の部将か。今はここを離れる事は出来ない。用件だけ聞かせてくれ」


「残念ですが、金将軍の指揮下である貴方に拒否権はありません。何故呼び出しが掛かったのか、ご自身が一番良くお分かりかと」


「勝手に出撃し、閻軍に兵馬を捕らわれた事の罪を問うのだろうが、私が今軍を離れれば、その隙を突き閻軍が攻めて来るぞ」


 椅子に座ったまま、全耀ぜんようは堂々とした態度で応える。


「貴方の軍は金将軍の副官の賀震がしん将軍が引き継ぎます。問題ありません」


賀震がしん? そいつは何処にいる」


「この本営の外に既に軍を率いて待機してります」


「軍を率いて? 随分と早い事だな。まるで初めから計画していたかのようだ」


「さあ。金将軍をお待たせしてはなりませんぞ、全耀ぜんよう将軍」


 落ちつき払った遣いの部将。

 全耀ぜんようは部将を睨み付けたまま決断をする。


「断わる。金将軍は斬血ざんけつを使い徐檣じょしょうを殺そうとした。私がいなくなれば徐檣じょしょうを守る者がいなくなってしまう」


「断わるという選択肢はありませんよ?」


 眉間に皺を寄せる部将に対し、全耀ぜんようは立ち上がり腰の剣を抜き放った。そしてその切っ先を部将へと向ける。その場にいた兵士達は敵味方関係なく皆身構えた。


「貴様には選択肢をやろう! 大人しくここから消えるか、ここで私に斬られるか!」


「愚かな返答です。後悔しますよ」


 吐き捨てるように言って、部将と6人の兵士達は潔くその場から退出した。


「しょ、将軍……」


 動けずにその場で片膝を突いたまま固まっていた斥候の兵士が青ざめた顔で全耀ぜんようを見ている。


金登目きんとうもくは初めから私を信用していなかった。まあ、それは私とて同じだがな。いずれこうなる事は分かっていたのだ」


 全耀ぜんようは剣を腰の鞘に納めた。


「良いか! すぐに迎撃の準備だ! 味方である我々を攻撃して来た時点で、金登目きんとうもくは賊臣となる! 殺したとて我々に非はない!」


「し、しかし、今我が軍には糜喬びきょう殿も糜倉びそう殿もおりません! とても勝てるとは……」


「ならばどうする? 逃げれば敵前逃亡として我々は罰を受け、国中から笑いものにされる。金登目きんとうもくを殺すしか道はないのだ!」


「お、恐れながら……この際、閻軍に投降するという選択も……」


「それはない。閻に降れば、閻の民を救う事が出来なくなる。徐畢じょひつ将軍の意志を途絶えさせる事になるのだぞ! 戦の目的を忘れるな!!」


「ぎょ、御意!!」


 全耀ぜんようの気迫に圧倒された斥候は、慌てて帷幕いばくを飛び出して行った。


「私は死ぬわけにはいかぬのだ。徐畢じょひつ、力を貸してくれ」


 全耀ぜんようは1人そう言うと兜を被り、壁際の武器立てに立て掛けてある徐畢じょひつの形見の『偃月刀えんげつとう』を手に取った。

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宵の兵法~兵法オタク女子大生が中華風異世界で軍師として働きます!~ あくがりたる @akugaritaru

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