第187話 徐檣の選択

 椻夏えんか城北門。


 空には綺麗な月が輝いている。

 徐檣じょしょうは数名の兵士を従えて、夜陰に乗じ、朧軍の全耀ぜんようからの手紙で指示された北門へとやって来た。


「よし、軍師殿のご命令だ。手筈通り門を開け、跳ね橋を下ろせ」


 徐檣じょしょうは引き連れて来た兵士達に命じると、兵士達は門番の兵士達と協力して開門の準備を始めた。

 その様子を見た徐檣じょしょうは、すぐに城壁の上へと続く階段を駆け上がる。

 そして、城壁に等間隔で設置されている松明を手に取り、それを頭上に掲げ、城外の暗闇に向けて左右にゆっくりと振った。


 徐檣じょしょうの足もとで、重い城門が開く音が聞こえた。



 ***


「動いた」


 暗闇に騎兵隊を隠して息を潜めていた糜喬びきょうは、椻夏えんか城の北門の上に輝く松明の火が左右に動くのをしかと見た。

 糜喬びきょうは腰の剣を抜き放ち、その切っ先を星々が煌めく夜空へと向ける。


徐檣じょしょうはこちらに寝返る! 良いか! 私は徐檣じょしょうを救出したらすぐに離脱する! お前達は城内に侵入したら北門の守兵を全員斬れ! 北門の制圧は糜倉びそう、其方に任せる!」


「はっ! お任せください、兄上」


 糜喬びきょうの実弟である糜倉びそうげきを握った手でしっかりと拱手して応えた。髭も蓄えていない20前後の青年である。


「この作戦の目的は徐檣じょしょうを救出する事! 万が一北門の守兵の抵抗が激しい場合は無理をせずに退却せよ!」


「御意!!」と、兵達が応える。


「よし! では声を出さず、静かに北門へ向かう! 私に続け!」


 そう言って糜喬びきょうが自分の馬の腹を軽く蹴ると、騎兵隊も静かに前進を始めた。

 その光景は、暗闇に馬の脚音だけしか聞こえない、何とも不気味なものであった。



 ♢


 糜喬びきょうが北門へ到達すると、開かれた門の下に町娘の格好の徐檣じょしょうが1人、馬に乗って待っていた。


徐檣じょしょう


糜喬びきょう殿、ご無沙汰しております。1人で来いと言われましたが、生憎、私1人ではこの門も跳ね橋も動かせませんでしたので何人か兵士に手伝ってもらいました」


 糜喬びきょうは妙に静かな城壁の様子に、些か不信感を抱いた。哨戒の兵士の1人も歩いていないのだ。


「守兵はどこにいる? まさかこんなに静かに会えるとは想像していなかった」


 すると、徐檣じょしょうは馬を降り、自らの足で糜喬びきょうのもとへと歩いて来たので、糜喬びきょうも馬を降りた。


 徐檣じょしょうの顔がはっきりと分かる距離。それでいてお互いの懐へは飛び込めない絶妙な距離で2人は対峙した。


「北門の守兵は攻撃しません」


 囁くような声で、徐檣じょしょうが言った。近くで見ると、血気盛んで気の強い女には見えない。状況が状況だからなのだろうが、あまりにもしおらしい。


「攻撃しない? 何故なにゆえだ?」


「『軍師殿の命により敵を城内に誘い込み、私の合図で一斉攻撃せよ』。そう伝えてあります。もちろん、私が攻撃を命じる事はありません。守兵が私の攻撃を待っている間にことごとく斬り殺せば北門はすぐに制圧出来ます。軍師殿の命令と言えば彼らは疑う事なく従いますから」


「そうか。良くやってくれた。これで其方の救出と北門の制圧という任は同時に達成出来そうだ」


「兄上……」


「何だ、糜倉びそう


 黙って後ろに控えていた弟の糜倉びそうが不意に口を挟んだ。


「その徐檣じょしょう殿の言っている事がもし嘘ならば、我々はどうなります?」


 徐檣じょしょうの大きな瞳がギョロリと糜倉びそうを捉えたが、その疑問に、糜喬びきょうは鼻で笑って見せた。


徐檣じょしょうが我々を嵌めるような事をするものか。我々は朧国ろうこくの同胞。我々の上官である全耀ぜんよう将軍と徐檣じょしょうのお父上である徐畢じょひつ将軍は兄弟のように仲が良かった。そして私は徐檣じょしょうとは旧知の仲。身内の様な我々を、どうして謀殺出来ようか」


「しかし、彼女は一度ろう国を裏切り、閻帝国えんていこくに降っております……」


「心配性だな、弟よ。徐檣じょしょうは止むを得ず閻に降っただけ。朧を裏切りたくてそうしたのではない。現に、先刻の間諜の報告では、徐檣じょしょうは閻軍の連中と上手くいっていない。特に軍師には重用されずに軽んじられているという話だ」


「いかにも。私は軍師に恨みを抱いています。私の功績を褒めずに罰だけ課そうとするのです。あまりに理不尽故、私は朧国に戻る事を選びました。ぜん将軍とは喧嘩別れをしてしまっておりましたが、この折に謝罪し、また朧国へ戻り父の意志を継ぎ、董炎とうえんを討ちたい」


「なるほど。分かりました。然らば、兄上は徐檣じょしょう殿と共に一度ぜん将軍のもとへご帰還ください。後は我々にお任せを」


 糜喬びきょう徐檣じょしょうの話を聞いて納得した糜倉びそうは馬を前に進めた。

 しかし、徐檣じょしょうは手を前にかざし制止する。


「それは駄目です」


「何故だ、徐檣じょしょう


「私が城内に戻らずに朧軍だけが入城すれば、守兵はたちまち全力で迎撃してくるでしょう」


「そうか、徐檣じょしょうが戻らなければ、其方が寝返った事が露見してしまうな……。ならば如何したものか」


 糜喬びきょうが言うと、糜倉びそうもうーむと唸った。


「簡単な事、私も一度共に城内に戻ります。さすれば、私の攻撃の合図までは守兵は攻撃しません。それを利用し、こちらが有利な位置まで軍を進めるのです。城内うちから四方八方を掻き乱せば、閻軍もひとたまりもないでしょう。私は混乱に乗じて糜喬びきょう殿と共に城を出ます」


「良し! その策でいく! 徐檣じょしょう、我々を案内してくれ!」


「御意!」


 徐檣じょしょうは凛々しい顔付きで、力強い拱手をして見せた。


 糜喬びきょう糜倉びそう徐檣じょしょうの後に続き、また静かに馬を進めた。



 ♢


 ぞろぞろと、静かに朧軍の騎兵隊が北門から入場して来た。その数およそ1千騎。先頭には鎧兜を着けていない普段着の徐檣じょしょうがいる。武器は腰の剣だけだ。


 北門の守兵は城壁の上から弓を構え、徐檣じょしょうの合図が出るのを、今か今かと待っている。


 しかし、合図はなく、朧軍は次々と城内に入って来て、更に奥へ奥へと進んで行ってしまう。


 そうこうしている内に、およそ1千騎の朧軍の騎兵隊は全て城内に入ってしまった。

 徐檣じょしょうの合図はない。


 闇夜に静寂。

 点々と輝く松明の小さな火。

 聞こえるのは馬蹄の音と防具の擦れる微かな金属音。そして兵馬の息遣いだけ。



 と、その時、門楼の一点が突如として煌々と輝いた。


「閉門!!」


 ついに合図があった。

 しかし、その声は女の声であったが、徐檣じょしょうではない。


 兵士の松明が集まり、一際赫灼かくしゃくと輝く門楼。

 そこにいたのは、綸巾かんきんを被り、白い羽扇を振る軍師、宵だった。




 ***


「まさか……!」


 背後の門は閉ざされた──正確には、完全には閉まっておらず、僅かに数名が通れる隙間が空いている。何故完全に門を閉ざさないのか、糜喬びきょうには分からない。

 退路はそこだけだ。


 糜喬びきょうは目を見開き辺りを見回す。

 いつの間にか現れた閻兵が、地上からも、そして城壁の上からも弓を構え糜喬びきょうの軍を狙っていた。


徐檣じょしょう……これは一体」


「だから、軍師殿の策だと、言ったではありませんか」


 悲しそうな顔で、徐檣じょしょうは困惑する糜喬びきょうの問に応えた。


 絶望で青ざめる糜喬びきょう

 しかし、弟の糜倉びそうげきを握り締め雄叫びを上げる。


「降伏してください!! 無益な殺生はしたくありません!!」


 門楼から女軍師・宵が叫んでいる。


 糜倉びそうは一度動きを止めて宵を見た。


「兄上!! 降伏などなりません!! こうなれば1人でも多くの閻兵を斬り殺すのみ!!」


「ああ……そうだ、だが、まず殺さねばならぬのは……あの女だ!!」


 糜喬びきょうは怒りのままに、自らの馬に取り付けていた弓と矢を取り、瞬時につがつるを引くと、無防備な宵へとやじりを向けた。


 ──が、即座に反応した徐檣じょしょうが、剣を抜くと同時に糜喬びきょうの弓を矢諸共叩き切って地面に叩き落とす。


徐檣じょしょう……! 私は……其方は斬れん……其方は、私を斬るのか」


 次の武器を取る余裕すらない糜喬びきょうはそう言うのが精一杯だ。


「……くっ……!!」


 徐檣じょしょうは剣を糜喬びきょうの喉元に振った……が、紙一重で刃を止め、左の肘を糜喬びきょうの腹へと叩き込む。


 糜喬びきょうの体躯は膝から崩れ落ち、徐檣じょしょうの身体に抱き抱えられた。


「兄上ーーー!!!」


 兄の様子を見ていた糜倉びそうもついに取り乱し、徐檣じょしょうへと戟を持って突っ込んで行ったが、横から割り込んで来た徐檣じょしょうの上官・楽衛がくえいに阻まれ地面を転がった。

 そしてすぐに数人の兵士達に取り押さえられてしまった。


「降伏すれば命は取りません!!」


 再び軍師の声が戦場に響く。


 すると、2人の指揮官を失った朧軍はたちまち武器を捨て馬から降りてその場に膝を突いた。


「おのれ……!! 徐檣じょしょう!! 貴様、許さぬぞ!!」


 取り押さえられ地面に這い蹲る糜倉びそうの怒号が徐檣じょしょうを震わす。


「……ごめんなさい……」


 徐檣じょしょうの頬には一筋の涙が零れていた。

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