第8話
遠くからでも分かったのは、それが見知った顔だったから。
夕方タバコ屋に行くと、いつも窓の向こうで眠そうにしているはずのミナトさんは、珍しく店先に立っていて、男の人と話している。あれは、ウチの学校の生活指導の教師だ。俺も何回か注意されたことがあった。
俺は見つからないように少し離れたところから、面倒くさそうに話をするミナトさんの様子を見ていた。
教師が居なくなってようやく解放されたミナトさんに俺は、
「何かあったの?」と尋ねる。
俺がいることに気付いていたのか、彼女は大して驚きもせずに振り返る。
「なにが?」
「今の、ウチの学校の教師だろ」
「ああ」とミナトさんは目を伏せる。「別にお前のことじゃない」
「そう」
ミナトさんがタバコに火を付ける。そういえば彼女はいつからタバコを吸っているのだろう。彼女も俺みたいに教師から逃げたり、大人が来ない場所を探したりしたことがあるのだろうか。もしそうだとすれば、少し嬉しいと思う。
「こういう商売してるとな、たまに来るんだよ。学生が来たら教えてくれとか言って」
「嫌なヤツだよな。嫌味っぽいし、いちいち言い方が高圧的だし」
俺の言葉に、ミナトさんは乾いた笑いを漏らす。
「大人にはいろいろあるんだよ」
突き放されたような、呆れられたような、そんな言葉。そのとき俺は思ってしまった。たぶん、俺のせい、なんだろうなあって。俺みたいなのがいるから、彼女に面倒をかけているんだろうって。
「俺、ここに来ない方がいいのかな」
「なんだ急に」
「俺がここにいると、ミナトさんに迷惑かかるだろ」
「今さらかよ」
ミナトさんが肩を揺らして笑う。
本当は最初から分かっていた。彼女は大人で、俺はどうしようもなく子供だから。これまでずっと、俺はただ彼女の優しさに甘えていただけだった。そのことが分かってしまって、無性に恥ずかしくなる。
「分かった。もう来ないから」
「……そうか」
「ああ。それじゃ」
「待ちな」
背中を向けた途端、呼び止められる。こんな風に引き留められることなんてあっただろうか。何だろうと振り返ると、ミナトさんが肩をすくめる。
「こっち。来な」
手招きされて、店の中に入る。そういえば店先には何度も通ったけれど、店内に入るのは初めてだ。
店内はちょっとした日用品が雑多に並べられて、駅のキオスクみたいだった。その一番奥、商品棚に隠れるみたいにひっそり、木の引き戸があった。あの向こうは住居になっているらしい。
古い家の中を、彼女の後について歩く。他人の家というのは、どうにも落ち着かない気分にさせられる。それは多分、匂いが違うからだ。意外にも家の中は、あまりタバコの匂いがしなかった。
しばらくして、ミナトさんは振り向かずに、唐突に言う。
「旦那に会わせてやるよ」
「え?」
「気になってたんだろ?」
ミナトさんが廊下の引き戸を開く。予想してはいたけれど、そこは仏間だった。
ああ。と小さく息が漏れる。仏壇の遺影の中で優しく微笑むあの人が、彼女の愛した人なのだろう。
ミナトさんが軽い仕草でお鈴を鳴らす。
思った以上に大きく澄んだ音が、部屋の中に満ちていった。仏壇に向かって手を合わせる彼女の姿を、俺はただ後ろから見ていた。
ミナトさんが振り返る。畳の上に置かれていた座布団を勧められて、俺はそこに座った。ミナトさんがポケットから出したタバコを一本咥えて、俺に視線を送ってくる。促されているような気がして、俺もタバコに火をつけた。
「……ウチの旦那。見ての通り、もうとっくに死んでるんだけど」
ミナトさんが煙を吐き出しながら言う。
「なんで?」
「ん?」
「なんで、それを俺に」
「恋人がどうとか言ってたろ? だから、教えといてやろうと思ってな」
偉そうな物言いだけどその姿が妙に似合っていて、俺は言いかけた言葉を飲み込む。
「私のことを気にいってくれるのは嬉しいけど。まあそういう訳だからさ」
カッと頬が熱くなる。俺の気持ちなんてとっくに見透かされていたことも、諦めろと言われていることも、どうしようもなくカッコ悪い。
「それでも、俺は──」
「ストップ」とミナトさんが俺の言葉を遮る。「それ以上言わない方が良いって分かるだろ?」
「……」
「年上に憧れるみたいな気持ち、私にも経験あるから分かるけど、お前くらいの歳にはよくあることなんだよ。どうせ何ヶ月かしたら忘れるんだから、もっと健全な恋をしろよ」
彼女がそう言うなら、本当にその通りなのかもしれない。
それでもこの気持ちが、どこにでもありふれているものだなんて思いたくなかった。
だから、
「忘れないよ」
そう言うと、ミナトさんは不愉快そうに眉根を寄せる。
「なんでそんなこと言える」
「ミナトさんだって、旦那さんのこと、忘れられてないんじゃないの」
「……私とお前は違うよ。全然違う」
ミナトさんが軽く目をこする。泣いているように見えたけれど、本当はただ煙が目に沁みただけなのかもしれない。少なくとも彼女が泣いているところなんてまるで想像もできない。
顔を伏せた彼女は、
「私は、いつになったら忘れられるのかな」
と、独り言のようにつぶやく。
もしかすると、どれだけ時間が経ったって忘れる事はないかもしれない。だけど、そんなに簡単に忘れないでいて欲しい。誰かを好きなままでいるミナトさんが、俺は、好きだ。
以前までの俺なら、解答のある人間関係が好きだった。けれど今は、答えが見つからないままの恋愛だって嫌いじゃない。
「俺だって忘れないよ。少なくも、タバコを吸うたびに、今日のことを思い出す」
ミナトさんは少し驚いたように目を丸くして、それから、小さく肩を揺らして笑う。
「じゃあ、タバコ、貸しな」
「え?」
「お前、今日から禁煙な。二十歳になるまで吸わないでいられたら、さっきの言葉の続きを聞いてやるよ」
「なにそれ……」
ミナトさんが意地悪そうに、楽しそうに笑う。その姿は普段のミナトさんとは違って見えたけれど、もしかするとこれが本当の彼女なのかもしれない。
「タバコが吸える歳になるまで私のことを憶えてたら、またおいで」
「待っててくれるの?」
「私は待たないよ。待つのはお前の方だから」
そう言ってミナトさんは今までで一番、柔らかく笑った。
タバコ屋のミナトさん 水上下波 @minakami_kanami
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます