第7話
少しずつ日が短くなっていく。今までなら明るかったような時間でも、今はもう夕日が落ちかけている。
ミナトさんはベンチのそばの灰皿を掃除している。
ふと、そういえばこの店は何時までやっているんだろう。と思った。
「吸うのか?」
とミナトさんが聞いてくる。俺は軽く首を振った。
「いや、もう掃除しちゃってるし」
「そりゃどうも」
「店じまい?」
「ああ」
俺はベンチに座ったまま、ぼんやりとミナトさんを見ていた。すっかり慣れきった手際の良さは長い年月を感じさせた。彼女はずっと繰り返してきたのだろう。毎日毎日、何年も同じことを。
「いつまでいるんだ。用が無いなら帰れよ?」
「ああ、うん」
曖昧に頷きながら、俺は何か話すことを探していた。何故か、このまま帰ってしまうのは違うなと感じて。多分俺は、夕日に焦らされていたのだろう。
「ほら」
何を思ったのか、ミナトさんが店先の自販機で買った缶コーヒーを投げてくる。
「奢ってやるよ」
「え、ありがとう」
そう言ってから缶に口を付ける。途端に酷い苦さが舌をついた。
ミナトさんが小さく笑う。
「ブラックは苦手か? やっぱりガキだな」
別に苦手なわけじゃない。ただ驚いただけだ。でもここで言い訳したら余計に子供っぽいような気がして、俺は黙っていた。
片付けを終えたミナトさんが、ベンチの、俺の横に座る。律義に一人分の空間をあけて。きっとこれが、今の俺と彼女との距離なのだろう。
「家に居たくないときもあるだろうからな。無理に帰れとは言わないけどさ」
ここにいたのはそういう理由じゃなかったけれど、あえて否定することもないと思って俺は何も言わなかった。
手にしたコーヒーをもう一度口に含むと、やっぱり苦味が舌にまとわりつく。タバコとは違って、舌先にいつまでも残るような、そんな苦さだ。
「ミナトさんもあるの?」
「なにが?」
「家にいたくない時」
ミナトさんは少し考えこんだあと、タバコに火をつけて、
「私にはここしか居場所がないからな」
と細く長く煙を吐く。
俺は、いま彼女がどんな表情をしているのかを知りたかった。けれど逆光のせいで、彼女の姿は暗い影に覆われている。
「この前さ、彼氏いるかって聞いたじゃん?」
「……ああ」
「あの時、ちょっと様子変だったよね」
「そうか?」
ミナトさんの声が硬さを帯びたのが分かった。多分これ以上踏み込むべきじゃない。それは分かっていたけれど、折れそうになる心を無理やり押し込めて言葉を続けた。
「でさ思ったんだ。きっと、ミナトさんの恋人は、ずっと側にいてくれるような人じゃなくて離れたところにいて、でもミナトさんはずっとその人のことが好きなのかなって」
「……かもな」
ミナトさんが深く煙を吸い込む。火種が燃える、ジジッという音が鳴った。それから彼女は乱暴に火を消すと、「それ飲んだら帰れよ」とだけ言って立ち上がる。
店の引き戸が閉まる音を聞いてから、俺はタバコに火を付けた。
俺は、また地雷を踏んだようだ。というより、あえてそうしたようなものだけれど。
でも今はそれで良かった。そうでもしないと、彼女に近付けないから。
俺は一息に、コーヒーを飲み干す。
どうして皆わざわざ苦いコーヒーを飲むのか。その答えが分かったような気がした。
前は嫌いだった。こんな風に誰かのことを考えて心を乱すこと。だけど、今は。
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