過去

 物心ついた時には地を這っていた。

 村の誰とも似ても似つかぬ赤髪赤目。卑しい魔の血を通わせるものが人間に仇なそうとしているぞ、と言われれば、特に否定出来る理由もなかった。何せ自分には名すらない。自分が人間なのか魔物なのか、悪意がないのかあるのか、人間を殺したいのか殺したくないのか、何も分からない。

 魔物と同じく残飯を寄越され、裸同然のまま働き、夜は納屋で眠る。周囲の魔物たちはおかしいと言ってくれていたが、自分は疑問を抱くこともなく生きていた。

 ある時、近くに棲む龍に贄を出さねばならぬ、と村長が言った。そうしなければ村どころか世界全体を巻き込む、途方も無い災いが起きるから、と。

 生贄には人間でなければならぬ、とも言った。

 自分は魔物だから関係ないだろうと思っていれば、当然の如く、村の者共は名もなき赤髪を選んだ。

 人間と、思っていたのか。

 それとも人間ということに、したのか。

 ならば魔物と人間とは、何が違うのか。

 生まれて初めて疑問が浮かびはしたが、それを口に出すことは出来やしなかった。

 白い服を着せられ、輿に載せられて、山の奥まで連れて行かれた。現実味のない霧の中をくぐり、出るとそこには黒黒とした洞穴があった。

 空気が冷たく、身が凍る。上手く顔が上げられない。悲鳴を上げたいのに喉が潰れて、息をすることすら辛く。村人たちも震えていた。

 洞穴の中からは巨大なものの息遣いがした。

 村人たちは祭の時に唄うのと同じ詩を、節回しを変えて唄ってから、自分を置いて立ち去った。

 洞穴から目を離せなかったが、自分は来た道を戻ろうと、じりじり後退した。しかし、いくら戻ろうと霧がまとわりついて、洞穴の方へ押し戻すように動く。来た道も失われている。周囲は深い森で覆われている。

 村さえ恋しかった。

 結局進むしかないのだと悟って、自分は洞穴へ足を踏み入れた。

 巨大なものの息遣いはますます大きくなった。近づくに連れて、身の震えよりも背筋の整うような気持ちが湧くようになった。ここにいるのは単に脅かして怖がらせるようなものではなく、もっと偉いものだから、矮小な身では自然と圧されてしまうのだと思うようになった。

 そして最奥。光も届かず、異色の容貌も何ら意味をなさなくなった場所。

 手に触れたのは、固くもほのかに温度のある、巨大なものの一部。

 久しぶりの温かさに思わず手の平を広げていた。そっと寄り添うように立つと、なおさら温かかった。息遣いに合わせて震えるのが、生きていることを実感させた。

 時を忘れてそうしていると、ふとそれが身じろいだ。弾かれてよろめき倒れる。思わずうめき声を上げてから、ふと恐ろしさが戻って来て口を覆う。何も見えないが、これまでそれは眠っていると思っていた。自分の声でそれの眠りを妨げて、怒られたらどうしよう、と思った。

 それが動く。

 息遣いが側に来る。

 ふと自分の体が、何かに絡め取られるような感覚があった。惑っている内に足が浮いた。

 宙でぐるぐると動かされ、口を開けさせられ、足を開かされ、体の中まで触られる。可動域が限界に達して体が痛む直前で力は緩むため、苦しさはなかったが、臓器まで触れられるような感触には居心地が悪くなった。時々内側をこするようにしたり押されたりされると、驚きと気持ち悪さで思わずうめいてしまう。

 人形遊びの、人形側のような心地だろうか。人形遊びなどしたことはなかったが、人間がしているのを見たことはある。

 段々と触れられるのに慣れて、気持ち悪さはくすぐったさに変わった。一度我慢出来ずに笑い声を立てるとしばし触れるのが止まったが、少しして再開した時には、同じ反応を引き出そうとするかのように同じ場所に執拗に触れて来る。あまりにくすぐったいので笑い過ぎて体中が熱くなる。思考が白く飛ぶ。笑い過ぎて死ぬこともあるかも知れない、と思ったが、その死に方はいっそ幸せであるようにも思えた。

 その感覚は思考にまで及んだ。何か考えていると、思考自体をそれに触れられる。記憶を優しげに包まれる。たまに苛立たしげに乱暴に撫でられる。自分が虐められている時の記憶を触っているのだと分かった。

 何もかもに触れられ、全て知られた。

 それがどのくらい続いたか。暗闇の中では時間感覚が失われた。自分に意識があるかも分からなくなった。

 気づくと何か柔らかいものの上に眠っていた。

 同じく暗闇であるため周囲の様子は何も分からないが、そろそろ動き回ってみると、固い物にぶつかる。床は柔らかく、壁は固い場所である。床は時々波打って、その度に体が転げた。

 そこは居心地は良かったが、しばらくすると退屈と思うようになった。たまに波が起こる以外には変化もない。眠ることが増えていた。

 ある時、部屋の隅で縮こまって眠っていると、ふと冷たい風が吹き込んだ。風が吹いて来た方に歩いていこうとすると、急に部屋が今までになく大きく傾いて転がされ、手に地面の砂っぽい感触が触れる。口に含むとやはり土の味がする。また、外に出されたのだと分かった。

 しばらく時間が経っているはずなのに、不思議と、この洞穴に来た時より元気になっていることに気がつく。体も温かである。

 しかし、だからと言ってすることもなく。

 地面以外に寄る辺なく、手を突き出してそれの居る場所を探る。固くて温かいそれはすぐ側にいた。安心し、またそこに張り付くけれど、何か違和感がある。

 少し戸惑って身を離そうとすると、手をつかまれた。

 つかんだそれは、自分と同じ手の形をしているように思われた。

 人間、と驚いて咄嗟に逃げようとするけれど、手を引かれて引き戻される。怯えたものの、その人が手を繋ぐ他には何もしないことが分かって来て、そっと身を寄せた。その人もまた、巨大なものと同じ温かさを持っていた。指を絡めてただ寄り添って、じっとしていた。

 ふと、外に出ようと思った。

 その人の姿を見たくなった。


「外」


 軽く手を引くと、その人は抵抗せずに引かれるままになる。方向は適当だった。その人は時々、自分をたしなめるように立ち止まった。たぶん壁に向かって歩いていたのだろうと思って、自分はそれに従った。じきに学んで、繋いでいない方の手を伸ばして、慎重に歩いていくようになった。

 たまにその人は、壁もないのに止まることがあった。そういう時は、その場で共に手を繋いだまま横になって、目をつむった。起きるとまた歩き出す。

 その繰り返しをしていると、ふと薄らと自分の輪郭が見えることに気がついた。

 さらに歩いて行けば、色が分かるようになった。

 眩しさを感じるようになった。

 その人の慈しむような視線を感じるようになった。

 洞穴の外にはもう霧はなく、そこに広がるのはただの森だった。

 見上げたその人は、一見人間のようでいて、角があったり、鱗があったりした。


「人間じゃない」


 そう言うとその人は不思議そうな顔になって、目線を合わせるようにしゃがみ込む。聞こえなかったのかともう一度言うと、その人は声を上げずに笑った。

 それから、その人は軽く首をかしげて、自身の喉に手を触れた。


「……あ」


 そして、不意に喉から、音を出した。何度か、調律のように呟いた後、その人は言った。


「贄。贄よ」

「……」


 驚いた。その人が喋るのを初めて聞いた。けれど、思えば今まで必要となった場面はなかった。手の触れ合いだけで感情くらいは伝わったから。


「願いはあるか」


 低い声に自然と背筋がのびる。

 けれど、自分は問いかけに対して答えを持たない。何かを望んだことはなかった。黙りこくっていると、その人は優しく笑う。


「人間を殺そうか」


 慌てて首を振る。村人たちによれば、自分も少しは人間らしいから、自分も少しだけ殺されてしまうのだと思った。


「では。お前を守ろうか」


 少し考えてから首を振る。守られる程の脅威はない。

 他にもいくつか質問されたけれど、その全てがどこか違うような気がして、首を振る。


「……」


 困ったようにその人が自分を見るので、あらためて願いとやらを考える。質問をされたお陰で、少しだけ自分の思いがはっきりとし始めていたから、今なら考えれば辿り着くような気がした。

 まず、何よりこの人が幸せにならなければならない、と思う。

 ずっとこんな寒い所にいたのだから。

 けれどこの人が幸せになるために、誰かが蔑ろにされることはあってはならない、と思う。

 いつか、人間も魔物も、自分も、この人も、あの巨大なものも。

 全員が幸せでいなければならない。

 何一つ取りこぼしがあってはならない。


「贅沢な贄だ」


 怒られるかと身をすくめると、その人は頭を撫でた。


「全てを救うは私でも難しい。一つに絞るか、順位を決めよ」

「……なら、一番」


 目の前の人を指差す。

 二番に洞窟の最奥を指す。

 三番に魔物。四番に人間。最後に自分。


「その順で、真によろしいか」


 うなずくとその人はため息を吐いた。


「なればせめて、お前には最も大きな祝福を贈ろう」


 目の前の人を指す。


「……何故」


 きっと目の前の人の方が幸せになるのが上手だろうから、その様を見ている方が幸せが分かりやすい。

 それにここまで、壁にぶつかったり転ばないようにしてくれたお礼が出来ていないから。一番大きな祝福は、自分よりもこの人が受け取るべきだ。


「……承った」


 呆れたように笑ったその人は、また赤髪を撫でた。


「では。贄には、私の次に大きな祝福を」


 それだけ言うと、その人はふつりと消えた。

 少し困りながらも赤髪は森をさまよい歩き、その最中、魔術師に拾われて「リンネ」と名を与えられる。記憶は花散るように消え、リンネはあらかじめその身に受けると決まっていた幸せを受けた。

 その十年後。

 魔物の嘆きが響き渡る。

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革命終わった空の下 早瀬史田 @gya_suke

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