馬鹿げた今へ
帰宅したら最愛の恋人が、自分と過ごした記憶をすっかり失っていた。
「そろそろ魔術研究院は取り潰すか」
「止めて」
生き返って倒れていたところを拾われて、洞窟で看病されていた頃を思い出させる辛辣な目に、マオは若干胸を痛めた。今では、リンネが大切に取っておいた甘茶碗蒸しをマオが食べた時など、相当に機嫌の悪い時にしか見ない顔である。
「なくせば、片がつく、と。魔王とは、その程度の考えしか、持たない者だったか。期待外れだ」
言葉はさらに厳しかった。
「そういうつもりでは……いや、すまなかった。安全管理の徹底を要請するに留めておく」
リンネは軽く口を曲げ、ふいと顔を背けた。持っていた本を改めて開き、目を落とす。
分かりやすい会話の拒絶だった。
今はそっとしておいた方が良いと感じ、マオは居間から、台所に移動した。
ついでに夕食の準備に取りかかりつつ、マオ自身、心を落ち着かせる。
リンネの警護をさせている部下によれば、リンネは実験の最中、記憶に影響のある薬を誤って被って、記憶を失ってしまったらしい。効果は丸一日で、明日の夕方頃には元に戻るはず、とのことだった。
どれくらいの記憶を失ったかについては、リンネ自身が周囲を警戒して明かさないでいるため、よく分からない。ただ、言動から見ると、百六十年以上の分の記憶を失っている可能性が高いと、研究室の室員は言っていた。
実際、先程のリンネの魔王についての言い様も、その推測を裏付ける。
かつて、リンネは人の蘇生法を見つけるための長い旅をしていた。その旅のきっかけである、師匠の殺害の遠因は、魔王の起こした戦争にあった。
「軍にいたことも、あったんだったか」
魔王に対して思うことは、色々とあっただろう。
考えている内に、マオは、自分がここにいることが、酷く拙いことのように感じられて来た。
ただ、薬の効果が切れるまで病院で休む選択肢もあったのに、リンネは室員に説明を受けた後、自分の意志で、家に戻ることを決めたらしい。
つまり、かつての魔王が現在、自分の恋人であるという事実を、知った上で、リンネは帰って来ている。
その意図を知らない内は、マオはリンネと一緒にいるべきだと思う。
加えて、今のリンネの状況は、生き返ったばかりのマオの状況に近い。戦中と戦後という時勢の変化による、知識や文化の断絶を味わっているはずだった。その心許なさを、マオは知っている。あまり一人にはしたくない。
せめてヒモトにいる、リンネの口喧しい友人に連絡を取れれば良かったが、もう時間が遅い。
そうやって考えているうちに、夕食を作り終わってしまった。まだ考えはまとまっていない。マオは今ひとつ態度を決めかねながらも、リンネに声をかけるため居間に戻った。
読書している時は、声をかけても気づかれないことがままあるが、今のリンネは、マオが居間に入った時点で、顔を上げていた。
まだ剣呑な表情をしていたが、夕食を作ったとマオが言うと、呆れたような顔をした。
「魔王が、料理?」
「うん。いらないのなら、明日の朝食べる用に取っておくけど」
「……馬鹿げている」
食事は生活の要だ。過去も含め、マオ自身は馬鹿げているとは思ったことはないが、リンネの言いたいことも分かった。
「馬鹿げていることも、出来る時代になった。俺が死んだ後、皆が尽力してくれたお陰で」
リンネの眉間に皺が寄る。
先程から、マオの知るリンネと比べると、表情豊かだ。
年若い頃は、まだ、そうだったのかも知れない。
自分の中で様々な感情が交錯するのを感じながらも、マオはリンネに笑みを向けた。
「とりあえず、食欲があるのなら、飯を食ってくれないか。不死だから平気だと思うかも知れないが、今のお前によれば、不死であっても、食事は精神の健康のために必須だそうだ」
長い沈黙の後、リンネは立ち上がり、おぼつかない足取りで食卓に移動した。
席につき、あからさまに訝しみながらも、料理を口に運ぶ。どうやら記憶喪失になっても味覚までは変わらなかったようで、箸の進み具合は悪くなかった。
結局残らず食べ終えた。
食事をしたことで人心地ついたのか、表情は少し和らいでいた。
「……美味しかった」
「それは何より」
リンネは席を立たなかった。何か物言いたげな雰囲気を感じて、マオは背もたれに寄りかかった。
良いことを考えているとは、到底思えない表情だ。暗く、リンネは言った。
「私が食べるのを止めたのは。私は、食べなくても生きられるから」
私は、という強調が、リンネの背後に、それ以外の人々──食べられずに生きられなかった人々を、浮かび上がらせた。
あの頃、食べ物は不味くて、少ししか手に入らなかった。しかも、魔物ならば人間に、人間ならば魔物に、襲われることを、常に警戒していなければならなかった。穏やかな食事などというものは稀有だった。
「知っている」
食卓に立ち込めかけた空気を、あえて、割るように。
「知っているよ」
当時も、よく知っていた。
罪もないのに飢えて死んだ者が、人間にも魔物にも「いた」。このリンネからしてみれば、「今まさにいる」人々のことは、常に心の中にある。
その上で、魔王は戦っていた。
「苦労をかけている」
「──そう」
リンネは暗い表情のまま、うつむいた。
しかし、少しして、肩を落とした。
「けれど……良い時代になった」
「釣り合うものではない。俺は、あなた方にかけた苦労と、あなた方から奪ったものを、忘れない」
その犠牲があったから今がある、などと、過去を正当化する気はない。本当ならば、何の犠牲もなく、革命を成さなければならなかった。
マオのそばに今いるものは、誰も、魔王を許してはいない。
「あぁ」
リンネはため息のような声を漏らした。
「良かった」
それが、何に対する言葉だったのか、定かではない。
しかしマオはその声に、少し救われた気がした。
リンネはそれで一区切りつけたようで、「ご馳走さま」と言った後、「片付けはどうしたら?」とはにかみ笑顔をマオに見せた。
いつも見ているのと同じ顔で作られた笑みなのに、その中身が違うだけで、雰囲気が違った。
新鮮さを感じると同時に、切なくなる。
この笑みも今はない。
戦禍か、あるいはリンネの師匠の蘇生を待つ時間で、失われてしまった。
「いいよ。今日くらい、ゆっくり休んでくれ」
リンネはその後、家にある書物に読み耽り、合間合間にマオと色々な話をして、一日を終えた。
翌日、マオが仕事を終えて家に帰って来ると、居間にはリンネがいて、周囲には本や紙が散乱していた。
記憶を失ったリンネは、元に戻す場所が分からなくなりそうだと言って、一冊ずつしか本を取り出していなかった。つまりこの有様は、元通りになったということだろう。
「ただいま」
声をかけると、やっとリンネはマオがいることに気がついた。
「おかえり」
「戻ったな……。昨日の記憶はあるのか?」
「あまりない」
何があっても基本動じないリンネが、珍しく不安そうに目を陰らせた。
「何か言ったか、私は」
「話はした。俺と会う前のお前と話せたようで、面白かったよ」
「……なら、いい」
あまり良くなさそうに言った後、リンネは周囲の紙を漁り、二つ折りの紙をマオに差し出した。
「伝言。私から」
「お前宛てになっているようだが。読んでもいいのか?」
紙には「私へ」と書かれている。リンネは首を振って、それ以上何も言おうとしない。
紙を裏返した。
"未来の私。お前を私は許さない。
だが、この幸福の価値は、認めよう。
良い時間だった。
お前の明日に祝福あれ。
追伸。
感謝を言わなかったことに、今気がついた。代わりに頼む。"
これは革命が終わった後の、ある一日の話。
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