《心》
其れは視ることも聴くことも触れることもできず、然れども、人を人たらしめるものである。《心》があるから人は誰かを愛し、細やかな幸福に喜び、楽しみを捜すことができる。だが《心》から産まれる感情は好ましいものばかりではない。怒り、悲しみ、怨み……強すぎる感情は時に人を惑わせ、人を壊す。
故に彼らがいる。
《心移し》
荒ぶる感情をしずめる、のではなく、心の一部を取り除き、再びに悲しみや怒りに苛まれることのないようにするという力である。
だが、わすれてはならない。時に不都合に想われる《悲しみ》も《怒り》も、人の心を動かすために無くてはならない心のかけらだということを。
それでも《心》さえなければ、と願う者は、いる。
《血啜り》《泣き女》《焔天女》《神隠し》いずれも人の感情から端を発した事件である――心を喰らう妖と心の無い小説家(戯作家)は「感情」にまつわる様々な事件を解決していく。その度に人の救われぬ業を見、業の裏にある愛おしいほどの《情》に触れる……
物語はもちろんのこと、妖と小説家の、ひと言では到底語りつくせぬ奇妙な関係に惹かれ、イッキ読みさせていただきました。そうして最後まで拝読させていただき、ああ、だから《人》というものは愚かしく……愛おしいのだと、えもいわれぬ想いに浸っております。
人の《心》は醜くも、美しい。
書籍化希望です。是非とも皆様もご一読ください。きっと読みはじめたら、とまらないはずです。
人間が人間であると言えるために
《心》というものが必要なのだとして
喜怒哀楽に心を支配された人間は
果たして「人間らしい」というべきなのでしょうか。
美しくも面のように表情の無い戯作者・佐倉と
明朗快活で不思議な魅力のある少年・すずめ丸。
彼らの元にやってくるのは激情を持て余す相談者兼ネタ元たち。
彼らの紡ぐ物語を見守ってまいりますと
人間が人間でいられるのは《心》があるからかどうかはさておいて
隣にかけがえのない存在がいるからなのかなと
そんなことを考えさせられます。
悲しみ、怒り、罪悪感、
喪失感に、生や愛、金への渇望……
《心》に執着しすぎるあまりに
人が人ならざる者になりつつあるこんな時代だからこそ
多くの方にお読みいただきたい作品です。