終章 彼女がいる日常

 暗い闇の中。

 気づいたら僕はそこにいた。

 黒一色の世界には何もなくて、僕はしばらくそこに立ち尽くしていた。


 ……ここが夢の中で、何が起こるのか分かっているからだ。


 やがて、空に銀色の女が現出する。

 その女はこの世のものとは思えないほどに美しかった。

 銀色の長髪をたなびかせ、理想的な体躯に黒い装束を纏っている。

 高貴さと儚さがあいまった幻想的な雰囲気を醸し出す彼女は、その瞳で僕を見据える。


「やぁ。久しぶりだね」


 その女は、気味が悪いほど清冽な声を吐き出した。


「――魔女」

「ああ、よかった。覚えていてくれたんだね。もしかしたら君はもう私のことを忘れているんじゃないかと不安になっていたところだよ」

「僕が君を忘れる? 冗談は大概にしてくれよ」


 代償にできるほど大切な記憶じゃない。

 そんな皮肉を込めた発言を受けても、魔女は薄く笑っている。


「――何をしに来た?」

「おや、君こそ私に聞きたいことがあるんじゃないと思うんだが、違うのかな?」


 その態度が気に食わなかった。


「――なぜ、僕を過去の世界に飛ばした?」

「私の目的が人類史の存続だということは君にも説明したはずだ」

「知っている。だから僕は君と契約を結んで、人類を救ったんだろう?」

「ああ、確かに君のおかげだ。あの世界は今も存続しているよ」

「だったら、どうして!?」

「結論から言うと、あれじゃ足りない。あの世界線はただ存続に成功しただけだ」

「何を、言っている……? 何か他にも目的があるのか?」


 魔女は僕の質問には答えなかった。


「ともあれ、これで世界は変わった。君を過去に送ったのは正直なところ賭けだったが、見事にやってくれたね。君にはいつも驚かされる。いいかい、ルナ=ベイリーの生死は人類史において最も重要な分岐点だ。君はそれを変えたどころか、覚醒までやってくれた。いやはや本当に、今回ばかりは手放しで褒めたい気分だよ。流石は世界を救った英雄だ」


 ……どうやらルナはちゃんと生きているらしい。

 ヴァルトを倒した時の記憶が曖昧なので、少し不安だったが。


「僕はルナを助けたいから助けただけだ。君のためにやったわけじゃない」

「それはそうだろう。だからこそ私たちの利害は一致する。過去の世界に戻った君は、今のように大切な者たちをすべて救おうとする。忘れてしまっているとしても」


 魔女の言う通りだった。

 代償で思い出せないけど、僕が逃げたせいで死んでいった人たちがいる。

 魔女の思惑通りに動くのは癪だが、起こると知っている悲劇は見過ごせない。


「ルナ=ベイリーは救った。だが、まだだ。まだ人類が敗北する結末は変わらない。未来というのは樹のように分岐する。君が望む未来に辿り着くためには、絶対に助けなければならない人間が存在する。あの世界の人類史が辛うじて存続した要因となる者たちだ」


 ――利害は一致する、と魔女は言った。

 なら、その人間たちはきっと僕の友人なんだろう。


「戦争の終盤となる五年後に、彼らが揃っていることが未来を決定的に変える鍵となる」

「僕に……みんなを救えと言うのか?」

「あの世界と同じ結末でいいのか? ――君だけが頼りなんだ、英雄」


 魔女は勝手にそう言って、僕の言葉を待たずに消えていく。

 そして意識は再び闇の底へと沈んでいった。




 ◇





 目を覚ますと、すぐ近くに幼馴染の少女がいた。


「ルナ……?」

「えっ、今ブラム、喋った!? 起きてる!? ねえ生きてる!? 大丈夫!?」

「ちょ、体、揺らさないで、頭ぐらぐらするから!」

「やった! ブラムが生きてる! あはは、やったー! おはようブラム!」

「ルナちょっとテンションおかしくない!?」


 ルナはそのまま勢いよく抱き着いてくる。

 その衝撃に思わず「うっ」と悲鳴を上げかけた。


「良かった……このまま目を覚まさなかったら、どうしようかと」


 文句を言おうとしたけど、ルナの目尻に涙が溜まっているのを見て何も言えなくなった。

 どうやら随分と心配をかけてしまったらしい。


「僕、どのくらい寝てたの?」

「今日で一週間」

「そんなに!?」

「そんなにだよ! まったくもう、どれだけ心配したと思って……!」


 体が痛くなるほどにぎゅっと抱き着いてくるルナ。

 そんな彼女の頭を撫でて安心させようと思って――気づく。

 左腕が、ない。


「……ま、そうだよな」


 目を覚ましたばかりだからと思っていたが、視界の違和感の原因にも思い至る。

 手で触ると、右目の部分は包帯でぐるぐる巻きにされていた。おそらくもう使い物にはならないだろう。治癒魔法にも限界がある。特に目は繊細で、軽い傷でも処置は難しい。

 体も完全には回復していないが、おそらく一週間ずっと治癒魔法をかけ続けてくれたんじゃないだろうか。あれだけぼろぼろにされたのに、ほとんど痛みがない時点で奇跡だ。

 僕が左腕や右目を気にしていることに気づいたのか、ルナの表情がくしゃりと歪む。


「ごめんね、ブラム……わたしのせいで」

「君のせいじゃない。むしろ、今生きてるのが君のおかげだ」

「でも、わたしがヴァルトに憑依されなかったら、自分だけでヴァルトを追い出せるくらいの力を持っていたら、そもそもあなたがそんな目に遭うことはなかった」


 そんな表情を見るために助けようとしたわけじゃない。

 だから僕は右手でルナの頬をむにーっと引っ張った。


「ふらむ、らりをして」

「この程度、気にしなくていい。生きてルナにまた会えたんだ、それだけで十分だよ」


 僕はルナの柔らかい頬をいじくりながら、彼女がちゃんと生きていることを実感する。今度こそきちんと助けられた……とは言い難いし……何なら助けられたのは僕だけど、そんなことは気にしない。僕もルナも今こうして生きている。それで満足だった。


「――だから、君は笑っていてくれ」


 そんな意志を込めて微笑みかけると、ルナの顔がみるみるうちに赤く染まった。


「う、うん」

「これからも、二人で一緒に生きていこう」

「……う、うん」

「ずっと君の傍にいる」

「…………ぅ、うん……」

「幼い頃の約束を果たすんだ。一緒に戦って、一緒に英雄になって、絶対幸せになるんだ――」

「――お、お願いだからもうやめてー!!」

「ええっ!?」


 これからの先の未来を考え、真剣に覚悟を決めていたのに……。

 傷ついた僕の心など露知らず、ルナはなぜか慌てたように病室から出ていく。


 もしかして、気持ち悪かっただろうか?


 でもルナに対してはいつもあんな態度を取っているはずだし……。

 僕が考え込んでいると、病室の扉の向こうから声が届いた。


「――いいのかよ、何も言わなくて」


 言葉と共に入ってくるのはレオだ。

 きっと僕の記憶などを含めた事情のことを言っているのだろう。

 ルナにはそれを話してやるべきじゃないのか、と。

 かつてのルナは死んでいたなんて話はするべきじゃないとも思った。

 でもきっとルナはその扱いを嫌がるだろう。彼女は、共に戦う僕の仲間だ。

 だから。


「……ああ、後で話すよ」


 そもそも最後まで取っておいたルナの記憶も代償に捧げたから、やりなおし前のことは本当にほとんど覚えていない。残っているのは多少の知識ぐらいではあるけど。


「……そうか、ならいいんだ。――あの後、俺とヒルダ先生は何人かの魔法騎士を連れてお前の後を追った。そしてあの荒野で死にかけのお前と、お前を必死で治そうとするルナを見つけた。そして俺がお前をここまで運んでやったんだ。感謝しとけ」

「そうだったのか……ありがとう、レオ」

「――怪人についてはヒルダ先生が騎士団に報告したものの、反応としては半信半疑って感じだな。あのヴァルトって奴の死体を解剖すりゃ何か分かるんだろうが」


 レオが悩むように言った台詞で、ヴァルトが確実に死んだと分かった。ただ、あまり嬉しくはなかった。安堵の気持ちはあるが、苦々しい気持ちも正直ある。


『だったら今更、何のつもりだ!? もうテメェが何をやったって、あの女は戻ってこねえ! それ以外の連中だってそうだ! 過去は変わらねえ、遅すぎるんだよテメェは!』


 かつてはそうやって僕を罵っていたあいつが、


『きっと、俺はお前らみたいに、なりたかったんだ』


 最期にそんなことをのたまうなんて、思ってもいなかった。


 ――結局、奴と僕は本当に似ていたんだろう。


 あまり認めたくはないけど。

 でも、今の僕の傍にはルナがいた。

 彼女は僕なんかがいなくても立ち上がれる存在だった。

 やりなおし前も僕が殺さなければ、ルナはヴァルトを何とかしていたかもしれない。

 そう考えると、余計に自分の愚かさを実感する。

 だけど過去の自分を呪ったところで今が変わるわけじゃない。

 これからは未来を変えるために戦うんだ。そのために過去を切り捨てた。


「――ブラムくん、大丈夫!?」

「目を覚ましたって聞いて慌てて来たんだけど!」

「あの、私たちを助けてくれたのはブラムくんだって聞いて、感謝したくて……!」


 どたばたと音を立てて三人の少女がブラムのもとへ駆け寄ってくる。

 考えごとにふけっていたせいか、突然のことに混乱して目を白黒させる僕。

 そこにいたのは、実戦魔法の講義後にも話しかけてくれた三人の少女だった。


「俺がちゃんと説明してやったんだよ。学外実習を襲撃してきた怪物たちの被害からみんなを救ったのはお前だってな」


 ニヤニヤと笑いながら語るレオ。


「そうそう、レオから聞いたんだ、ブラムがすっごい活躍した話!」

「あたしたちを助けるために、怪物をバッタバッタと切り裂いたんだってね!」

「流石、ブラムくんです……!」


 頬を赤らめて詰め寄る少女たちに、僕は曖昧な笑みで応じる。

 みんなを助けたのは間違いなくレオなんだが、そこを説明するつもりはないらしい。

 僕がやったのはルナを助けたことだけだし、何なら助けられたのは僕だし、このくだりを何度もやるのは心が痛くなるのでやめようかな……。愚か者の限界を感じる……。


「た、大したことないよ、この程度……」


 レオから「そういうことにしろ」と目線で告げられ、こいつに借りがいくつもある僕は何も言えなくなる。褒められれば褒められるほど空しいなんてこともあるらしい。

 名前を忘れて傷つけてしまった負い目もあるし、可能な限り彼女らに優しく接する僕。

 そこでガラッと扉が開いた。


「――ブ、ブラム! さっきは……その、逃げちゃってごめんね! あの、ぜんぜん嫌とかじゃなくて、ただ恥ずかしくなっちゃっただけで、本当は嬉しかったし、それに、その……ずっと言えなかったんだけど、わたし、ブラムに伝えたいことがあって――え……?」


 扉を開けて真っ赤な顔で何やら一気にまくしたてるルナの勢いが急激にしぼんでいく。

 僕は極めて冷静に今の状態を見返してみた。

 気づけば僕の両腕は両脇に座る二人の少女の腰に回されており、もう一人の少女は僕の股の間に座り、背中を僕に預けていた。ついでに差し入れの果物を「あーん」されていた。


「ブラム……???」


 ルナから目のハイライトが消える。

 少女たちもまずい気配を感じ取ったのか、そそくさと僕から離れていく。


「ち、違うんだ。みんなは僕に感謝の気持ちを伝えてくれただけであって……」


「そういう人だったよね。うん。わたしが勘違いして舞い上がってた。わたしのせいだ」

「ル、ルナ。僕の一番はいつだってルナだ。何度も言っているだろう?」

「うん。そういうことを誰にでも言う人だったよね」

「ぼ、僕は何もしていない! みんなが寄ってきただけなんだって!」

「ええ……? その言いぐさはどうでしょう?」

「自分から体触ってきたよね?」

「そういえば一応聞きたいんだけど、あたしたちの名前は流石に思い出してるよね?」

「いや、ちょ、それはごめん――て、ていうか、待って、ルナー!?」

「相変わらずお前は最高に愉快だな、親友」

「レオは笑ってないでルナを止めてくれ!」


 悪魔のような微笑みを浮かべて去っていったルナを慌てて追う僕。

 ルナの機嫌を宥めるのは大変だったけど、


「……仕方ないなぁ、ブラムは」


 まったくもう、といつものようにため息をついた。

 呆れたようなまなざしを僕に向け、苦笑する。

 その笑みを見て、このやり取りをして、きっと昔もこんな感じだったんだろうと、忘れてしまったかつての日常に一抹の寂しさを覚える。でも後悔はしていない。


 だって大切な記憶なら、今ここにいるルナとまた一緒に作っていけばいい。


 ――夢の中に現れた魔女の言葉を思い出す。


『ルナ=ベイリーは救った。だが、まだだ。まだ人類が敗北する結末は変わらない。未来というのは樹のように分岐する。君が望む未来に辿り着くためには、絶対に助けなければならない人間が存在する。あの世界の人類史が辛うじて存続した要因となる者たちだ』


 ――忘れてしまった人たちのことを思う。


『戦争の終盤となる五年後に、彼らが揃っていることが未来を決定的に変える鍵となる』


 静かに、僕は決意した。


 もう守りたいものから、助けたいものから目を背けたりしない。

 顔も名前も憶えてないみんなは、ずっと逃げ続ける僕を助けてくれた。





 だから今度は、僕がみんなを助ける番だ。






<了>


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手遅れ英雄のやりなおし 雨宮和希 @dark_knight

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