伸ばした手は、いつか

白木錘角

空を掴むような

そらって言うのはね、からなんだよ」


 彼女がそう言ったのはいつの事だっただろうか。自分が何かを言って、それに対する返答だったはずだ。小学生らしからぬ達観した性格だった彼女は、時々大人びた、自分には理解の出来ない返答をする事があった。


「本当は空なんて存在しない。地面と宇宙の間にあるのは大気だけで、その中に空っていう明確な形を持った何かがあるわけじゃないんだよ。なのに、皆は空を実在する物のように扱っている……ううん、『空』が存在すると思い込んでいる」


 なるほど、そういう考え方もあるかもしれない。

 よく空と並べられる海を例にとってみると、海と川や湖の区別は簡単である。淡水か塩水か、外海と隔絶している、または極わずかな経路でしか繋がっていないか。判断基準はいくつもある。

 一方、空か、空でないかの区別はどうしても個人に委ねられてしまう。自分にとっての空と、彼女にとっての空は同一ではない。


「だから人は真っ青な空を見ると吸い込まれそうで怖くなる。そこにあるはずの物の本質が、空っぽだって本当は分かっているから」


 だからこそ、人はその空っぽに強い思いを映し、その空っぽを満たそうとする。空に形を与え、それに触れるために。

 2人の上を、飛行機が通り過ぎていく。空に1本刻まれた飛行機雲は、そこに空がある事を証明しているかのようだった。


「だから……強く願っていれば、いつかきっと、空を掴める日が来るよ」


 そうだよね、お兄ちゃん。彼女はそう言って……小さく笑った。









蒼羽あおば。空は……高かったよ。俺が思ってたよりもずっと)


 地上200mの高さにある霊園、天慰園ピュセル・ホール。そこから見上げる空は、地上で見るのと変わらず青く、高い。

 芥田陽佐あくたひさは、持ってきた花束を墓前に添える。

 自分にこんな事をする資格があるのかは分からない。だが、どうしても自分は謝らなければいけないと思った。


「あの……もしかして芥田選手ですか?」


 不意に聞こえてきた声に振り返ると、いつの間にか1人の女性が芥田の背後に立っていた。

 大きめのバッグを持った、白いワンピースの女性だ。麦わら帽を目深にかぶっており顔が見えないので正確な年は分からないが、声の感じからして芥田より少し若いくらいだろうか。


「はい、そうですけど……」


 陽佐が今日ここに来る事は、コーチを含む数人にしか伝えていない。まさかどこかから情報が漏れて、マスコミ関係者に待ち伏せされていたのだろうか。


「やっぱり!」


 女性が嬉しそうに手を合わせる。その様子から判断するに、あらかじめ情報を知っていたのではなく偶然居合わせただけのようだ。


「私、ずっと芥田選手のファンだったんです! この前のフルオーバーの世界大会も見ました! 初出場で3位だなんて凄いです!」


 サイン貰っていいですか? と女性は持っていたバッグの中から一冊のノートを取り出す。正直なところ、今はそんな気分ではなかったが、陽佐の手はほぼ無意識に、20年近い選手活動で染みついた動きを反復した。

 サインをすればこの女性も満足してくれるだろうと思ったが、彼女は帰ってきたノートを見て不思議そうな顔をする。


「あれ……、あの言葉は入れないんですか? 『そらを掴め』ってモットー、私は結構好きだったんですけど」


「あぁ、あれね」


 ともすれば不躾に聞こえる彼女の言葉に、陽佐は苦笑して答える。


「『空を掴め』だなんて、自分には過ぎた言葉だったんだよ。僕程度の人間じゃ……空には届かない」







 フルオーバー。近年新しく生まれた競技で、空気を噴射するシューズを足に付け、空中にあるターゲットに触れながらより高いところを目指す。頼れるものが何もない空中で自在に動ける身体バランスと、風や移動によって体勢を崩す事のない強い体幹が求められる、難度の高い競技だ。

 芥田陽佐は、プロのフルオーバー選手の中では唯一の日本人である。陽佐の活躍でフルオーバーの日本での知名度はじょじょに上がってきてはいるものの、練習するための施設の少なさやその危険性が相まって、未だマイナースポーツの域を抜け出せてはいない。


「僕がフルオーバーを初めて知ったのは小学生の時だった。父親がジムのトレーナーで、その伝手でシューズを貰ってきてくれたんだ」


 当時は1mかそこら浮いていただけだったろうが、陽佐は確かに空を飛んでいると思った。あんなに高かったジムの天井がすぐ近くに見える。その時の感情を、陽佐は生涯忘れる事はないだろう。

 そこから陽佐はフルオーバーの練習にのめり込むようになり、天性の身体能力の高さもあって、その腕をみるみる上げていった。初めはジムの中で練習していたのがすぐに屋外での練習になり、5m、10m……と最高到達点はどんどん高くなっていく。

 その中で、陽佐にはある目標が出来た。自分の真上に広がる空、普通なら決して手の届かないそこに、自分なら触れる事ができるかもしれない。それこそくうを掴むような、子供らしい無謀な夢は、その後の陽佐の原動力になった。


「アメリカからスカウトが来たのもその頃だったかな。フルオーバーに夢中だった僕は一も二もなくその申し出を受けた」


 このままご子息を日本においておけば、彼の才能は腐ってしまう。スカウトマンの言葉を1番理解していたのはおそらくトレーナーだった父だろう。フルオーバーはアメリカではすでにメジャースポーツの一角になっており、当時のトップ選手のほとんどがアメリカ人だった。一方日本での競技人口は限りなく少なく、専門のコーチもいない。このまま陽佐が日本にいては、彼の才能が埋もれてしまうのは明白だった。

 こうして中学生で渡米した陽佐は、学生生活のほとんどをフルオーバーに捧げる事になる。


「……まぁ、そこまでやってもデニーに勝てなかったんだけど」


 同じ団体に所属しているデニー・スクイズとは何度も対決したが、陽佐が勝てたことは1度もない。決して自惚れていたわけではないが、日本どころかアメリカでも敵無しだった陽佐にとって、その敗北は大きな衝撃となった。


「でも、世界大会では接戦だったじゃないですか! あのくらいの差ならいくらでも……!」


 女性が言う。

 記録で見れば確かにそうかもしれない。だが、あの日、会場で見たデニーは陽佐よりはるかに高くを飛んでいた。

 そのデニーですら2位。1位のセバは、文字通り次元が違った。

 2人がバランスを崩した130m地点を悠然と踏み超え、さらに高みへ飛ぶセバの背に、陽佐は翼を見た気がした。記録は160m。10回目の記念すべき世界大会での前人未到の150m越えに、フルオーバーの界隈は大いに盛り上がった。


「空を掴めるのは、きっとセバみたいな選手だ」


 いくら高く飛ぼうが、空はいつも自分の上にある。セバやデニーがその空に触れるのを、自分は見ている事しかできなかった。


「僕は馬鹿げた夢を追いかけて、家族の最期にも一緒にいてやれなかった。その後の大変な時期も支えてやれなくて……。まったく、兄貴失格だよ」


 芥田家の経済状況は、余裕があるとは到底言えないものだった。それでも渡米を許してくれた家族に、何の成果もなく顔を見せる事はできない。そうやって帰国を先延ばしにしてきた結果、世界大会3位の称号を得た時には全てが遅かった。


「芥田さん……」


「ごめんね。変な事を聞かせちゃって。そういう事だから、これからのサインは別のもので――」


「私なら、空を掴めます!」


 大きな声がした。陽佐は一瞬遅れて、その出所が目の前の女性だと理解する。その華奢な体からは想像もつかないような大声には、抑えきれない悔しさがにじみ出ていた。


「いいですか、よく見ていてくださいね!」


 そう言うと、陽佐が止める間もなく女性は園内を横切り、園の端の鉄柵から身を乗り出す。


「ちょ、ちょっと……⁉」


 女性の腕がまっすぐ伸び――その手がぎゅっと握られた。


「ほら、掴めましたよ、空」


「えっ……?」


 女性の腕は水平に伸ばされている。真上に伸ばしたのならともかく、これで空を掴んだと言うのは無理があるのではないか。


「でも地上から見たら200m上なんて空じゃないですか。だから今、私は空を掴みました」


「いやそれはそうかもしれないけど……」


「空が上にないといけないなんて誰が決めたんですか。いいですか? 空なんて皆が勝手にあると思っているだけで、本当は……」


 ―—空なんて存在しないんだよ。


(……!)


 彼女の声に、昔の思い出が重なって聞こえた。


「誰よりも高く飛べば、この高さまで飛べば、そんなあやふやな目標じゃあ、宇宙まで飛んでも空は掴めませんよ! もし本当に空を掴みたいなら……」


 再びその手が握られる。


「強い思いで、その空っぽを埋める……かい?」


「その通り」


 彼女は麦わら帽を少しあげて笑った。


「……それじゃあ、君は今、どんな思いで空っぽを埋めたんだ?」


「芥田さんが飛んでいるところをもう1度見たいって願いです!」


「そっか」


 腕を軽く前に伸ばし、宙を掴む。もし、フルオーバーでここまで来られたのなら、その時自分は空を掴めたと感じるのだろうか。


「……ありがとう。僕はもう行くよ」


「はい! これからも頑張ってくださいね! 私、ずっと応援してますから!」


 これからすぐにアメリカに戻らないといけない。世界大会は1年後だが、いくつかある大規模大会の内の1つが1か月後にある。かなり無理を言って実現した帰国なので、そのせいでパフォーマンスが落ちてしまってはコーチやスポンサーに申し訳ない。


(あっちに帰ったら基礎訓練と体幹トレーニングの量を増やそう。あとは突風に耐えれるようバランス練習も少し多めにして……)


 陽佐の足が一瞬止まる。


(もう1度、フルオーバーを楽しんでみよう。相手や記録なんて関係なく、ただ自分の目指す空に届くために)


「……別れた時から何も変わらないな。いつまでも情けない兄貴だよ、僕は」









「結局、私には気づかなかったか。もう18年も会ってないし、しょうがないのかなー」


 陽佐のいなくなった霊園で、彼女はバッグから取り出した花束を陽佐の物の隣に置いた。


「まったく、困った人よね。母さんもそう思うでしょ?」


 まぁ、でも。彼女はあの時と同じように笑う。


「もう大丈夫そうね。……次は堂々と帰ってきなさいよ、バカ兄」



 3年後、第13回フルオーバー世界大会において、200m越えの快挙が達成された。地上に戻った彼は、しばらく右手を固く握りしめたままだったという。

 

 

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伸ばした手は、いつか 白木錘角 @subtlemea2

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