空で

惟風

空で

 気がつくと、空の上にいた。

 見渡す限り一面、頭上には抜けるような青空が広がり、足元には綿のように白くふわふわした雲の地面が続いていて、暑くもなく寒くもなく、俺は一人ぽつねんと佇んでいた。

 病院のベッドでうつらうつらしていたはずだったのだが。もしかして、死んだのか。ここが死後の世界ってやつなのかもしれない。

 入院してから少しずつ、歩けなくなり食べられなくなって、息をすることすら苦しくて、うんざりしていたところだったから、ちょうどいい。

 こんなに身も心も軽いのは何年ぶりだろう。

 うーん、と伸びをする。何か違和感があった。

 自分の腕や足を見てみる。

 紺色のTシャツに、グレーの半ズボンとスニーカー。足も手も、随分と小さい。それに、この服は、小学生の時によく着ていたものだ。

 どうやら、子供時代の姿に戻っているらしい。姿見などないのではっきりと確認はできないが。


「パパ!」

 靴も服も懐かしいな、と感慨にふけっていると、不意に声をかけられた。

 飛び上がるほどびっくりした。

 今の今まで、自分以外誰もいなかったはずなのに。

 驚きはしたが、誰が自分のことを呼んだのか、振り返る前からわかっていた。

「浩一……。」

 恐竜の柄のTシャツを着た男の子が、ボールを持って立っていた。子供に戻っている自分と、同じくらいの背丈だ。

「浩一!」

 もう一度名前を呼んで、抱きついた。涙と鼻水が一気に溢れてくる。

「パパ、痛いよ、もう。」

 息子がくすくすと笑いながら言う。

 その声も、姿も、遠い昔に失った当時のままだった。ずっと、会いたかった。もう一度抱きしめてやりたいと、何度も何度も思った。

「迎えに、来てくれたのか」

 身体を離し、袖で乱暴に顔を拭いて、しゃくりあげながら何とか尋ねる。

「うん。パパと早く遊びたくて。」

 浩一が言った途端、辺りの景色が見覚えのある場所に変わった。


 昔住んでいた家の、近所の公園だ。

 空は相変わらず青く、太陽は輝き、雲一つない。

「ああ、遊ぼう。いっぱい遊ぼうな。」

 大きく頷いて浩一に答えた。

 仕事が忙しいだの疲れているだの、言い訳を並べてはろくに相手をしてやらなかった。

 ゲームをしよう。遊園地に行こう。お祭りやってるよ。アスレチック楽しいよ。

 何度も誘われていたのに。

 そのうちそのうち、と思っている間に、息子はあっけなく交通事故で還らぬ人となった。


「何でも良いぞ。サッカーするか?ブランコも好きだったよな。」

「じゃあ、先にブランコで靴とばししよう!俺めちゃくちゃ上手いんだぜ!」

 浩一は目を輝かせて、遊具に向かって走り出した。

 後を追おうとした瞬間。

「ねえ、私も、仲間に入れて欲しいな。」

 また突然、横から人が現れた。今度はポニーテールの女の子だった。ピンク色のワンピースを着ていて、息子と同じくらいの年齢に見える。

「え、え……?」

 娘の美加に少し似ているが、違う。美加は男の子のような服を好んで着る、髪の短い子供だったはずだ。

「もしかして、美樹……なのか?」

「ケン君にあんまり昔のアルバム見せたことなかったもんね。わかんなくてもしょうがないか。」

 目の前でいたずらっぽく笑う少女は、妻の美樹だった。

 浩一の死後、美加まで失いたくないと過保護になった俺を、事あるごとに諫めてくれた。

 苦楽を共にして生きてきたが、数年前、ガンを患い亡くなった。

 枕元で年甲斐も無く泣きじゃくる俺に、「先に行って待ってる」と言い残して。

「久しぶりだな、本当に待っててくれたんだな。」

「ケン君、昔から私のこと待たせてばっかりね。」

「ふふっ。」

 どう見ても小学生くらいなのに、口調は大人なのがどうにもおかしくて、吹き出してしまった。

「何よ、何かおかしい?」

 美樹が心外そうに頬を膨らませる。

「いや、まだお前の姿に慣れなくて。」

「もう! せっかくケン君に合わせてあげたのに。」

 言うやいなや、二十代くらいの姿に変わった。

「え?」

「私、初めはこっちの姿だったのよ。生きてる時、若い頃に戻りたいなあってよく思ってたからかな。」

 美樹はくるりと回って、また少女になった。

 死んだら、皆子供の姿になるわけではないのか。

 なら、どうして俺はここに来た時から子供なのだろう。


「何してんのパパー! ママも! 一緒にブランコしよう!」

 息子が、声を張り上げて呼んでいる。

「行こう。」

 美樹が、手を差し出した。

 その手を握る。


 ブランコを漕いでいると、後ろから一陣の風が吹いた。同時に、娘に呼ばれた気がした。

 振り返っても、誰もいない。木々の向こうに、雲の地平線が見える。

「どうしたの?」

 飛ばした靴を取りに行っていた美樹が、怪訝そうに声をかけてくる。

「美加の泣き声が聞こえたんだ。結局、別れの挨拶できなかったんだよな。」

 妻と息子に再会できたのは嬉しかったが、残してきた娘のことだけは心残りだ。

「そうだったの……。」

「あいつすげえ泣き虫なの、いつまでたっても変わんねーんだな。」

 浩一がブランコから飛び降りながらやれやれといった調子で呟く。

「そりゃ泣いちゃうよ。大事な家族との別れは悲しいからね。」

 美樹が浩一を優しく抱き締める。

「知ってるよ。」

 息子が短く言った。

 そうだ。この中の誰もが、知っている。

 俺もブランコを降りて、二人を抱きしめた。


 再び、風が吹き抜けた。娘が、美加が泣いている。胸が痛くなった。

「美加、大丈夫かな。寂しくさせちまうな。」

「しばらくは辛いかもしれないけど、あの娘なら大丈夫。貴方ってホントいつまで経っても心配性なんだから。いい加減子離れしなきゃ。」

 見た目と口調がアンバランスなまま、美樹が苦笑する。だがすぐに思い直したようにこちらに向き直った。

「でも、確かに、このままじゃ美加が可哀想よね。ねえ、私達待ってるから、お別れ言ってきなよ。」

「え、できるのか?」

 てっきり、もう戻れないのだと思っていた。

「本当にちょっとだけなら。」

「そうか。なら行ってくる。すまない。すぐ戻ってくるから。」

 声をかけると、浩一はボールを拾ってひらひらと手を振った。

「あいつに、待ってるなって言っといて。戻ってきたらサッカーしよう!」


「目を閉じて。」

 公園の広場で、美樹が俺の両手を握る。

 言われた通りにすると、身体が急激に重くなり、意識が戻っていくのを感じた。

「美加に、よろしくね。」

 囁くと、美樹は俺の手を離した。


 息苦しさと痛みが一気に蘇ってきた。眠くてたまらない。目を開けるのが一苦労だった。

「お父さん……おとうさん!」

 ぼやけた視界に、目に涙をためた中年の女性がいる。

 美加、おばちゃんになったなあ。

 そりゃ俺も皺だらけの爺さんになるわけだ。

 手を動かして娘の顔に触れようとするが、腕はずしりと重たく、ほとんど上がらない。

 雲の上にいた時は、あんなに身軽だったのに。

 もう、頭を撫でてやることもできないな。

 なあ、向こうでな、お前の兄ちゃんに会ったんだぜ。

 お前は小さかったからあんまり覚えてないかもしれないけどな。面倒見の良い兄ちゃんだったんだぞ。

「みか」

 娘の名前を呼ぶが、ほとんど掠れている。

「お父さん、何? 何て言ってるの? 聞こえないよ!」

 美加が、俺の手を握り、声を聴きとろうと耳を近づけてくる。

 懸命に力を振り絞り、唇を動かす。


「ママと」

 眠い。

「兄ちゃんと」

 瞼が下がってくる。

「遊んでくる」

 息が吸いにくい。


「待って、る」


 時間だ。


 娘の耳にどこまで届いたのか、わからない。

 だが、目を閉じる直前に、泣き顔の美加が笑った気がした。

 真っ白な眠気が一気に広がり、再び身体が軽くなった。

 また、空に行く。

 いつか美加も来たら。

 皆で、遊ぼう。


 浮遊感が増していき、昔の記憶がどんどん思い出されてくる。早回しのムービーのようだ。

 これが走馬灯か。

 自分の幼少期や学生時代、美樹との出会いや結婚を経て、浩一の後に美加が生まれた辺りで、待てよ、と気づく。再生速度が落ちる。

 そうだ、あの時。


『パパ、サッカーしよう!』

 広い公園に来ていた。

『ええ……俺もうしんどいわ。』

 当時の俺が、やれやれとシートに座りこむ。

『パパそればっかりじゃん』

 浩一が口を尖らせる。

『パパもうおじさんだからな、すぐに疲れるんだよ。俺だってお前くらいの頃はずっと走り回ってたんだけどな。』

『そっか、なら、パパが子供に戻ったら、もっと一緒に遊べるのにね。』

『お、それでお前と遊んだら、めちゃくちゃ楽しいだろうな。』

 ゴロン、と俺はシートに横になった。

『起きてよー』

 浩一はしばらく俺を起こそうとしていたが、やがて諦めてボールを蹴りながら広場に走っていった。

 浩一が登校中に車に轢かれたのは、この翌日だった。


 そうか。

 だからこの姿で。

 気づいた時には、また子供になっていた。


「パパ!」

 浩一の声が聞こえた。

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空で 惟風 @ifuw

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