エピローグ

「んぅ……」


 深い、深い海の底からゆっくり浮き上がるような感覚とともに、汪璘虎ワン・リンフーは目を覚ました。


 まず最初に感じたのは、ほのかな果実酒の匂い。それに鼻腔を突っつかれ、まぶたがおもむろに開かれていく。


 今度は、見慣れた天井が視界を占めた。


「ここは……?」


 まだ意識のおぼろげなまま、リンフーは上体を起こし、周囲へ視線をさまよわせた。意識がはっきりしてくるにつれて、ここが【槍海商都そうかいしょうと】の借家の、自分の寝室であることがわかってくる。


 さらに思考が明瞭になると、窓から差し込む日差しや、それが昼頃のものであることや……自分が羅鑫ルォシンを「殺した」あとに急に強い睡魔と疲労感に襲われたことを思い出し、さらにそれに至るまでの事柄もすべて鮮明に想起した。


「っ、そうだ! シンフォさんはっ!? 【求真門きゅうしんもん】の連中は!? どうしてボクはこんなとこで寝てんだっ!?」


 自分が寝ている間に、あの戦いはどうなってしまったんだろうか。チウシンとユァンフイ、【吉剣鏢局きっけんひょうきょく】の面々は無事だろうか。何より……怪我をしたシンフォの安否が心配だ。


 こうしてはいられない、すぐに起きて確認しに行こう。


 そう思って寝ていた寝台を降りようとした瞬間、部屋の扉がゆっくり開かれ、黒い美女が入ってきた。


「あ……」


 艶やかな漆黒の長髪に、肌の露出が少なくも内に秘めた曲線美をくっきり表した黒衣。どこか疲れたような色気がある美貌。……紛れもなく自分の師、黎惺火リー・シンフォその人であった。


 ——いや、もう「師」ではないのだった。自分は破門になってしまったのだから。


 しかし、シンフォはひどく驚いたように目を見開くと、その目尻にみるみる涙をため込んでいき、やがてそれがこぼれ落ちた瞬間、飛びかかるようにしてリンフーに抱きついた。


「わふっ」


 彼女の胸に実った巨大な二房が、顔を柔和に挟み込み、埋没させた。


 いつもなら真っ赤になるところだが、耳元で聞こえてくるシンフォのすすり泣きがそれを許さなかった。


「リンフー、リンフーっ……! よかった、目を覚ましてくれたんだなっ! リンフーっ……!」


 思った以上の反応に、リンフーは面食らった。まさか泣かれるとは思わなかった。


 まぁ、確かに散々体を爆破されまくったので、それは心配もするかもしれない。なのでとりあえず、黙ってシンフォの背中に手を回して優しくさすってあげた。


 ひとしきり耳元で嗚咽を聞いてから、リンフーは肝心な疑問の解決に乗り出した。


「シンフォさん、怪我は……大丈夫なのか?」


「ぐすっ…………もう治りかけてる。傷も残らなそうだ。刺さった釘を抜くのは死ぬほど痛かったけど」


 涙声によるその答えに、リンフーは胸を撫で下ろした。


「【求真門】の連中、あの後どうなったんだ」


「……君が、あのルォシンという男を撃破した途端、形成不利と見たのかあっさりと退散したよ」


「チウシン達は、大丈夫なのか?」


「ああっ……少し怪我を負った者もいるが、みんな死人もなく、大事ない。…………というか君、何日前の話をしてるんだっ。ばかぁっ」


 シンフォは顔を離し、駄々っ子のようにそう非難してきた。その泣き顔は今まで見たことがない、少女がすがるるようないじらしいもので、リンフーはドキリと心音を甘くときめかせた。


 しかし次の言葉を聞いた瞬間、別の意味でドキリとすることになった。


「——君、


「二週間っっ!?」


 驚愕のあまり、天井まで飛び上がりそうになる。


 そんなリンフーの手を、シンフォは大切そうに両手で包み込んだ。その手は冷たく滑らかで、かつ震えていた。


「……よかった。目を覚ましてくれて」


 シンフォの目から涙が止まらない。


「私に出来る限りの処置を施したが、それでも君はずっと目を覚ましてくれなくて……引っ叩いても、つねっても、君の顔を私のおっぱいに埋めても、頬に口付けをしても、全然反応してくれなくて…………」


「何してくれちゃってんだっ!?」


 リンフーは一気に顔を真っ赤にした。


「っ……本当にっ、心配、したんだからなっ」


 しかし、ボロボロと涙滴をこぼすシンフォの顔を見て、すぐに羞恥は引っ込んだ。


 代わりに、こう泣かせてしまったことへの申し訳無さが込み上げてきた。


 同時に、改めて思い知った。——自分に告げた「破門」という言葉が、彼女の本心ではないということを。


 リンフーは、シンフォの涙を指でそっと拭いとった。


「ごめん……シンフォさん。心配かけて。でも、シンフォさんが治療してくれたおかげで、こうして生きてる。話せてる」


「すんっ……それはっ、君の鍛え方がよかったからだ。武法の鍛錬の影響で、体の内側が強健に鍛えられてっ、その影響で治りが早かったんだ。そうでなければ、死んでいても、おかしくはなかったんだからなっ」


「なら、やっぱりシンフォさんのおかげじゃんか。ボクをここまで鍛えてくれたのは、紛れもなくあなたなんだから」


 握ってくるシンフォの手を、リンフーも握り返す。


「武法も、体の具合も、ボクの心も……シンフォさんがいるからこそ成長するし、満たされもする。ボクという武法士は、シンフォさんっていう最高の師匠がいてこその物種なんだ」


 リンフーははにかんだ微笑を浮かべ、言った。


「やっぱりボクは、あなたが好きです。シンフォさん。だから……ボクを、これからもあなたの側に置いてください。破門なんて、言わないで欲しい」


 二度目の告白。しかし一度目と違い、まったく恥ずかしさはなかった。一度愛情や恋情をさらけ出してしまえばあとは楽なのだと、リンフーは今実感していた。


「っ……」


 そんな笑顔から、シンフォは目を背ける。見てはいけないものを見てしまったような、そんな罪悪感のようなものが彼女から感じられた。


 その理由はもう分かる。彼女は……かつての行いへの後ろめたさゆえに、好意を受け入れられないでいるのだ。自分は、誰かにモノを教える資格も、愛される資格もないのだと。


 いや、これまでも、シンフォはそういう後ろめたさを感じたまま、自分に教えてきたのだろう。しかし最近になって、彼女の過去の残滓がものすごい勢いで強襲してきた。だからこそ、きっと今はその「後ろめたさ」がより強まっているのだ。


 かつて、彼女が決闘の名のもとに殺してきた武法士達の屍が、頭に焼きついて離れないのだろう。


 その屍が、お前の幸せは許さない、と呪詛を吐いているのだろう。


 いや、その屍には、しゃべる口すら存在しないのだ。


 だって、シンフォの一撃を貰えば、途端に全身が砕けて細かい肉片に——

 

「……っ」


 ルォシンのむごい死に様を思い出し、リンフーは思わず口を押さえる。灼けつくモノが腹の底から喉元まで達しかけた。


 シンフォは薄く笑い、見透かしたように言った。


「……あの技のことを、思い出していたのかい?」


「分かるのか?」


「分かるよ。何年一緒に暮らしてきたと思ってるんだい」


 数秒の沈黙ののち、シンフォは訊いてきた。


「……すごい技だっただろう」


「うん」

 

「凄まじい威力だっただろう」


「うん」


「そして、残酷な技だっただろう」


「……うん」


「もう二度と、使いたくないと思っただろう」


「うん」


「…………私はな、あの技で何十人もの武法士を無数の肉片に変えてきたんだ」


 そこから、自虐めいたシンフォの語り口が流れ出るように続く。


「あの技は、私が君くらい若い頃……濁流のひどい川辺に流れついていた書物から得たものだ。その強力無比な技に私は心躍ったよ。私はずっと力が欲しくて、【盗武とうぶ】をしたりして武法を修行していた。だからその書物はまさしく、天が私の願いに応えて授けてくれたものだと本気で思ったものだ」


 濁流で流れた書物。


 リンフーはそれに似た話を、以前聞いたことがあった。


 たしか、フイミンが言っていたことだ。


 数十年前、盗まれた【黄林寺こうりんじ】の秘伝書の一冊【御雷ごらい拳籍けんせき】が、濁流の中に落ちて行方知れずになってしまった……そういう話だった。


 まさか、シンフォの拾った書物とは——


 リンフーはそこでかぶりを振って雑念を払い落とした。今シンフォが言いたいのは、そんなことじゃない。その書物に書かれた技が引き起こした惨劇と、それを使ってきた彼女自身の心情だ。


「——最高だったよ。名の知れた武法士が、無名の私の拳一発で無数の肉片だ。私は馬鹿みたいに沸き立った。狂喜乱舞だ。その武法士の流派から恨みを買って追い回されることになったが、そんなのは些事だった。自分は強くなったんだ、奪われたり虐げられてばかりだった幼少のみぎりとは違う、自分から奪いに来る人間を何人だってブチ殺せる、自分は最強なんだ…………けど、それでもまだ一人殺しただけだ。これだけで最強と思うのは早すぎる。だから私は名のある武法士を片っ端から尋ね、決闘を挑んで、【白幻はくげん頑童がんどう】を除いた全員を一撃のもとに殺した」


「シンフォさん……」


「——ようやく自分の生き方の間違いに気づいたのは、数十年後、すっかり老いた昔の親友の夫を無数の肉片に変えた時だった。私はその時知った。自分の持つ「力」は、使い方を考えなければ自分を守るどころか、誰かから何かを奪ってしまうことになってしまうのだと。結果的に私は、私から尊厳を奪った両親や、幼い私の処女を強引に奪おうとした金持ちの男と同じ穴のムジナに成り下がったのだ。……もし親友の夫を殺さなかったら、今でもそのことに気付かず、武法士を殺して回る人生を送り続けていただろうよ。武法士たちに追いかけ回されていた四年前の君すら、平気でシカトしただろうよ」


 そう言うシンフォの表情は、諦念に満ちた微笑。


「私はね、こういう女なんだよ。いくら酒の力でごまかそうとも、私の本質は、どうしようもないロクデナシだ。いくら善行を積もうと、自分の人生の穢れを払い落とせた自身がない。……こんな私では、師匠にも、連れ合いにも、相応しくないよ。君という美しい花を、私の瘴気で枯らしてしまう」


「そうだったら、ボクはもうとっくにそうなってる。ボクたちが何年一緒に暮らしてると思ってるんだ」


「【亜仙あせん】ゆえにこんな見た目とはいえ、それなりに年もとっている。寿命だって、君より先かもしれないんだ」


「だったらっ!」


 リンフーはシンフォの両肩を掴み、間近で言った。


「だったら……


「えっ……?」


「これからの人生、ボクを一人前の武法士にするために費やして欲しい。ずっと、ボクを隣で見ることだけに費やして欲しい」


 シンフォの顔が、みるみる朱を帯びていき、やがて真っ赤になった。


 常に酔っ払っているような人なので赤い顔など見慣れているが、今は表情の種類が違う。明らかに羞恥で紅潮していた。


 初めて見る表情だった。


「ば……ばかっ! 年寄りを、からかうんじゃないっ。いつからそんなっ……歯の浮くような言葉を言えるようになったっ?」


「本心を言っただけだよっ」


「ほらまたぁっ! 私はっ、君をそんな子に育てた覚えはないぞっ。君は、どうしてそんなっ……そんなっ…………!」


 シンフォの瞳に、また涙が溢れんばかりに溜まっていく。


「そんなっ…………優しい子に育ってくれたんだ……」


 ぼろぼろ、ぼろぼろ、大粒の涙滴がこぼれ落ちる。


「本当に、私がっ……今の君を作ったのかなっ……?」


「そうだよ」


 リンフーは柔らかく微笑みかけた。


「ボクがこうなったのは、シンフォさんの教育の賜物なんだ。だからさ……大丈夫だよ。もっと自身持っていいんだよ。ていうか、シンフォさんじゃなきゃダメなんだ。あなたは——ボクの唯一の師匠なんだから」


「っ………………ぁぁぁぁああああああああああああああああっ!!!」


 シンフォはリンフーの胸の内へ飛び込み、慟哭した。


「うぁぁぁぁぁぁああああああっ…………! ああぁぁぁああああぁぁあっ……!」


 長年溜め込んできたものを、涙と一緒に吐き出すように。


「あああぁぁぁぁあああっ…………あああぁぁぁぁぁっ……」


 今までの自分という殻を脱ぎ捨て、新たな自分に生まれ変わろうとするように。


 ひたすら、ひたすら、泣き続ける。


 リンフーはそんな彼女の頭の後ろへ、優しく腕を回した。


 軟らかく慈しむように、それでいて堅く守るように、抱きしめた。


 いつも大きく感じていた師の背中は、今はずいぶん小さく感じた。


 胸を濡らす涙の感触を実感しながら、リンフーは改めて強い決意を固めた。


 ——離さない。もう二度と、絶対に離すものか。


 ——これから、数多くの復讐鬼が、彼女に襲いかかることになるかもしれない。


 ——その復讐の刃から、絶対に守り抜こう。


 ——周りの称賛なんか要らない。畜生を守る奴も畜生、と蔑まれても構わない。


 ——この小さな背中を守り抜いて、初めて自分は「英雄」になれる。


 リンフーは、ようやく得た己の天命を噛み締めながら、幼子のように泣く最愛の師をただただあやし続けた。







 そんなふうに大泣きした、次の日。


 適切な処置ゆえか、リンフーの体には痛みがほとんど残っていなかった。が、それでも大事を取ってもうしばらく無理は控えることになった。鍛錬はしたいが、我慢である。


 その間、シンフォが率先して食事の用意を買って出た……のだが、薬の調合は得意でも料理はすべからく下手っぴのようで、見るも無惨な食事を食べてお腹を壊してしまった(シンフォ自身は食べても何ともなかった)。このままでは回復どころではないので、結局リンフーが厨房に立つハメになった。


 さらに食材の調達は、リンフーの左手甲に刻まれた【覇王印はおういん】の威光を使って値引き、安価で済ませた。


 昼下がり。中天から少しだけ西へ傾いた陽の光に照らされながら、師弟二人は【槍海商都】の街中を隣り合わせに歩いていた。


「やはりリンフーがいないと、私は何もできないな」


 シンフォがそう苦笑しながら言った。


 リンフーは「もっとちゃんとしろよな」と言いそうになって、やめた。どういう形であれ、彼女が自分を必要としてくれている事実が嬉しかったからだ。それを否定したくなかったからだ。


「……そうかもな」


「おや、「もっとちゃんとしろよな」みたいなお小言は無しかい?」


「いいんだよ。もう。どうせ言っても直らないだろうし……それに、これからもボクがちゃんとしてればいいんだから」


 シンフォは頬をうっすら染めて驚き顔となり、それからすぐに満面の笑みへと転じた。


「ふふふふふ。そっか、そっか、そっか、そんなに私のことが大好きだというなら仕方ないなぁ。ふふふふ」


「そ、そんなこと誰も言ってないっ」


「じゃあ、私のこと……嫌いか?」


 途端、シンフォはフッと灯りを消したように、悲しげな表情となった。


 ……もちろん、悲しげな「フリ」だ。リンフーから「ある言葉」を引き出したいがための、お茶目な演技。


 案の定、真面目で冗談の通じない気質のリンフーはまごついた様子をしばし見せ、数度の深呼吸ののち、やがて腹をくくったように言った。真っ赤な顔で。


「…………好き、だよ」


「よく言えましたっ」


 シンフォは嬉々として、愛弟子を抱き寄せた。ちょうど頭の位置にあるシンフォの胸部の膨らみが、リンフーの顔を左右からやんわりと挟み込む。一気に顔を赤熱させた愛弟子の耳元へ唇を近づけ、小声でささやいた。


「——良い男になるんだぞ。ううん、良い男に私が育ててやる。みんなが憧れるような英雄好漢に。そして、私好みの男に」


 吐息の甘さとこそばゆさで、リンフーの意識がのぼせたようにおぼろげとなる。食材入りの荷袋が手元から滑り落ちるが、それに意識を向けられない。


 間近にあるのは、シンフォの甘やかな微笑。頬は桜色を帯び、薔薇の花弁のような口唇はゆるく弧を描いており、緩んだまなじりの上にある瞳は潤いをたたえていた。初めて恋を知った少女のようなその微笑に、リンフーの思考力判断力が急激に鈍る。


 心なしか、その花弁めいた唇が視界の中で大きくなってきている。顔が近づいている。近づけているのは自分か、シンフォか、両方か……


 もうあと少しで互いの唇が触れるというところで、


「あらっ? 小さな覇王さんじゃないの」


 聞き覚えのある声が後ろから呼びかけてきた。それによって我に返ったリンフーは跳ね返るような勢いでシンフォから顔を離し、声の主へ振り向く。


「あ、あんたは……游香ヨウシャンっ?」


「そうよ。ふふふ、聞いたわよぉ? すごいじゃないの! 【求真門きゅうしんもん】の幹部、やっつけちゃったんですってぇ? もう街の武法士の間で噂になってるわよぉ」


「え、そうなのか?」


「鈍いわねぇ。ここの武法士達はみんな小躍りせんばかりに喜んでるわよ。「我らが【槍海覇王】が、邪派の柱石ちゅうせきを一本叩き折ってやった。ざまを見ろ」ってね。自分の功績には無頓着な人なのかしら?」


「いや、ただ単に気づかなかっただけだって。ボク、昨日ようやく目を覚ましたばっかりなんだからさ」


 游香ヨウシャンが「そうなの」と納得するのを見てから、リンフーは素朴な疑問をぶつけた。


「というか、どうしてそんなに広まってるんだ? ボクが【求真門】とやりあった話が」


「【吉剣鏢局】の連中が広めまくってるからよ。次男坊の高励峰ガオ・リーフォンが指示して、大々的にね」


「あいつめ……」


 子犬みたいに尻尾を振って「褒めて褒めて」とばかりに笑っている我が弟分が、脳裏に浮かんでいた。


 游香ヨウシャンは、にっこりと艶っぽい微笑をたたえ、


「——【黒震こくしん】」


「は?」


「あなたの渾名よぉ、覇王さん。真っ白な怪物に変わった【求真門】の下品坐かひんざ……ううん、上品坐じょうひんざになったんだったわね。そいつはあなたの拳を受けた途端、その白い体に黒い稲妻のようなヒビを走らせて粉々に崩れ落ちた……そんな光景から付けられた異名よ。無論、武法士の伝説なんて人を経るごとに色が付けられるのが常だから、信じてる人は全体の半分かそれ以下だろうけど……あなたが上品坐の怪物を倒した事実は変わらない。——覇王さん、あなたはもう、立派な英雄好漢よ」


 立派な英雄好漢。


 自分がずっと欲していたであろう称号だが、今はほとんど心に響かなかった。


 誰もが称賛する英雄好漢……そうなりたいというリンフーの夢は叶った。


 しかしその夢はすでに些事であった。


 今、シンフォが……自分が守るべき、守りたいたった一人が隣で生きている。


 それだけ残っていれば、他に何も要らない。


 称えられても、貶されても、その事実だけで十分だった。


 だからリンフーは、游香ヨウシャンの称賛にすら大した反応を見せなかった。


 そんなリンフーの心の内を漠然とながら読んだ游香ヨウシャンはというと、うっとりした表情で、熱っぽく潤んだ眼差しにリンフーを映していた。


「……偉業を成したのに、それに淡白な態度。ますます素敵…………本格的に、覇王さんに惚れちゃいそうよぉ」


 かと思えば、リンフーの腕へしなだれかかるように寄ってきた。


 リンフーは少し赤くなった頬をこわばらせて、ふるふるとかぶりを振って返事をした。


「い、いやっ、そのっ、ボクには、心に決めた人がいてだなっ……」


 彼女は「分かってる分かってる」と楽しげに言ってから、シンフォを一瞥した。……お見通しのようである。その上で、游香ヨウシャンはいま一歩踏み込んでくるように甘い言葉を耳元で発した。


「でもぉ……どんな男だって、浮気心を持ったことは大なり小なりあるはずよ。それにあたし、体の繋がりだけでも十分満足よぉ? ううん、むしろあなたみたいな強い男と熱烈に語り合うのが、あたしの旅の楽しみの一つでもあるし、ね。だからぁ……試しに一晩語らってみない?」


「い、いや待て。そんなこと言われても痛い痛い痛い痛い痛い!?」


 不意に、脇腹をつねられた。


 やったのは、隣に立つシンフォだった。


 ひどくぶっすりとした顔をしていた。


「嘘つき」


「は?」


「私を好きだと言ってくれたのに、その変な女とは遊ぶのだなっ」


「あ、遊ぶ気ないし!」


「ならきっぱり断ればいいだろう! なんでそんな優柔不断な返し方をするんだ浮気者!」


「う、浮気って……ち、違う! ボクはそんなつもりは」


 そんなふうに痴話喧嘩(?)を繰り返していると、


「あ、リンフー! もう具合良くなったのっ!?」


「……よく目を覚ました」


 チウシンとユァンフイ。ソン親子が駆け寄ってきた。


 二人とも、リンフーの目覚めを知って表情は明るい。リンフーも話しかけたかったが、今はそれどころじゃない。


「あ……兄者っ!? よ、よくお目覚めでっ!」


 今度はリーフォン。表情が明るいだけでなく、瞳がうっすら涙をおびていた。


 その他の野次馬からも、注目を集めだす。


 かたや游香ヨウシャン、かたやシンフォ。リンフーを挟んで睨み合う二人の美女を遠巻きに見て、周囲がヒソヒソと話し出す。聞き耳を立てるのが怖い。


「うわ、うわぁっ……これっ、もしかして、修羅場っていうやつなのっ? リンフー……やっぱり大人……」


「違うから!」


「……女好きは自由だが、ほどほどにせねば、いつか刺されるぞ。女は虎より怖い」


「違うから!」


「英雄色を好む、ですか……やはり兄者は、真の漢ですね」


「違うから!」


 ああ、いつもこうだ。


 違う違うって言っても、武法の世界では情報があっという間に波及し、時にその内容が人づてに歪曲されていくのだ。


 しかし、数多くの豪傑の武勇伝や英雄譚も、そうして広がっていく。その内容に大なり小なり尾鰭おひれが付こうとも、彼らが勇敢に武を振るった事実だけは変わらない。


 それがこの、武法の世界。


 自分は、これからもこの世界で生きていくのだ。


 死ぬまでずっと。


 だけど、死ぬ寸前まで、


「リンフー! 君は、絶対誰にも渡さないからなっ!」


 この最高の師にして、最愛の女性が、この腕の中で生きていてくれますように。





 汪璘虎ワン・リンフーという一人の武法士の物語は、ここでひとまず区切りを迎える。


 しかし、それは彼が立ち止まることを意味しない。


 たとえ目を向けられていなくても、彼はこれからも武法の世界で勝手に生きて、勝手に戦って、勝手に信念を貫くだろう。


 武法士の武勇伝は雷鳴と同じだ。どこで何をしようと、あっという間に大陸全土へ伝搬する。良いことも、悪いことも。


 彼の活躍もまた、武法の世界に「天鼓てんこ」のごとく響き続けるだろう。


 そして、それによる人々の反響も気にせず、己の信念のままに響かせ続けるだろう。







 ……余談だが、シンフォの酒の量が少し減った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

英雄に憧れる少年の英雄譚 新免ムニムニ斎筆達 @ohigemawari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ