*episode7


 三枝さんと僕が保健室で日常を共にするようになって、数日が過ぎた頃。


 午前中の自主学習が終わって、昼休みを知らせるチャイムが鳴った。

 と同時に、


「高瀬君、お待ちかねのお弁当の時間だね」


 いたずらっぽい笑みを浮かべた三枝さんが、僕の方へ車椅子を走らせるなり、そんな風に声をかけてきた。


「べ、別にそこまで待っていたわけじゃ」


 否定しつつ目を泳がせると、三枝さんはビシッと僕のお腹辺りを指さして、


「ふふんっ、誤魔化しても無駄です。さっきそこから可愛い鳴き声がしました」


 ——ぎくり。三枝さんには聞こえていたらしい。

 実のところ何日か前から、僕はあまり朝ごはんを食べる気にならなくて困っていた。

 そんなものはいいから、早く学校へ行きたい。というか保健室に行きたい。早く学校に着いて、保健室に入ってくる三枝さんに自分から「おはよう」と声を掛けたい。

 そればかりが頭にあって、どうにも食事が面倒だった。

 学校に行きたいなんて、何年ぶりに思っただろう。もしかしたら初めてかもしれない。


「ねねっ、中庭で一緒にご飯食べない? もうそろそろハナミズキが咲く頃だし」


 三枝さんは言うが、僕なんかには恐れ多い。一緒に中庭でご飯だなんて。

 もちろん嬉しいけども。

 それにハナミズキが咲いている場所と来たら、各学年棟から丸見えの位置じゃないか。


「で、でも……僕なんかが一緒にいたら」


 小さく掠れた声で、僕はぼそりと吐き出す。

 聞き取りづらくて聞こえていないのか、はたまた聞こえないふりなのか、三枝さんの言い方はどことなくわざとらしいともとれるものだった。


「一人で車椅子押すの、大変なんだよなぁ。いい天気だし、外でご飯食べたいんだけどなぁ~。でも一人かぁ、転んじゃったりしたら大変だし、諦めるしかないかぁ。お花、枯れちゃうなぁ」


「……でも」


 僕だって一緒に行きたい。


 中庭に咲いたハナミズキを見ながら、三枝さんとお弁当を食べたい。

 正直ハナミズキがどんな花かなんて知らないし、動植物にはなんの興味もない。

 けれども、きっと奇麗なのだろうと、今の僕にはそう思える。


 三枝さんと一緒にいるところを誰かに見られたら、僕は何かされるんじゃないだろうか。

 そんな恐怖が先行して、脳内のほとんどを占めようとする。


 僕自身にもこれは止められなくて、本当に悪い癖だと思う。

 だから思ってもいなかった。

 まさか三枝さんが、そんな僕の脳内に強引に割り込んでくるなんて。


「……えっ」


「んっ。押して」


 何も言えずに俯いていると、三枝さんはいつの間にか車椅子の向きを反転させていて、後ろ向きのまま僕の方へと近づけた。


「えっと、でも」


「えいっ」


「いったぁぁあああああああああああああああああああああ!」


 右足のつま先が車椅子のタイヤに思い切り轢かれた。


 普通に痛すぎて、僕は叫ぶ。

 しゃがみこんで悶絶している僕を、三枝さんが若干引いた目で見つめていた。


「え、えと……私そんなに重かった……?」


「そそ、そんなことは無いですけど! 無いです! 全然無いです!」


「そう必死にフォローされると逆に……」


「ほ、ほんとです! ほんとですよ! 痛みというか、とっさのことでびっくりしただけですから! ぼ、僕がオーバーリアクションし過ぎたんですきっと! だ、だから、だい、じょうぶ、です……っ!」


 車椅子で踏まれたら、誰だって痛いに決まってるじゃないか。

 きっと普通に踏まれたって痛いのに。

 けれども、三枝さんとこうしてやり取りできるのが不思議で、その嬉しさはどうしたって隠せていなかったらしく。


「ふふっ。ふふふっ」


「——ど、どうして笑うんですか?」


「どうしてって、高瀬君が楽しそうにしてるからだよ。なんか見てたら、面白くって」


 楽しそうに? 僕が?


「し、してないですよ。いつ僕がそんな……」


「踏まれて痛そうにしてた時。ちょっと笑ってたよ」


「なっ……!」


「女の子に踏まれて、嬉しかったんだ?」


 そんな、他人をドMみたいに……。

 まぁ三枝さんになら、踏まれても悪い気はしないと思う。けれど、


「そそ、そんなわけっ。タイヤに踏まれて嬉しい人なんかどこの世界にいるんですか」


 そう、僕を踏んだのはタイヤだ。金属の輪っかとゴムだ。


「ふふっ。冗談冗談。高瀬君があんまりにもうじうじもじもじしてたから、つい」


「そ、それは……っ」


 言われて、ハッとする。

 だってしょうがないじゃないか。そんな、僕なんかが三枝さんと一緒にいたら……。

 どうしたって踏み切れずにいる僕を、やっぱり三枝さんはお構いなしに、


「外、連れてって欲しいなぁ」


 そう口にして、静かに前を向き直る。

 膝の上には水色の薄いブランケットと、その上にはお弁当を乗せていた。

 別に怖いものでも何もないけれど、僕はおそるおそる目の前の車椅子の取手を掴んでみた。

 ——本当に、いいんだろうか。


「はいっ、そのまま前進」


 言いながら、三枝さんはスッと背筋を伸ばす。

 ふわり。艶やかな黒のストレートが揺れて、シャンプーの甘い匂いが鼻につく。


「え、えと、こう……ですか?」


 その手にゆっくりと力を込めると、キュッと音がして、車椅子は小さく前進した。

 ものすごく単純な話なのに、新鮮な感覚過ぎて妙な感動を覚えてしまう。

 そんな気持ちで固まっていると、三枝さんが身をよじらせて僕の方を見上げていた。


「……どしたの? そんな未来から来たロボットにでも出くわしたような顔して」


「あぁ、いや、その、なんか新体験だなぁって……」


「まぁ他人の車椅子なんてそうそう押さないもんね。どう? 楽しい?」


「別に楽しくは……」


 実を言えばもちろん楽しい。

 なにより、ここからの角度が何とも言えない。

 三枝さんはそこそこ高身長だから、多分立つとそこまで目線が変わらない。

 けれども車椅子に座っているせいで、必然的に僕を見上げることが多くなる。

 遠くから見ていた時は、大人っぽくて奇麗だなといつも思っていた。まさに絶世の美女だなと。


「……? 頭に何かついてる?」


「い、いや、そうじゃなくて」


「高瀬君から熱い視線を、つむじに感じる」


「うっ……」


 なぜかバレている。

 こうして近くで見下ろしてしまうと、どことなく幼さといか、あどけなさみたいなものが感じられる。


 内心申し訳なさの方が多いけれど、こんな近くでも見つめていても咎められることは無しい、二人きりで会話までできてしまうという現実に、僕の心臓は大きく高鳴った。

 三枝さんが歩けるようになったら、もう二度と見られない視界で、感じられない空気感なのかもしれない。


 そもそも、僕なんかと関わることなんて二度とないと思うし。


 もちろん早く歩けるようになって欲しいし、こうなったのは全部僕のせいなのだけど、ほんの少しだけわがままが許されるのなら、


「ほらっ! ぼーっとしない!」


「あぁ、すみませんっ」


「あ、自販機に寄ってね。カフェオレが飲みたい」


「わ、わかりました」


「高瀬君のおごりで」


「わかりました……」


「冗談なんだけど……」



 こんな日常を、一つの思い出として、取っておきたいと思う。




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もしも君が、歩けなくても 亜咲 @a_saki

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