*episode6

 優しくて柔らかくて、静かな微笑みを浮かべる三枝さん。

 僕は思わず息を吞む。


 他人と目を合わせるのは、どうしたって怖いものだ。見つめられるだけで、恐怖に煽られて心拍数が上がって、息がつまりそうになる。


 身体で、心で、これから何か痛い思いをするのかもしれない——頭の中の奥深くでそういう解釈をする。

 そうして今すぐにここから逃げ出したくなる。いつもだったら、そうなるはずだ。


 なのに視線が、心が、目の前に浮かんだ二つの宝石玉に吸い寄せられる。

 奇麗とか、輝かしいとか、そういうものじゃない。


 温かい——と、そう思った。


 そうして僕はそれだけで頭がいっぱいで、自分の頬が濡れていることにさえ気づけなかった。



「え! あ、その、ええっと、ごめん高瀬くん! 私なにかまずいこと言っちゃったかな……あの、ごめん、ほんとにごめん!」



 男のくせに堂々と女の子の前で涙を流して、僕はやっぱりみっともなくて、どうしようもないやつだと思う。

 嗚咽するでもなく、爆発的なまでに感情的になるでもなく。

 僕の両目からは静かに涙が流れ続けた。


 三枝さんがこんなに近くにいて、慣れない甘い香りはどうしようもなく鬱陶しいはずなのに。

 不思議と心臓は落ち着いていて、身体は軽い。

 そして僕の乾いた唇が、自然と開いた。




「——ありがとう、ございます」




 三枝さんはすぐに安心したような笑みを浮かべて、こう告げた。




「ふふっ。よくできました」




 すると、三枝さんがゆっくりと僕の頭部へ手を伸ばし、やがて僕の髪の毛に触れた。

 割れ物を扱うみたいに優しく、丁寧に、三枝さんが僕の頭をなでる。


 涙はいつの間にか止まっていて、気付けばいつもの僕に戻っていた。

 顔を真っ赤にして、金魚みたいに口をぱくぱくして、三枝さんに聞こえてしまいそうなほどに、心臓がうるさい。


「なんだかワンちゃんみたい。ふふふっ」


 そう言いながら、三枝さんは何度か僕の頭を撫でてくれた。


 三枝さんの犬になら、喜んでなる。

 もしも僕が何かの呪いにかけられて、明日の朝起きたら捨て犬になっていたら、三枝さんに拾って欲しい。

 三枝さんの家で飼われることになったら、僕はずっと三枝さんに寄り添い続けたいと思う。

 着替えを覗き見たいとか、匂いを嗅ぎまくりたいとか、そういうのじゃない。


 三枝さんに元気がない時は、元気が出るまで傍にいてあげたい。


 寒い日の夜は、隣で一緒に寝てあげたい。


 三枝さんが帰ってきたら、『おかえり』、『お疲れ様』、という意味を込めて、ワンと吠えて尻尾を振りたい。


 こんなに素敵な人を力で押し倒して、押さえつけて、欲望のままに貪るなんてことはしたくない。できっこない。


 本当に僕は間違っていた。初めて本当の意味で、僕は気付いた。


 三枝さんが大けがを負ったのは僕のせいだ。その事実は変わらない。どうしたって変えることなんかできない。変えたい過去を簡単に変えられるような人生なら、ゲームみたいにボタン一つでリセットができるのなら、この世に『後悔』という二文字が生まれることは無かっただろう。


 僕にできることは、その罪を償いながら前へ進むことだけだ。


 三枝さんが歩けるようになったら、ちゃんと謝ろう。

 怖いけれど、自分のしたことをちゃんと打ち明けよう。


 嫌われたってしょうがない。三枝さんが二度と僕に笑顔を向けてくれなくなったとしても、それはしょうがないのだ。


 前に進むということは、同時に見える景色が変わることを意味する。

 そこに新しい景色があるということは、見続けていたいと思っていた景色を歩いた分だけ失っているということにほかならない。


 何かを得るには何かを失わなければならない、選択しなければならないのだ。


 きっと怖がられて、嫌悪されて、僕は酷く落ち込むだろう。

 けれども、僕はその運命を受けいれたい。


 ただその場に存在しているだけで笑われて、蔑まれて、痛めつけられて、『許してほしいのなら謝れ』と、僕はそういう思いばかりしてきた。



 けれども三枝さんは、僕の謝罪を拒んだ。



『ごめんなさい』より『ありがとう』と言われたいと、彼女は僕の目を見てそう言った。


 他の誰でもない、僕だけの目を見つめてそう言った。

 そうして見せた優しい微笑みは、まるで春の陽だまりのように温かく、眩しかった。


 そんな三枝さんの笑顔を、僕は『大切にしたい』と思った。

 こんな気持ちになったのは、産まれて初めてだと思う。


 三枝さんが僕を撫でてくれたみたいに、僕も三枝さんを撫でてみたいと思った。

 そっと優しく包むみたいに触れてみたいと、何となくそう思った。


 これは宮代先生に抱く安心感とは、似ているけれども全然違う。

 ふとそんなことを考えて、ああそうかと腑に落ちる。




 今——僕は初めて、『恋』をしたのだと。





 

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