*episode5

 

 その日の午後のことだ。


 昼休み終了を知らせるチャイムが鳴ったと同時に、保健室の扉が開いて、タバコ香りと共に宮代先生が入ってきた。

 先生はデスクに座って、何度か伸びをした。

 僕も、前に渡されていた国語の課題に取り掛かる。それが終わったら数学の課題だ。


 保健室での勉強とは、基本的にそういうものだ。各教科の先生が毎度来てくれるわけではない。それぞれが暇を持て余している時だ。

 三枝さんも何か言い渡された課題があるのだろう。カバンを膝に乗せて、そこからノートやファイル、筆記用具を取り出しているところだった。

 猫のストラップはもうなくなっていた。

 あの日の光景がフラッシュバックして、心臓に鋭い痛みを感じる。


 ——何もかも、僕のせいなんだよな。


「あっ……」


 三枝さんの声がして、僕の上履きのつま先に何かが触れた。

 水色のシャーペンだった。三枝さんが落としたのだろう。

 拾ってあげないと、と思ったのはほんの一瞬のこと。

 逡巡しゅんじゅん——というわけでもなく、僕は見て見ぬフリをする。


 だってそうだ。僕なんかが触ったシャーペンなんて、もう使いたくなくなるに決まっている。三枝さんは多分優しい人だけれど、人間だ。僕をいじめた人たちと同じ、人間なんだ。

 三枝さんが車椅子を押して、机に座っている僕の目まで来た。


「んしょっと……」


 窮屈そうに左手を伸ばして、シャーペンを拾い上げる。

 そうして僕の方をじいっと見て、三枝さんはつんと口を尖らせた。


「高瀬君の意地悪」


「ご、ごめん……なさい」


 三枝さんに意地悪だと思われてしまった。きっと僕は嫌われてしまった。どうすればよかったんだろう。

 けれども、三枝さんはすぐに可愛らしい笑みを見せた。


「ふふっ、冗談だよ。逆にごめんね。けっこう集中してたでしょ?」


「と、特にそういうわけでもないです」


 言いながら、僕は小さく身をすくめる。シャーペンは僕が拾ってもよかったんだろうか。

 三枝さんが車椅子から身を乗り出して、僕の机の上の国語のプリントをまじまじと見つめながら口を開いた。


「国語かー、もしかしてわからない問題とかあった?」


「え? いや、ええっと……」


 正直あまり国語は得意じゃないので、わからないところだらけだ。おかげで、出された課題のプリントはいつも虫食い状態。

 僕なんかの説明を待っている時間が無駄だと思ったのか、三枝さんが僕のプリントの上に奇麗な白い人差し指を這わせて、僕がつまづいていたところをトントンと叩く。


 そうしてもう片方の手で顔のサイドに垂れた黒髪の束をゆっくりと耳にかけると、シミ一つない真っ白な、けれども健康的に紅を差した頬が露出した。


「『かの大納言、いづれの船に乗らるべき』——これはね高瀬君、『あの大納言はどの船におのりになるのだろうか』っていう意味になるんだよ」


「……そう、なんですね。あ、ありがとうございます」


 三枝さんの顔が近くて、可愛くて、指が奇麗で、なんだか甘い香りがして、全く話を聞いていなかった。だから本当は何もわかっていない。僕は酷いやつだ。


「ふふっ、どういたしまして。古文の助動詞ってたくさん種類あってわけわかんないよね」


「は、はい。僕もそう思います」


 何がわからないかもわからないくせに、また僕はテキトーにかぶりを振る。


「助動詞は『意味』、『活用』、『接続』でそれぞれ狙われやすいポイントが必ずあるから、過去の問題とかを見直して、何回か解いてみるといいかもね。よっぽど古文が好きな人なら勝手に全部覚えられるだろうけど、まぁなかなかそんな人いないし。要点だけちゃんと抑えればある程度は点数採れるから、そういう分析を重ねるのも大事かもね!」


「な、なるほど……」


 僕は相変わらず、ぐるぐる忙しなく目を泳がせる。

 三枝さんは奇麗で可愛いだけじゃなく、頭も運動神経もいいというのは噂で聞いていたけれど、その噂はまさしく本当のようだった。


 三枝さんの説明はわかりやすいものなのだろう。きっと心の準備さえできていればちゃんと理解できたと思う。

 握られたペンが微動だにしない様子を見られ、僕はついに三枝さんに全てを見抜かれてしまった。


「ははーん、さては何もわかっていないなぁ?」


「ご、ごめんなさい……」


 俯いて、かすれて震えた声でぼそりとこぼす。

 せっかく説明してくれていたのに、僕は酷いやつだ。


「ぷっ、ははっ。もう、別に謝らなくていいよ。わからないなら、わかるようになるまで教えてあげるから、どんどん聞いてくれていからね! 私、お勉強だけは得意だからっ」


 三枝さんが太陽みたいな、眩しい笑顔を僕に向ける。

 嬉しいのは一瞬で、僕の心のほとんどはすぐに真っ黒な闇が覆いつくす。

 どうして僕なんかに。


「ごめんなさい」


 だからこうして、意図せずとも吐いてしまう。

 けれど僕が呟いたあとも、僕の視界の隅には三枝さんの白い指先と、車椅子の車輪が映り続けている。

 三枝さんは急に黙ったまま、僕の目の前から動かなくなったみたいだった。

 目が合うのは怖かったけれど、それ以上に気になって、僕はそうっと顔をあげた。


「……っ!」


 ——澄んだ色の二つの瞳が、僕を見ていた。三枝さんと目が合う。

 すると三枝さんはリスやハムスターみたいにぷくっと白い頬を膨らませて、眉を寄せた。


「——やり直しっ」


「へ……?」


 意味が分からなくて、つい間抜けな声が出る。


「やり直しです、高瀬君」


「ええっと……」


 僕は言葉を返しあぐねる。古文の課題の話だろうか。

 三枝さんはまっすぐに僕を見つめたまま、やがてゆっくりと口を開いた。


「ごめんじゃなくて、ありがとうって言って欲しいかなぁ」






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