*episode4

「ふふっ。よろしくね、高瀬君」


「こ、こちらこそ」


 天使のような微笑みに、息を吞んだ。

 そして僕は、一年前のあの日を思い出した。

 この笑顔を向けられるのは、これが初めてじゃない。二度目だ。


 入学して早々、僕は早速いじめの標的になった。ヤンチャそうな男子たちが急に馴れ馴れしく接してきたと思ったら、その日から毎日のようにお金をせびられるようになった。

 痛い思いをしたくなくて、僕は彼らにお金を貢ぎ続けた。

 けれども、すぐにお金は無くなった。もう無いですと土下座をすると、流行りのスニーカーで思い切り頭を踏みつけられた。お腹を思いっきり蹴られた。何度もろっ骨を折った。息ができなくて惨めに地べたを転がる僕を、彼らは毎日スマホのカメラで撮影した。

 そんな毎日が続いたある日のこと。学校帰りに、聞きなれない声に呼び止められた。

 振り返ると、三枝さえぐささんだった。

 そうか、この奇麗な女の人も、僕を痛めつけたいのか——そう思った。

 けれど違った。三枝さんは僕にハンカチを差し出して、こう言った。


『顔、汚れてるよ』


『えっと、その、べ、別に、大丈夫、ですから』


『君っていっつも砂まみれだよね』


『いや、その、転んじゃっただけで』


『学校生活でどう転んだらそんな風になるのか不思議で仕方がないけど……なにか困ったことがあったらすぐ先生に相談するんだよ?』


 そう言い残して、三枝さんは去っていった。

 僕は未だに憶えている。忘れるはずがない。他人に優しくされたのは、多分あれが初めてだ。

 あのハンカチは、まだ返せていない。使ってもいない。あろうことかずっと部屋に保管している。僕はとことん気持ち悪いやつだ。

 自分から話しかける勇気なんて、僕にはなかった。

 それに、多分三枝さんはそのことを憶えていないと思う。


 三枝さんと話したのは、あれが最初で最後だった。


 時計の針が九時を指して、授業開始のチャイムが鳴り渡る。

 時計を一瞥いちべつして、先生が「あっ」と口にした。


「そう言えば九時から職員会議だったんだ。ってことで小一時間席外すから、三枝と高瀬は各自自習な」


「職員会議、九時半からって書いてましたよ? 玄関のホワイトボードに」


 言いながら先生を見上げて、三枝さんが目を細める。

 先生はばつが悪そうに頬を掻いて、そっぽを向いた。


「……さてはまた禁煙失敗ですね?」


「さぁてなんのことやら」


「すぐそうやって知らん顔するんだから。保健の先生なんだから、もう少し保健の先生らしく健康に気を使ったらどうなんですか?」


 まくしたてるように、三枝さんはぐいっと身を乗り出して言う。

 三枝さんは顔も広くて人望のある人だから、きっと宮代先生とも前から仲が良かったんだろう。僕から見ればそういう雰囲気で、なんだか一気に蚊帳の外に放り出された気分になった。


「ね、高瀬君! 高瀬君もそう思うよね!」


「へ? え、ええと……」


 ひねくれていた矢先、三枝さんが急に僕の方を振り返り、話を振ってくる。

 目の前の三枝さんに夢中であまり話を聞いていなかったので、僕は言葉を返しあぐねた。

 禁煙とかなんとかというワードは聞こえてきたので、恐らく先生の話だろう。

 先生、また禁煙失敗したのかな。


「それはそれ! これはこれ! 大人になって社会で生きるようになったらなぁ、オンとオフってのが必要になってくるんだよ。仕事は仕事、休憩は休憩だ。私は毎日タバコも吸うし、昨日の夜はペヤ〇グメガ盛りとハイボール四本だ」


 そうじゃなきゃやってられん、と開き直って、先生は保健室の扉を強く閉めて出て行った。

 なんだか大人げないもの見せられた気がする。


 先生の足音が聞こえなくなったタイミングを見計らったかのように、三枝さんがぼそりと口を開いた。


「宮代先生って普通にしてれば奇麗だし、寄ってくる男の人は世の中にごろごろいるはずなんだけど……中身があれじゃあね」


「ははは……」


 せっかく話を振ってくれているのに、やっぱり僕には気の利いた返答が思いつかない。

 三枝さんがあの事故で重傷を負ってしまっていること、その要因が全て自分にあるという真実は僕だけが知っているということ、けれどもこうして三枝さんと面と向かって話ができる現状に、尋常じゃないほどの幸福感を得られているということ——もう何がなんだかわからなくて、僕の頭と心はパンク寸前だ。


「あ、そう言えば」 三枝さんが僕を見た。


「高瀬君、怪我とかしてない?」


「え、え?」


「ほら、私あのとき思いっきり突き飛ばしちゃったから。高瀬君は無事だったかなって」


 事故の話だった。

 三枝さんがどうして僕なんかの心配をしているのか、いまいちよくわからない。

 自分は歩けなくなるほどの重傷を負っているのに、どうして僕なんかのことを。


「ぼ、僕は大丈夫です」


「そっか! それならよかった」


 三枝さんが、安心したような笑みを浮かべる。

 同時に、僕は酷い罪悪感に苛まれて、言葉にせずにはいられなかった。


「あの、ごめんなさい。僕のせいで。本当に、ごめん、なさい」


「もう、気にしないでよそんなこと! 脚はどうせすぐ治るから! あ、でも信号はよく見ないとだめだよ?」


 言いながら、三枝さんが少し車椅子を前進させる。

 距離が近くなって、三枝さんが僕を見上げるように、じっと覗き込む。


「前髪が長いからよく見えなかった——とか?」


 三枝さんの顔がすぐ近くにあるというだけで、僕はとても息苦しくなる。

 でもこの息苦しさは、嫌いじゃない。今気づいた。


「そ、そうかも……ですね」


 僕は視線を泳がせて、テキトーにはぐらかす。だって、言えるはずがない。三枝さんしか見ていなかったなんて。毎日ストーカーをしていたなんて。

 とういうか、これから毎日ここで顔を合わせるということは、僕は毎日この罪悪感と戦わなくちゃいけないのだろうか。

 なんというか、それはものすごく窮屈で、居心地が悪い気がした。


 三枝さんがここで生活するのは、今日からいつまでなんだろう。先生は何も言っていなかったけれど、三枝さんはすぐ治るからとさっき言っていた。

 三枝さんが保健室登校じゃなくなったら、もう付きまとうのはやめよう。

 あんなのは間違っている。犯罪だ。

 三枝さんはこうして、僕なんかにも優しく接してくれる人なんだ。

 だからあんなのは、もう止めよう。

 そうして三枝さんが卒業して、僕の前には二度と姿を現さなくなって、僕もいつか、全部忘れる。この先にある未来とは、きっとそういうものだし、それでいい。

 ストーカーしていたことも、わざわざ打ち明ける必要なんかない。

 だって怖いじゃないか。気持ち悪いじゃないか。世の中には知らない方がいいことだって山ほどあるんだ。だからそれでいい。


 そんな決意を胸に抱きながら、安心したくて、逃げたくて、僕は弱い自分を守ろうとする。

 そしていつもの、窓際の自分の席に着いた。

 それからずっと下を向いていた。

 三枝さんも、それから僕には特に話しかけなかった。

 やっぱり先生の言う通り、つまらなくて辛気臭いやつだと思われてしまっただろうか。


 俯いて、被害妄想を膨らませて、飽きた頃に自習に取り掛かる。


 そんな僕には、気付けなかった。



 三枝さんの涙の跡に。

 あの笑顔に隠された——計り知れないほどの絶望に。





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