*episode3
「お、おはようございます」
僕なんかとは違う、透き通った奇麗な声だ。例えるのなら、雪解け水のせせらぎ——とか。
日常を取り囲む季節はとっくに六月だけれど、泥の混じった氷で埋め尽くされた僕の心には、春を告げるような温かさが染み込んでくる。
その声を知っていて、忘れられるはずもなくて、振り向きながら立ち上がる。
同じ目線に飛び込んできたのは先生の顔で、その先生の胴体に、もう一つ顔がある。
奇麗な少女の顔だ。少女は車椅子に座っていて、先生は車椅子を押していた。
その少女を、僕は知っている。
好きで好きでたまらなく愛おしくて、ストーカーを繰り返して、家の住所も知っていて、挙句の果てには頭の中で何度も彼女を
そして彼女は二ヵ月前、僕の目の前で大型トラックに跳ねられた。
彼女の身体に流れる血液までもが艶やかで美しく、不気味なほどに鮮やかであることも、僕は知っている。
彼女は白く細い指先で、自らの髪の毛を何度か
世界のどんなに有名な宝石よりも美しいであろう両の瞳は、目の前でみっともなく立ち尽くす僕を捉えたその瞬間、一層丸く見開き、瞬いた。
「紹介するよ高瀬。今日からここで学校生活を送ることになった——
言いながら、先生は静かに保健室のドアを閉めた。
そして、言い加えた。
「あ、三枝は三年だから、高瀬の一つ上だ。ちゃんと敬語使わないとしばかれるから、覚悟しとけよー」
軽く身をよじらせながら先生を見上げ、三枝さんが慌てたような表情になる。
「も、もう宮代先生ってば! 変なこと言わないで下さいよ! 私そんな鬼じゃないですからぁ!」
「はははっ! 知ってる知ってる、冗談だよ! ま、のんびり気楽に、若い者同士仲良くやってくれ」
先生の軽口に付き合った後、小さくため息をこぼした三枝さんは僕に視線を戻した。
「えっと、君もしかして……あのときの?」
目の前で、見上げるように僕の顔色を
近くで見ると、やっぱり奇麗だ。
こんな真正面から三枝さんを拝めるだなんて、今日は僕の命日かもしれない。
激しくなった心臓の鼓動は、鎮まることを知らない。人間の心臓というのはすごい。僕程度の惨めな人間の知能ではどう説明していいかさっぱり思いつかないけれど、一言で言えば神秘だと思う。だって生まれてから——いや生まれる前から死ぬまで、片時も休むことなく鼓動を打ち続けているのだから。その上で、魅力的な人間を前にすれば、こんなにも熱く激しく跳ね続けるのだから。
「あの……大丈夫?」
「へ……えっと…えっと」
変な汗が出て、自分が何を言いたいのかわからない。
意図せずとも、視線は一層忙しなくぐるぐると走り回る。
顔中の筋肉が硬直して、しゃべり方を忘れてしまう。
俯いたまま、僕はひたすらに黙り込む。
そうして聞こえてきたのは、まるで何かを諦めたみたいな深いため息——宮代先生だ。
「はぁ……全くお前ってやつは」
「……」
ごめんなさい。ごめんなさい。愚図で意気地なしで、会話もまともにできなくて、役立たずで、ごめんなさい。
「というか三枝。お前、高瀬とは顔見知りだったのか?」
「ええと……まぁ、多分? 私の勘違いじゃなければですけど……」
三枝さんの声色は、困惑しきっている。
察するに、どうやら三枝さんは、二カ月前に僕を助けたことを憶えているらしかった。
あの時、僕は一心不乱でその場から逃げ去った。
だって僕が、僕が三枝さんを痛い目に遭わせたんだ。僕が三枝さんを好きで、三枝さんを毎日いやらしい目で見て、ストーカーをして、追い回していたから。
生きていてよかったなんて、僕が言えたことじゃない。
今すぐに土下座をして、地面に額を擦り付けて、声が続く限り謝罪を重ねるべきなのだ。
なんなら、今僕が同じように車に撥ねられるべきだ。そうして、そのまま死んでしまうべきなのだ。ことの顛末を世界中のみんなが知ってしまったら、皆口を揃えてそう言うはずだ。
けれどもこれは、今僕の頭の中のにある九割の話だ。
残りの一割は——歓喜だ。
三枝さんと一対一で会話ができるなんて、死ぬほど嬉しい。それに、今の三枝さんは車椅子だ。僕のせいで、車椅子での生活を強いられている。もしもここから先生がいなくなって、僕が欲望のままに彼女を押し倒したら、全てを手に入れることができる。
そういうことを、僕は平気で考える。
異常だ。狂っている。
自分で自分が嫌いになる。
けれども、それ以上に、僕は三枝さんが好きだ。たまらなく愛おしい。
——だから、事故に遭ったのが三枝さんでよかった。
「高瀬、おい高瀬」
先生は何度か僕の名前を呼んでいた。
「——は、はいっ」
どす黒い渦の中から、強引に引っ張り上げられたような気分になる。
僕というやつはなんで、どうしてこんなに
そんなのは間違っているんだ。僕は最低だ。最低なやつだ。
死んで償うべきだ。僕がこれから幸せになる権利なんてない。
そんなものは与えてはならない。
僕の情緒は相変わらず不安定だ。これも一つの病気なのだろう。
黙り込んだままの僕の背後に回った先生が、そのままくしゃくしゃと僕のみすぼらしい頭を掻き撫でた。
「一応紹介するよ三枝。この辛気臭いゾンビみたいなのは高瀬——二年の高瀬真一だ。なんでここに住み着いてるかは、まぁ仲良くなってからでも聞いてみるといい。大した話じゃなくて退屈かもしれんがなぁ」
そんなこと聞くわけないだろ、三枝さんが。
地べたを這うアリの数を数えている方が、まだ有益ってものじゃないか。
「高瀬君、か……」
三枝さんが、静かに僕の名前を口にする。
僕の心臓はとびきり強く跳ねて、先生に頭を鷲掴みにされていることなんて一瞬で忘れた。
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