*episode2

 僕という人間は、強いられた集団生活の中で、排除され続けてきた人間なのだ。


 端的に言えば、僕はいじめを受けていた。それも一年や二年なんてものじゃない。ずっとだ。幼稚園から小学校に上がってから、関わる人間が増えれば増えるほど、集団の規模が大きくなればなるほど、僕という存在は『異質』として人目を惹いた。

 きっかけはとても些細なことで、あれは確か——小学校二年生になったばかり頃。

 僕は算数が苦手だった。けれども勉強が嫌いだったわけじゃない。だから、勉強には前向きに取り組んだ。

 一年生ですら満点を取れるような単純な足し算すらもおぼつかなくて、僕はプリントの上で指を折って、声に出して問題を解こうとした。

 それだけだ。たったそれだけのことで、そこからの僕の人生は一瞬で地獄へと早変わり。


 算数が苦手というだけで、僕は『異質』となった。


『異質』と認識された僕には、心無い言葉たちが、鋭くとがった矢のように飛んでくる。

 指を折って計算する小学二年生というのは、周囲の瞳には酷く劣った存在として映り続けたのだろう。「劣っているのならさげすんでもいい」、という風潮が生まれはじめた。

 一度そういう流れができてしまえば、もうそれが理由になる。

 社会とは、そういうものだろう。

 どうして僕がいじめられているのかなんて、そんなことに思案を膨らませるのは野暮というものだ。


 やつは——高瀬真一という人間は、痛めつけても構わない。集団はそう認識し始める。


 それからことあるごとに、集団は僕の欠点を探り始め、見つけ次第徹底的に叩いて、打ちのめされるままの僕を晒上げた。

 もちろん周囲は見て見ぬフリだ。だってそうだろう。逆らったら、今度はその矛先が自分に向けられるかもしれないのだから。

 誰だって自分が一番愛おしいし、大切なのだ。

 だから、見ていることしかできなかったのだという集団の一角を責め立てようなんて、僕はあまり思わない。

 もしも僕を庇ってしまったら、その時点でその人は二人目の『異質』となるのだから。


 僕という人間は痛めつけられて当然。そんな意識が自分の中でさえも芽生えてしまえば、他人を信用できなくなることなんて実に容易い。


 他人を信用できなくなれば、会話ができなくなる。会話ができなくなれば、当然コミュニケーション能力が劣る。


 僕の声は通りづらい。ぼそぼそしていて、かすれていて、活舌が悪くて、焦ると突っかかって、何を言っているのかわからない。僕は必死に何かを伝えようとしても、その必死さは反って悪目立ちをする。

 だってそうだ。多くの人間にとって会話なんて、必死にするものじゃない。

 ごく自然に、必然的に、誰もが息を吸うようにできるものなのだから。

 死に物狂いで言葉を探して、せわしなくぐるぐる目を回して、額に脂汗を滲ませながら金魚みたいにぱくぱく口を動かして、あぁなんてみっともないんだろう。


 今目の前でデスクに座って、呑気にパソコンを起動し始めた宮代先生は、僕にとっては初めて距離を縮めることができた人間だと思う。

 こんな僕を見放さず、こうして僕だけの居場所をくれた。こんな僕の言葉を、いつだって最後まで聞いてくれる。だから、感謝はしている。


「——せ、先生」


 勝手に口が動いた。らしくもない。


「ん? どうした高瀬。あ、ひょっとしてあれか? 優しくて奇麗な保健室の女神についに惚れちまったか? いやぁそりゃ参った参った。でもいくら独身とは言え、流石に教師と生徒じゃなぁ……」


 こうしてへらへら軽口を叩く先生も、別に嫌いじゃない。


「そういうのじゃないですから」


「即答するなよ。じゃあなんだ。先生は仕事中だぞー」


 僕を一瞥して、先生はまたパソコンに向き直った。

 先生の瞳がまた僕を捕まえないうちに、僕は告げる。


「え、えっと、その、あ、ありがとう、ございます」


「……? 何だよ急に。何か悪いものでも食ったのか?」


「な、なんでもないです——」 


 たまによくあることで、僕は自分の情緒がよくわからない。

 なぜか泣きたくなることがあるし、誰にともなく怒りをぶつけたくなる時もある。

 今みたいに、突然先生が愛おしく思える瞬間も訪れる。

 現代社会にとって、やはりこんな僕は『異質』でしかないだろう。

 ふとそう思って、僕はまた小さく肩を竦める。

 そんな自分に疲れ果てて、僕は小さくため息をついた。


「あ、そう言えば」


 同時に、先生が口を開いた。


「今日からここに一人増えるから」


「え?」


 何が?

 先生は腕を組んで、唸りながら少し間を置いて、やがてしたり顔を浮かべた。

 あの顔は悪い顔だ。朝の七時に僕の家に来て、『今日は町のボランティア活動に参加してゴミ拾いをしてもらう——』と言い出した時の顔と一緒だ。

 なんだか嫌な予感しかしない。


「ひょっとしたら高瀬の人生が大きく変わるかもしれないなぁ」


「意味が分からないです」


 大げさだ。それにこれ以上不幸になんかなれるものか。

 デスクの上の、先生の赤いスマホが振動し始めた。

 手に取って、したり顔の先生が耳に当てた。


「——はい宮代です……あ、はいはい! 今行きます!」


 先生はどこかから呼び出しをくらったらしい。


「よーし高瀬、ちょっとお利巧さんにして待ってるんだぞ」


「僕は犬ですか……」


 先生まで、僕に服を脱いで四つん這いで地面を歩けと言い出すつもりなんだろうか。

 やっぱりこんな先生、嫌いだ。

 先生は白衣の襟元を正して、せかせかと保健室を出て行った。

 僕が下を向いて口を尖らせているうちに、またすぐに背後でドアが開く音がした。

 片手に缶コーヒーでも携えながら、先生が戻ってきた——そうとしか思わなかったので、僕はいちいち振り向かない。






 けれども、聞き覚えのあるその声に、僕の弱弱しい心臓は大きく飛び跳ねる。









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