*episode1
他の生徒たちと同じ時間に登校するけれど、僕は本来の自分の教室である二年二組には行かない。理由は簡単で、そこに僕の居場所はないからだ。
季節は六月。保健室に通い始めて、気付けばもう一年が経つ。
少し開いた窓から入り込んだ朝の風は程よく涼し気で、窓の向こうには風に踊る若葉の緑色が見える。夏はすぐそこまで来ているのだろう。
白いカーテンがふわりと揺れるのを、僕は細く頼りない背中を丸めて、ぼうっと眺める。
背後で扉の開く音がして、僕の心臓が強く跳ねた。
「おはよう高瀬! 相変わらず今日も早いなぁ」
その声と喋り方に安心感を覚えて、僕は振り向く。
「おはようございます、
「まーた辛気臭い顔して、ほら! シャキッとする!」
バシンッ!
「ヴェッ! けほっ……」
男顔負けのパワーで、背中に平手打ちを喰らった。かなり痛い。
「あの、普通に痛いです。やめてください」
「お前が朝からそんなゾンビみたいな顔してるからだろう高瀬。私の幸せパワーを注入してやった」
「か、顔は……元からですから」
僕はぼそりと呟く。
一度俯いてから顔をあげると、宮代先生のよく見ると端整な顔立ちが眼前まで迫っていた。
「……っ!」
「そうかぁ? この鬱陶しい前髪、いい加減切ったらどうだ?」
先生はその白い指先で、僕の前髪を摘まんで持ち上げる。
切れ長で奥二重の双眸が、じいっと僕を見つめている。
先生の瞳はとても奇麗なものだ。けれども怖い。そんなに近くで僕なんかを見つめないで欲しい。視線を必死に足元で泳がせる僕を観察して、楽しんでいるのだろうか。蛇睨み喰らった無力な蛙のようにみっともなく震えるだけの僕を、心の中で笑って楽しんでいるのだろうか。
「やめてくださいっ!」
心臓の鼓動にまくしたてられるように、僕は声を荒げた。
けれども先生は、全く動じることもなく——。
「男は……というか高瀬は前髪が短い方が似合うと思うんだがなぁ。短く切りそろえて今風にセットしたらそこそこかっこよくなる気がする」
かっこよくなる? 僕が?
「い、いい加減なことばっかり、言わないでください」
思ってもいないくせに。
そう言って、実際やったら『まさか本気にするなんて』って笑うくせに。馬鹿にするくせに。
「まぁ私一人の独断と偏見だし、いい加減と言われればいい加減かもしれないな。ははっ」
ほらみろ。
やっぱり僕は、この先生を好きにはなれない。
先生はようやく僕の前髪を開放して、今度は腕を組んで静かに微笑んだ。
「それでもなぁ、私は見てみたい。かっこよくなった高瀬にはとても興味があるよ」
「嘘ばっかり。僕なんかがかっこよくなれるわけ、ないじゃないですか」
保健室の床でぐるぐる視線を泳がせながら、僕は吐き捨てる。
先生の白い手が、みすぼらしい僕の肩を軽く叩いた。
「そう悲観するな高瀬。少なくとも私はお前の味方のつもりだよ。他の誰かがまたお前を理不尽に笑ったって、そんなの気にしなくてもいいさ。自分を笑うやつらの言葉なんかに耳を傾ける必要なんてどこにもないんだ。そんなものは放っといていいから、まずは私の言葉を真摯に受け止めることから始めてほしいものだなぁ」
「……先生は僕の気持ちなんか、何も知らないくせに」
そんなのは——嘘だ。まやかしだ。
先生になんか、わかるわけがない。わかり得ない。いじめられたことなんかないから、先生は今先生をやっているんだ。簡単に他人の目を見ることができるんだ。肌に触れることができるんだ。
触れたら、『汚い』と嫌な顔をされたこともないから。
目が合えば、『気持ち悪い』と言われたこともないから。
その刃の鋭さを知らないくせに、痛みを知らないくせに、簡単に言うな。
そんなのは『優しさ』じゃない——『
そんな嘘で、まやかしで、人間の心の傷は癒えたりしない。
僕は冷たく突き放すように吐き捨てて、俯く。
それでも先生なら、きっともう一度何か言葉をくれるかもと、期待してしまう僕がいる。
そんな自分にもやもやして、めまいがして、吐き気がして、結局言葉は出てこないまま、顔をあげることすらできなくなった。
「ま、私は気長に待っているよ、高瀬」
「勝手に言っててください……」
一応、先生には感謝をしているつもりだ。
弱くて惨めでみっともない僕なんかに、こうして生活の場を与えてくれたのだから。
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