もしも君が、歩けなくても

亜咲

*prologue

   


 僕——高瀬真一たかせしんいちには一年前、たまらなく好きになってしまった女性がいる。


 だから、ストーカーをしている——。


 今日は高校二年になって最初の一日。つまりは始業式があった。

 午前中で学校は終わり、現在の時刻は十三時。昼の一時。生徒たちは皆、下校している最中である。

 靴棚のロッカーが並ぶ玄関で外履きに履き替えながら周囲の喧騒に身を潜ませ、数分間玄関のあちこちに視線を泳がせた。意中の女性が現れるのを待ち伏せしていた。


 やがて一つ隣、三年生の靴棚がある方から、その女性は現れた。


 容姿端麗とは、まさにこのこと。腰まで伸びる艶やかな黒のロングヘアはハーフアップにまとめられていて、モデル体型の長身にはとてもよく映える。

 程よく起伏のある女性らしい体型は、いつだって男子たちの目を惹きつける。日焼けとは無縁そうな真っ白な肌からは真冬の新雪を幻視させる。

 僕の手のひらに収まってしまいそうなほどの小顔にはまったパーツのそれぞれは、実に精巧な形をしていて作りものの人形みたいだ。長い睫毛に縁どられた宝石玉のような瞳は黒いのに澄んでいて、この世のどんな宝石よりも煌びやかで美しいと、僕にはそう思えてならない。薄桃色の唇は艶やかで色っぽく、湛えた笑みの華やかさを一層良く引き立てている。


 そんな彼女——三枝さえぐさことりは僕の一つ年上で、僕の好きな人。初恋の人だ。


 人当たりもよく、人望があるのだろう。数人の女子生徒と談笑を交わしながら、三枝さんは校門を出た。

 僕はその後ろ姿を、ひたすらに眺めながら歩みを進める。

 三枝さんは猫が好きだ。カバンにはいつも白い猫のストラップが付いている。

 野良猫を見かけると、いつも数分立ち止まる。犬にはあまり関心を示さない。

 いつも見ているから、僕にはわかる。

 こんなことは間違っていると、そんなことは自分が一番よくわかっている。

 けれど、僕にはこうすることしかできない。できることなら、もっと近くで彼女を拝顔したい。声を聴きたい。匂いを、嗅ぎたい。身体に、触れたい。喉から手が出るほど、彼女が欲しい。許されるのならこの欲望の赴くままに、彼女の全てを貪りたいと思っている。


 学校を出て三枝さんは左に。連れの女子生徒たちは手を振って、右に出る。僕はそのまま、三枝さんの後ろを歩き続ける。

 五分ほど歩いて、見慣れた大道路に差し掛かかった。

 三枝さんが横断歩道に並んだ。

 ここでも、僕は少し離れた位置に立ってみる。

 離れていれば、腰のくびれや脚の形がよくわかる。


 近くにはいきたいけれど、心臓の鼓動がうるさくて気が動転しそうになる。少しでも気を緩めたら、彼女を襲ってしまうかもしれない。一度その手を捕まえたら、二度と逃がさないように鎖で縛って、服を脱がせて、誰も来ない部屋に閉じ込めて、思うままに汚して、気が済んだら彼女を殺して、僕も死ぬ——それが理想的だ。


 狂っていると思われるかもしれない。

 でもそれは仕方がない。だって僕は狂っている。普通じゃない。


 だから、人生は苦しい。普通じゃないということは、生きていく居場所がないということになる。なぜなら、皆普通に生きることを目指すからだ。端的に言えば多数決だ。

 多数派じゃない僕には、いつだって居場所が見えない。存在しない。

 他人の気持ちがわからない。

 だってしょうがないじゃないか。僕は僕だ。君じゃない。皆の考えていることなんか、皆しか知らない。

 今あそこに立っている三枝さんが何を考えているかなんて、知らない。

 知りたいけれど、どうしたらいいのかわからない。

 普通じゃない僕が話す言葉なんて、普通の人は聞いてくれない。

 かすれて小さくてぼそぼそしていて、こんな汚い声に、拙い言葉に耳を傾けてくれる人はいないだろう。

 見た目だって格好悪い。痩せこけて色が白くて、背は高いのに気味が悪い。

 僕が声を出すと、誰かは僕の方を見る。でも僕には、その目を見ることができない。

 そうしていつだって、言葉はずっと出てこない。

 目の前にいた誰かはいつの間にか少し遠くで、僕を指さして頬を引き攣らせている。

 嘲笑しているのだろう。『あいつは変だ』、『気味が悪い』、そう話しているのだろう。

 でも僕が悪いから、しょうがない。普通じゃない僕が悪いのだから、しょうがないのだ。


 なんて内心でひねくれているうちに、視界の隅にあった白く細い脚がゆっくりと動いた。

 信号が青になったみたいだ。

 大衆から少し遅れて、僕も白線を踏む。


 歩いている三枝さんは、とても奇麗だ。脹脛ふくらはぎの筋肉がピクリと動くのを見ているのが好きだ。白い太ももの内側を、撫でてみたい。

 程よく短いスカートが歩くたびに揺れて、僕の欲情をこれでもかと煽る。

 下腹部が熱くなってくるのを感じて、息を、生唾を飲む。

 変態かもしれない。でも三枝さんを見ていられるのなら、変態でも構わない。好きにできるのなら、死んだっていい。

 こうして三枝さんに目を奪われて、四六時中妄想に耽って、気付けば時間まで奪われているような気がしてくる。そう思うと、彼女に支配されているみたいで、興奮する。呼吸が荒くなる。


 三枝さんが横断歩道を渡り終えた。僕はまだ、横断歩道の真ん中あたりだ。

 目が離せなくて、彼女だけを見続けた。そのときだ。


 耳をつんざくようなクラクションが右耳を貫通して、僕の脳内に鳴り渡った。

 車かトラックか、バイクか、そんなことはすぐにどうでもよくなった。


 三枝さんが僕を見てくれた。そのガラス玉みたいに奇麗で愛らしい瞳で、僕だけを見てくれた。


 心臓が破裂しそうなほどに興奮して、僕はその場に立ちつくした。

 三枝さんが、僕めがけて走ってきた。

 長い黒髪が風になびいて、白く小さいおでこが見えた。


 そうして三枝さんは僕のすぐ目の前まで迫ってきて、その白くしなやかな手で、僕の胸を押した。

 嗅いだことのない甘い香りは、一瞬で僕の脳を埋め尽くして、その手の感触は焼き付いた。

 三枝さんが、僕に触れた——それだけで、全身が熱くなって、気付けば体は後ろへ倒れるように飛んでいた。


 そうして、僕の目の前から三枝さんは消えた。

 大きなトラックが、眼前を横切った。今三枝さんがいたところを、だ。

 大きな衝撃音が、悲鳴が聞こえる。


 何が起こったのか、わからない。


 気づけば僕は道路の真ん中で、みっともなく尻もちを着いていた。

 そしてすぐ近くの電柱には、さっきのトラックが激突していて、黒い煙が立ち上っていて、周辺にはガラス片や鉄くずが散らばっている。

 交通事故が、起きたようだ。

 三枝さんの行動は、僕を助けるためのものだったんだ。そんな単純なことをようやく理解して、僕は首を左右に振った。


——じゃあ三枝さんは? そんなことを考えて、全身の血の気が引いた。


 近くに人だかりができていて、白く奇麗な手が力なく地面に投げ出されているのを、視界の隅で捉えた。

その傍らに転がっていたカバンは、僕の学校で指定されている通学用のカバンだ。


 眩暈がして、全身が震えて、吐き気がして——僕は叫んだ。



 白かったはずの猫のストラップは、不気味なほどに赤く鮮やかで、血に濡れていたのだから。



 僕は逃げた。行く先も見えぬまま、その場から走り去ったのだ。


 三枝さんは、僕を庇って、代わりにトラックに跳ねられた。




 その相手が日々自分をストーカーし、視姦しているなんてことも知らずに。

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