ちびっこ女刑事の事件簿

ケンジ

第1話 タワマン殺人事件

窓の外にはベイエリアの風景が広がっている。大きな川の向こうに高層ビルが立ち並んでいるのが見えた。これが仕事でなければ、さぞかしいい気分になれただろう、と思う。特に殺人事件の捜査でなければ。背後では捜査員たちがせわしなく動き回っていた。さて、現場に向かうか、と思ったその時、玄関の方で誰かが騒いでいるのが聞こえた。

「ちょっと。どうして入れてくれないんですか。通してください」

「お嬢ちゃんだめだよ。今、警察のおじさんたちが調べているところだからね」

「だから、わたしは刑事なんですって。早く入れないと怒りますよ」

「そんなウソついたらいけないよ。お嬢ちゃんみたいなちっちゃい刑事がいるわけないだろ」

「もう一度ちっちゃいとか言うと逮捕しますからね。あ、そうだ。先輩が中にいると思うんで、確認してもらえばわかりますよ」

せんぱい、せんぱーい、と甲高い声がおれを呼び始めた。ちっ。毎度のことながら邪魔くさいやつだ。仕方なく玄関の方に向かうと、困り果てた様子の初老の捜査員が振り返っておれを見た。

「すみません。なんか、この小さい女の子が刑事だと言い張って聞かないんですよ」

それはまずいな。早く帰ってもらった方がいい。もう下校の時間も過ぎている。おれの返事を聞いて、捜査員に押しとどめられていた幼女が、こらーっ、と怒りを爆発させた。

「もうっ。どうしてちゃんと相棒だって言ってくれないんですか。いつもいつもこんな悪ふざけをして。パワハラだって本部に訴えますよ」

パワハラではないだろう。いじめか幼児虐待ならまだわかるが。

「またそんなことを言う。もう許せません。名誉毀損で訴えます。先輩と次にお会いするのは現場ではなく法廷になりそうです。わたしには最強の弁護士軍団がついてますから、天文学的な賠償金は間違いないと覚悟しておいてください」

はいはい。真面目に取り合わないでいると、

「え、この子、本当に刑事なんですか?」

捜査員がおろおろしだした。やれやれ。他人を巻き込むのはまずいので、仕方なく、早く入って来い、と幼女を中へと招く。わーい、と飛び跳ねながら室内に入ってきた。やっぱり子供じゃないか。

「わー、すごーい」

目を輝かせて感激している幼女を子供っぽいと皮肉ることはできなかった。おれも最初にこのリビングに入ったときは「すげえな」と言ってしまっていたからだ。なにしろ、フットサルが出来そうなほどに広く、白を基調とした部屋はきれいに整理整頓されていた。家具もAV機器も壁に掛けられた絵も見るからに高価だとわかる。成功者にしか住めない家だった。

「わたし、タワマンに入ったの初めてです」

おれたちが今いるのは40階建てのタワーマンションの最上階の一室だった。もちろん、おれも初めてだった。捜査でもなければ一生縁のない場所のはずだ。

「すごいなー。こんなところに住むなんて、一体どんな気分なんだろう」

変わったやつだと思っていたが、世間一般の女子みたいにリッチマンへの憧れもあるのだろうか。

「わたしは一戸建て派なので、タワマンには別に住みたくないです」

子供なのに夢のないやつだな。

「わたしは大人ですっ」

そうやってジャンガリアンハムスターみたいに頬を膨らませるとちっとも大人に見えないから気を付けた方がいいぞ。

「こうやってたまに来るのはいいとしても、いざ住んでみたら意外と不便だと思うんですよ。停電したらエレベーターも使えませんし」

「たまに来る」って、別に遊びに来ているわけじゃないからな。

「もちろんです。さあ、早く捜査を始めましょう」

意気揚々と現場に向かう小さな後ろ姿を見て、こっちのやる気は失せていく。ただでさえ捜査で手一杯なのに、お守りまでさせられたらたまったものではない。

両手を伸ばしても壁に届かないほど広い廊下の端にある部屋が現場だった。被害者の書斎らしいが、その一室だけで今おれが住んでいるマンションのワンルームより広いのでげんなりしてしまう。

「先輩、困ってるなら少しお金を貸しましょうか?」

やかましい。子供から金を借りるほど落ちぶれてたまるか。おれが入ってくるのを見た茶色のスーツを着た50代くらいの落ち着いた感じの男が近づいてきた。

「どうもお待ちしていました。小林こばやしです」

所轄の刑事だ。おれたちが来るまでに一通りの捜査はしているはずだ。

「えーと、こちらは」

おれの横にいる小さな女の子を見て少し戸惑ってから、ああ、と納得した様子になった。

「娘さんですか」

全然違う。どこの世界に子連れで現場に来る刑事がいるのか。しかし、この部屋にいる全員がおれの連れを奇妙な眼で見ているのは感じていた。それはそうだろう。身長140センチ。おかっぱ頭。つやつや光る頬。身にまとった紺のスーツの袖が余っている。そんな少女がクライムシーンに似つかわしいはずもなく、小林と2人の制服警官、そして壁の一方に立ち並んだ6人の男女、みんなが疑念を持っているはずだった。いや、全員でもない。実にいまいましいことだが、おれはこいつの存在に慣れ始めてきてしまっていたし、部屋の中央に敷かれたブルーシートの下にいる人間は、疑問すら思い浮かべることもできないはずだった。そう。この部屋が殺人現場だった。

「申し遅れました」

ふっふっふっ、と悪党のような笑い方をした幼女がスーツから取り出したものを見て、驚きが部屋中に広がるのがわかった。それはそうだろう。おれも初めてこいつに警察手帳を見せられたときは仰天したものだった。

「警視庁捜査一課の村崎むらさきゆかりです。どうぞよろしく」

敬礼も見事に決まっていた。決まりすぎて演技派の子役に見えてしまうくらいだ。そう、信じられないことだが、どう見ても小学生にしか見えないこいつは間違いなく刑事でおれの同僚だった。今でも信じられない、というか信じたくないのだが。

「ああ。これはご丁寧にどうも」

小林はすっかり恐縮していた。百戦錬磨のベテランも子供みたいな刑事を見るのは初めてなのだろう。

「この方が被害者ですか」

少女刑事がブルーシートの端をぴらっとめくり、死体の様子を見ようとしていた。こら。勝手なことをするな。

「うわー。どう見ても殺人ですね」

たしなめながらも、おれも一緒に死体を見てしまう。中肉中背の男がうつぶせになって倒れていた。そして、背中にはナイフが突き立っていて、それを中心にして白いシャツに血が赤く丸く染み出ていた。確かに「どう見ても殺人」だった。

「亡くなられていたのは天目てんもく正志まさしさん。この部屋の住人です」

小林に説明されたが、被害者の情報は現場に着くまでに目を通していた。マスコミでもしばしば取り上げられるベンチャー企業の若き経営者。タワーマンションに住む資格を十分に有する人間だった。それにしても、どうも気になることがあった。

「すみません。どうして関係者の方を一緒の部屋に呼んでいるんですか?」

おれが考えていたのと同じことを先に質問されて思わず苛立った。しかし、それは当然の疑問だった。関係者を死体のそばにいさせるのは避けた方がいいはずなのだ。身内が死んで動揺している人間の精神に負担をかけてしまうからで、実際、髪をアップにまとめた若い女性が目を泣き腫らしていた。被害者の妻、天目多歌子たかこだ。資料で写真を見たときは、なかなか美しい、と思ったものだが、今は夫の死にうちひしがれて見る影もなかった。

「実は、みなさんにお聞きしなければならないことがあったんです」

小林も死体のそばに近づいてきた。

「この家では今日ホームパーティーをやっていて、被害者を含めたこの7人の方たちが参加されていました。それで宴もたけなわになったところでゲームをしよう、という話になって、被害者がこの部屋まで必要なものを取りに行ったそうなんです。しかし、なかなか戻ってこないので奥さんが呼びに行くと、こうして亡くなられていた、ということです」

逐一説明してくれて助かったが、それにしても人が殺されているのに気づかない、ということがあるだろうか。

「パーティーが盛り上がっていて、みなさん入れ代わり立ち代わりされていたようで、人の動きをいちいち気にされていなかった、ということのようです」

「主人は」

若い女性がいきなり話し出したので驚く。声が嗄れているのは衝撃と悲しみのせいに違いなかった。

「いつも主人はそうなんです。いきなりふらっとどこかへいって、しばらく帰ってこない、というのがよくありました。だから、いつものことだと思ってたんですが」

それ以上続けることができず、うつむいてしまう。おれの同僚が近づいて彼女の肩に手を置いた。子供なりに心配しているようだ。妙なやつだが、悪いやつではない。

「そういうわけなので、みなさんのアリバイはあるようなないような、曖昧な感じなのです。そこでみなさんに改めて確認する必要があったわけです」

小林の説明に頷いてみせた。この家なら外部から誰かが忍び込んで犯行に及ぶことも考えにくい。なにしろ高層マンションの40階だ。

「その通りです。もちろん、マンションに設置された防犯カメラの映像を全てチェックしていますが、今のところ怪しいものを映っていないようです」

自慢するわけではないが、日本の警察は優秀なようだった。やるべきことをちゃんとやっている。そうなると、この6人の誰かが一瞬だけパーティーを離れ、被害者を殺害してすぐにまた舞い戻った、という構図になるのだろうか。

「それから、もうひとつ気になることがありまして」

小林がブルーシートの右上の端をめくり、中を見るようにおれを促した。呼んでもいないのに子供もついてきた。

「これです」

小林は被害者の右手を指さした。さっきは気づかなかったが、近づいてみると何かを握っているのが見えた。花札が一枚握られている。

「まさか、ダイイングメッセージですか」

幼女が興奮し出した。子供じゃないんだぞ、と言おうとしたが、相手が子供だったのを思い出して、そうなるとどう注意していいのかわからなくなってしまった。

「わたしも長く警察で働いていますが、遺書とかは別にして、そういったものに出くわしたのはきわめて稀でして、どう考えていいものかわかりかねているのです」

ベテラン刑事の顔に困惑の色が浮かぶ。ふと足元を見てみると、床に花札がたくさん散らばっているのが見えた。被害者はゲームの準備のためにこの部屋まで来た、というから、花札を取り出したところを襲われて、それでたまたま一枚だけ握っていた、という可能性も考えられるのではないか。

「しかし、全くの偶然、とも考えにくいんですよ」

小林はそう言って、おれたちに被害者が握った花札をもう一度よく見るように言った。

「松に鶴、ですね」

2本の松の間に鶴が立っている。少女の言った通りの絵柄の花札を持ったまま男は死んでいた。

「そうなんです。だから、お話を聞かなければいけないんです。そこにいらっしゃる、鶴田さんに」

注目が壁際に立った痩せた男に集まった。銀縁眼鏡で、高級ブランドの黒いポロシャツを着ている。

「いや、ちょっと、とんでもない言いがかりだよ。そんな花札くらいで疑われたらたまったもんじゃないよ」

鶴田つるた秀之ひでゆき。被害者とは学生時代からの友人で今は同業者でもあり商売敵でもある。

「でも、鶴田さん、この前、社長にしてやられた、っていってたじゃないですか」

ぼそぼそしゃべっているのは、たいら一平いっぺい。被害者の側近として会社のコンピューター部門を統括しているらしいが、いかにも陰気そうな外見で、この状況でこのような発言をするところを見ると、コミュニケーション能力に問題があるかも知れない。

「ピンちゃん、今そんな話をしないでくれよ。確かにやられたよ。やられたけども、だからって殺すわけないだろ」

「そうよ。ツルちゃんがそんなことするわけないでしょ」

鶴田の隣にいた気の強そうなショートカットの女性が平に反論する。下條しもじょう睦月むつき。鶴田の交際相手だと噂されている。モデルをやっていて、おれはテレビを観ないのでよくは知らないが、バラエティ番組にもたまに出演しているらしい。

「いや、でも、ここはちゃんと説明して、疑いを晴らした方がいいと思いますよ?」

そう言った赤いフレームの眼鏡を掛けた若い女性は山中やまなかひかり。被害者の秘書だ。それなりに整った顔立ちだが、あまり身なりに気を使わないらしく、量販店で売っていそうなシンプルなTシャツとデニムをつけている。

「そうね。どうせみんな事情は聞かれるんだから、さっさと済ませた方がいいんじゃない?」

鴨居かもいさくら。被害者の妻の友人で、フリーライターだ。長身で切れ長の目で、いかにもさばさばした性格だと見て取れる。

「桜の言うとおりだと思う。みんなで協力して早く解決した方がいいに決まってる。だから、お願い。刑事さんの言うことを聞いて」

 指で涙をぬぐいながら多歌子がつぶやく。夫を亡くしたばかりにもかかわらず気丈に振る舞おうとする様子におれだけでなく一同も心を動かされたように見えた。自分勝手にしている場合ではないのだ。それを見た小林が口を開く。

「では、鶴田さんからお話を聞かせてもらえませんか?」

「刑事さん、やっぱり俺のことを疑ってるよね? だから最初に話を聞こうとするんだよ」

「いえ、そういうわけでは」

「そうだ。弁護士を呼ばせてもらう。それまでは話さないからな」

鶴田が態度を硬化させる。それ以外の連中もてんで勝手なことを言ったり、スマホを眺めていたりしている。やはりタワマンに住めるような人種は自己中心的なのだ、と思うのは公務員のひがみなのだろうか。ともあれ、小林だけに任せるわけにも行かないので、おれも取り調べを受け持とう、としたそのとき、

「あの花札は鶴田さんを指しているとは限りませんよ」

幼さの残る声が一同の動きを止めた。振り返ると6人が並んでいるのとは反対側の壁際におれの相棒が立っていた。ずっと静かだと思ったら何か妙なことを考えていたらしい。

「あれだけで犯人を決めるのはまだ早いです」

「しかし、村崎さん。あの手がかりを無視するわけにはいかないでしょう」

小林が穏当に反論したが、あいつをちゃんと苗字で呼んでいるのには感心した。おれには真似できない。

「あれは重要な手がかりであることは間違いありません。被害者が残した最後のメッセージです。だからこそ、その意味を間違えることなく、正しくとらえなければならないのです」

くるり、と首を巡らせて、おれの顔を見つめてきた。こいつに見られると、なんだか落ち着かなくなるから、じろじろ見るな、と言ってあるのだが、ちっとも聞きやしない。

「ねえ、先輩。ダイイング・メッセージで2番目に大事なことって何だと思います?」

変なやつが変な質問をしてきた。そういうときは普通一番大事なことを聞くだろうに。

「一番大事なことはわかりきってるじゃないですか。犯人が誰かをちゃんと伝える、ということです」

 それはその通りだ。ならば、2番目に大事なこととはなんだ。

「先輩がわたしを殺したとしますね」

おい。何をさらっと、とんでもないことを言ってるんだ。どうしておれがおまえを殺すんだ。

「それはもちろん、かわいくて有能な後輩に嫉妬するあまり、野蛮で無能でいけてない先輩が凶行に及んだ、ということです。いつかそうなるんじゃないか、と不安で仕方がないのですが。今こうやって無事でいられるのが不思議なくらいです」

こいつ、本当に殺してやろうか。大人をおちょくりやがって。

「もしもの話に決まってるじゃないですか。本気にならないでくださいよ。せ・ん・ぱ・い」

 目の前の少女に刑事としての適性があるかは知らないが、人を怒らせる能力はピカイチだ。自分が法の番人であることがつくづくうらめしくなる。

「冗談はさておき」

殺人現場で冗談を言うとか度胸ありすぎだろ。

「先輩がわたしを殺したとして、わたしが死ぬ間際に先輩の名前を書き残したとします。先輩ならどうします?」

そりゃ、当然始末するだろう。犯人である手がかりをそのままにはしておけない。

「ですよね。それが普通の行動です。つまり、それが二番目に大事なことなんです。『犯人にわかるようなメッセージを残してはいけない』ということです」

得意げな顔をしてから幼女は話を続ける。

「では、今回の事件について言えば、どうでしょう? 仮に鶴田さんが犯人だったとしたら、被害者が『松に鶴』の札を持っていて、そのままにしておくと思いますか? 抛っておいたら真っ先に疑われるに決まってるじゃないですか」

おれが心の底から嫌だと思っていながら、こいつ、村崎紫をやむなく相棒にしているのは、こういう点にあった。女子小学生にしか見えないのにその外見には似合わない鋭いことを言うのだ。まるで本物の刑事のように、時には刑事以上のことをやってのける。だから、おれも完全には突き放せないでいる。実に腹立たしいことだが。

「何か言いたいことがあるんですか、先輩?」

ほら、こういうところだ。こっちの考えを読んでくるのも頭にくる。確かにこいつの言うことに一理ある、というのは認めざるを得なかった。しかし、理屈は理屈でしかない。理屈に合わない物事などこの世にはいくらでもあったし、特に犯罪が関わる場面では不条理や不合理がいくらでもまかり通るもので、おれは何度もそんな理不尽を経験している。だから、重要な証拠を始末しない犯人がいてもおかしくはない、それがおれの考えだった。

「先輩のお考えはよくわかりました。大変勉強になります。でも、今回の場合でもそれはあてはまりますか?」

今回の場合、というのはなんだ。

「鶴田さんが犯人だったとして、鶴田さんがあの花札をそのままにすると思いますか?」

少しだけ考えて、その可能性はない、という結論に達した。鶴田は死んだ天目と同じく若くして業界で注目を集めている男だ。少なくとも馬鹿ではないし、賢いというよりは狡猾だ、というのもさっきの小林とのやりとりを見ていればわかる。ダイイングメッセージに気づかなかったり放置するとは思えなかった。

「というわけで、あの花札は鶴田さんを犯人だと断定する証拠とは言えませんし、むしろ逆に犯人であることを否定するアイテムである可能性もあるんです」

「そう! まさしくその通り。そのお嬢ちゃんが言う通り、ぼくが犯人なわけがないんだよ。小さいのになかなかやるねえ」

手を叩いて喜んでいた鶴田をちびっ子が鋭くにらみつける。

「別にあなたが犯人でないと決まったわけではありませんから、お間違いなく」

ひい、と叫んで壁にへばりつく青年実業家、というのもなかなか見られない光景だった。こいつを子供扱いしていいのはおれくらいなものなので、馬鹿なことをやったものだが。

「しかし、そうなると、あの花札にはどんな意味があることになるんですか?」

首をひねる小林を幼女が手招きする。殺人現場でなければ祖父と孫のようなほほえましい眺めだったかも知れない。

「ほら、先輩も来て下さい」

なんだなんだ。行ってみると、ちびすけと小林は天目の右手を見ていた。もちろん、右手そのものではなく、右手の中にある花札を見ていた。

「さっき言ったように、大事なのは、犯人がちゃんとわかるようにしながら、犯人がわからないようにする、ということです」

「なるほど。少しばかりひねったものの見方が必要というわけですか」

その通りです、と少女は小林に笑いかける。すっかり息が合ってるようだから、おれの代わりにこいつとコンビを組んでくれないかな、小林さん。

「この札は『松に鶴』と呼ばれています。そして、被害者は親指で松を押さえています」

ははあ。ちびっ子の言いたいことがわかってきた。

「松、にも意味があるということですか?」

小林もわかったようだった。しかし、そうなると、疑問も生まれる。「松」に意味があるとしても、あの6人の中に「松」と関係のある人間がいるだろうか。

「ひねったものの見方が必要だって小林さんが言ったじゃありませんか」

年下の人間にかなり上からものを言われてしまった。小娘は死者の右手を指さす。

「この花札、逆さですよね」

それは見れば分かる。鶴は地面に頭を打ち付け、松は重力に逆らっている。

「だから、逆から読むんです。『松』を」

まつ、を逆から読めば。

「何を言ってるんですか。馬鹿なことを言わないでください」

部屋中の視線が集まるのを感じて、被害者の「妻」が悲鳴を上げた。

「わたしがそんなことするわけないじゃないですか。主人を殺したりするわけがないじゃないですか」

「でも、きみはこの前、離婚を考えてるって言ってたよね。あいつの女遊びに我慢できなくなったって」

鶴田がつぶやく。この状況でそれを言うのは、天目夫人を陥れたい、というよりは罪を逃がれたい一心なのだろうが、とはいえまるで好感を持ちようのない行為だった。

「だからってあの人を殺したりしません。鶴田さんだってさっきそう言ってたじゃないですか」

「まあまあ。奥さん、落ち着いてください」

天目多歌子に睨みつけられても幼女に動じる様子はなかった。まったく、いい度胸してるよ。

「奥さんが犯人だと言ってるわけじゃありませんから安心してください。あの花札はいろんな解釈ができる、って言ってるだけです。犯人が鶴田さんだと読めるし、奥さんだとも読める。そして、それ以外の方だとも」

 鶴田と天目夫人以外の5人が震えたのがこちらにも伝わった気がする。せんぱい、せんぱい、と後輩がスーツの裾を引っ張ってきた。おまえは5歳児か。

「先輩なら花札が12か月に分かれていることは当然ご存じですよね?」

当然ご存じでなかった。おれには豆知識やトリビアの持ち合わせはない。

「せめて常識は持ち合わせていてほしいんですけどね」

そういうことは年長者を敬う常識を持ち合わせてから言え。

「先輩以外の方はご存じと思いますが、花札は12か月に分かれています。12か月の札が4枚ずつで全48枚というわけです」

幼女がそう言ってもみんなの反応は鈍い。おれは特別ものを知らないというわけでもないのだ、と少し安心してから、それでは被害者の持っていた札は何月なのか、と気になりだした。

「『松に鶴』は1月の札です。そして」

子供に似つかわしくない鋭い眼光でモデルを射すくめる。

「旧暦の1月は睦月、と呼ばれてますね」

「ふざけないでよ!」

下條睦月が激昂する。外見に似合わず、声はそれほど美しくないから、女優に転じるのは考えものかもしれない。

「わたしがどうして天目さんを殺すのよ? わたしと天目さんに何の関係があるのよ?」

「あ、でも、下條さん、この前社長と会われてましたよね?」

そう言った山中ひかりを下條睦月が愕然とした表情で見た。

「なんでしたっけ、CMに起用してほしいとか、そういうお願いに来られたんじゃありませんでした? でも、社内で検討した結果、残念ながらその話はなかったことになったんですけど」

「睦月、おまえ」

鶴田の様子からすると、恋人の行動をまるで聞かされてなかったようだ。

「知らない。わたしは何も知らない」

「知らないってことはないだろ。天目と何かあったんだろ?」

言い争いを始めた鶴田と睦月を山中ひかりは困った顔で窺い見ていた。どうも悪気があって睦月の行動を告発したわけでもないようだ。単純に知っていたことを言っただけ、ということか。

「ところで」

自分の発言が巻き起こした混乱を収めようともせずに少女刑事が話しかけてきた。いざこざにおれを巻き込まないでほしいものだが。

「先輩は、こいこいをしたことあります?」

一応はな。中学か高校の頃だから、ずいぶん昔の話だが。

「だったら、こいこいで一番強い役はなんだったか覚えてますか?」

確か、五光じゃなかったか。

「さすが、先輩は何でも知ってますね」

こいつが言うと嫌味にしか聞こえない。さっきは馬鹿にしやがった癖に。

「そう、五光です。被害者が持っていた『松に鶴』も五光には必要ですが、五光というのは、五枚の札で成立する役です。そして、その札は『光札』と呼ばれています」

5枚の光札で、五光か。つまり、被害者は光札を握っていた。ひかりふだ。

「いやいやいや、悪い冗談はやめてください」

おれは独り言を言ったつもりなのだが、大声になっていたのだろう。他の連中にも聞こえていたらしく、山中ひかりが後ずさりして、背中を壁にぶつけた。

「別にわたしは社長に何の不満もなかったです。給料も待遇にも満足してましたし」

「山中さんはセクハラされなかったの?」

「はい?」

彼女の同僚である平一平に訊かれた山中ひかりが戸惑う。

「いや、うちの女子社員さ、ほとんどの子が社長にセクハラされててさ。おれも困ってたんだよ。社長に言っても『別にスケベな気持ちでやってるわけじゃない』って全然聞いてくれなくて。だから、山中さんもそういう目に遭ってたんじゃないか、と思ってさ」

鼻息を荒くして話をする平一平は、おれが言うのもなんだが、下心が見え見えで気持ち悪かった。だから、横の女子が、うげー、と呻いているのも特別に見逃すことにした。

「いえ、わたしは社長から、そういうことは、まったく」

はっ、と下條睦月が笑う。

「なんだ、あんた、女として見られてなかったんだ。全然相手にされてなかったんだ」

「だったらなんですか。そんなのどうだっていいじゃないですか」

いきり立つ山中ひかりの姿は、天目に対して何らかの感情があったかのように見えた。つまり、動機がまるでない、とも言えない、ということだ。

「大人って大変ですねえ」

言い争いをする連中を見て溜息をつく小娘。誰のせいでそうなったと思ってるんだ。

「それでですね、もうひとつ質問なんですが」

またか。

「先輩はオイチョカブをやったことは?」

それはないな。金を賭けてやっていたやつらを現行犯で捕まえたことならあるが。

「おー。警察官の鑑ですね」

ぱちぱちぱち、と小さな手で拍手されてもちっとも嬉しくない。

「オイチョカブは、花札を使って点数を競うゲームです。2枚または3枚の札の数字を合わせた数字の一の位が9に近い方が勝ち、というルールです」

オイチョカブに詳しい幼児というのも不安になる。教室で休み時間にやったりするなよ。

「だから、わたしは大人ですってば。揚げパンを賭けたりなんかしません」

給食の一番人気を賭けるなよ。ていうか、おまえ、やっぱり今でも小学校に通ってるだろ。

「えーとですね、オイチョカブでは花札の1月から9月までを使うんです。つまり、1月の札は1点、9月の札は9点、というわけです」

すると、被害者が持っていた札は1点ということになるが、それに何の意味が。

「オイチョカブでは数字を独特の呼び方をするんですよ。たとえば、9点がカブで8点はオイチョという感じです」

それでオイチョカブというわけか。

「そして、1点はピンと呼びます」

そう言われておれもピンときた。

「おやじギャグはやめてください」

そうじゃねえよ。たまたまだ。いくらおれでも、ほんの少し前のことなら忘れはしない。そこにいる鶴田が平一平を「ピンちゃん」と呼んでいたのをしっかりと覚えていた。おそらく、「平」から来たあだ名だろう。平和ぴんふのピンだ。

「わたし、麻雀は自信ありますよ」

こいつはギャンブル大将か。末恐ろしいじゃなくて今恐ろしいガキだ。

「何言ってんですか。ひどいこと言わないでくださいよ。ぼくが社長を殺すわけないじゃないですか。ぼくにそんな真似ができるわけないじゃないですか。ぼくが社長に何のうらみがあるというんですか」

平一平は懸命になって抗弁していたが、力説すればするほど怪しさは増していった。平の陰気な外見と粘着質な話し方が疑いを招いていたが、やつだけのせい、というわけではない。すぐそばに横たわっている天目も、お世辞にも褒められた人物ではないのは資料にも記されていて、部下である平にもひどい扱いをしていたのではないか、と思われるのだ。セクハラをしていた人間ならパワハラだってしかねないだろう。

「そういう決めつけはよくないと思いますよ」

したり顔の少女に諭された。あのなあ。おまえのせいで容疑者は増える一方じゃないか。どう収拾をつけるつもりなんだ。

「そうです。この場合、誰でも容疑者になり得る、って言いたかったんです」

ぴょん、とちびっこが目の前に飛び出した。お遊戯でも始まるのか。

「つまり、あの花札はどんな風にも読める、どうとでも考えられる、と言いたかったんです。鶴田さんでも、奥さんでも、下條さんでも、山中さんでも、平さんでも、誰のことを指しているとでも見られる、というのがわたしの考えなんです」

なるほど。こいつが話す前に小林は鶴田を一番に疑っていたから、それを牽制したかったのかもしれない。確かに死人が持っていた花札でもって犯人を決めつけるのはあまり筋が良くない考え方かもしれない。捜査の常道に従って地道に調べていけば犯人は自ずと見つかるはずなのだ。

「うーん、そうは言ってもね、村崎さん」

困り切った小林がハンカチで汗を拭いていた。

「あなたの言う通りだと、亡くなった天目さんが花札を持っていたことに何の意味もなくなってしまって、あの花札は証拠でもなんでもない、という話になってしまうのだが」

「いえ、そうではありません。あの花札は立派な証拠品です」

学級会を取り仕切る委員長のようにきっぱり断言する少女警察官に初老の先輩刑事が食い下がる。

「しかし、あの花札はどんな風にも読める、誰のことを指しているとも考えられる、と言ってたじゃないか」

「そうです。だから、おかしいんです」

くるり、と小娘が身をひるがえして、関係者が並んだ壁の方を見た。

「あの『松に鶴』の札は誰のこととも受け取れるはずなのに、この中でただひとり、関係があるようには見えない人がいるんです。鴨居桜さんのことだけは読み取れないんです」

室内が突然ざわつきだした。おれの身体にも緊張が走る。刑事をそこそこやっていると勘が働くようになるもので、事件の真相に近づくと、頭ではわからなくても身体が教えてくれるのだ。そして、今その瞬間が訪れようとしていた。

「桜、あなた」

友人である天目多歌子が疑いの目で見られても、鴨居桜から余裕は消えなかった。

「やめてよ。そんな子供の言うことを真に受けるなんて」

そう言ってから、一歩前に進み出ると、おれの相棒の方を見た。

「つまり、そこのお嬢ちゃんが言いたいのは、あの花札のメッセージからわたしだけ読み取れないから、逆にわたしが犯人だってことなんでしょ?」

はっ、と鼻で笑ってから、

「冗談もほどほどにしてほしいわね。そんなことで人殺しにされちゃたまらないわよ。ねえ、お嬢ちゃん。簡単に人を悪者にしちゃいけないってママに教わらなかったの? こんなところで遊んでないでさっさと帰って宿題でもしなさいよ。まったく、馬鹿馬鹿しい」

子供相手にひどい言い草だが、あらぬ罪を着せられかけている人間なら当然の反応ともいえた。とはいえ、同僚を罵倒されて平気でいられるほどおれも人間はできていない。

「あのー、わたしは鴨居さんを犯人だとは思ってませんけど?」

え? 呆気にとられたのはおれだけではないようで、ちびっこを責め立てていた鴨居桜も、それを止めようとしていた小林も含めて、全員の目が点になっていた。

「やだなー、勘違いはやめてくださいよ。わたしの中では鴨居さんは真っ先に犯人から除外してましたよ」

あははは、と笑う童女に、鴨居桜も感情の持っていき場がなくなって困惑しているように見える。

「だって、仮に鴨居さんが犯人だったとして、花札を使ってダイイングメッセージをするとしたら、『桜』の札を使うはずじゃないですか。わざわざ『松に鶴』を使ったりする、まわりくどいやり方はしませんよ。だから、鴨居さんは有り得ない、って思ってたんです」

その通りだ。花札には「桜」の札がある。鴨居桜が犯人ならそれを使うはずだった。

「ただですねー」

どういうつもりなのか、ちびっこが近寄ってきて、おれの右足に抱きついた。おい、なんのつもりだ、離れろ。

「鴨居さんが怪しい、というのは、わたしじゃなくて、この先輩が言ってる話なんですけど」

最悪だ。こいつ、おれの責任にしようとしている。

「被害者はもともと『桜』を持っていたのに、それに気づいた犯人が急いで『桜』を奪って『松に鶴』に取り換えたんじゃないか、って先輩が言うんです。そうすれば自分には疑いが向けられることもなく、鶴田さんを疑わせることもできて一石二鳥だって。本当に誤解しないでくださいね、わたしじゃなくて先輩が言ったことなんです。わたしは嫌だったんですけど、先輩に命令されたら逆らえなくて。無理矢理言わされたんです」

よよよ、と泣きまねをしながら、おれから離れて被害者へと近づいていく小娘。冷たい視線が突き刺さるのを感じた。関係者だけでなく小林と制服警官までおれを責めるように見ている。こいつ、帰ったらただじゃおかない。説教してやる。ただ、そう思いながらも、さっきのちびっこの発言が気になってもいた。確かに死んだ天目は花札をしっかりとは握っていなかった。実に中途半端な握り方で、誰かがそれを握らせた、と見ることもできた。

「だから、今からわたしが鴨居さんの無実を証明します。もし鴨居さんが犯人なら『桜』を捨てちゃっているはずで、この残りの札に『桜』は残っているはずはありませんから」

 床に散らばった花札を拾い集める小さな背中は、公園で砂遊びしているようにも見えたが、そんな微笑ましいものではなく、おれたちは息をひそめてそれを見守るしかなかった。それから、2、3分も経っただろうか。

「あれ、あれ?」

 少女が慌て出した。

「ない、ない。どうして? いくら探しても『桜』が見つからない」

 どうしよう、と立ち上がっておろおろしているおれの同僚に向かって鴨居桜が叫んだ。

「そんなわけないでしょ。もっとよく探しなさいよ、このガキ。わたしはちゃんと戻したんだから、あるに決まってるでしょ」


あ。


室内の空気が固まった。自分以外の全ての視線が集まったのに気づいて鴨居桜もようやく固まった。取り返しのつかない、おのれの失策に気づかされたのだ。おれの横を通り過ぎて、困り顔でちびっこが部屋の真ん中まで歩いていく。

「ごめんなさい、鴨居さん。よく見たら、『桜』、ちゃんとありました」

 そう言って、「桜」の札を犯人に向かって差し出した。その瞬間、鴨居桜は形容できない叫び声をあげ、おれの同僚へと走り出した。いつの間にか右手にはナイフが握られている。この野郎。うちの村崎に何する気だ。間に入ろうとしたが間に合わない。大人が子供へと襲い掛かったその時、大きな人影が回転して宙を舞い、音を立ててフローリングへと落下した。気が付くと、うつぶせになった鴨居桜が村崎紫に組み敷かれていた。

「ごめんなさい。わたしも一応警察官なので、逮捕術は一通り身につけているんです。それに、わたし、こう見えてもちゃんと大人なんです」

ごめんなさい、と犯人の背中に乗りながら相棒はもう一度謝った。別に謝る理由はないはずだが、謝りたい気分だったなら仕方がない。村崎がしっかり拘束しているので動けはしなかったが、そうでなくても、子供と侮っていた人間にしてやられたショックで鴨居桜はもう動けなかっただろう。

「桜。どうして。ねえ、どうして」

友人であり、そして自分が殺した相手の妻でもある天目多歌子のつぶやきを耳にして、鴨居桜は床に顔をつけたまま静かに泣き始めた。


「ブラックを頼んだはずですが」

オレンジジュースを手渡されたちびっこ女刑事は不服そうな顔をした。子供が背伸びするんじゃない、と反論は受け付けなかった。

「まあ、別にいいんですけど」

そう言いながら小娘はごくごくごく、と勢いよく飲んでから、ぷはー、と満足そうに一息ついた。な? おれのチョイスに間違いはないんだって。

おれたちはタワーマンションを出て近くの川沿いの公園まで来ていた。夕方の風が潮の香りを運んでいた。ここから東京湾までそう遠くはない。

「嫌な事件でしたね」

幼い声に不快感がにじむ。あれから、鴨居桜は犯行に至った理由を小林に向かってとめどなくぶちまけた。実にひどい話で、天目は殺されても仕方がない、とつい思ってしまうほどだった。

「殺されても仕方がない人なんていないと思いますけど」

悪い、と謝っておく。教育に悪影響を与える発言は慎まないといけない。とりあえず、鴨居桜は小林たちが所轄の警察署まで連行する予定で、そこからまたおれたちに出番が回ってくるのか、それとも捜査一課の他の人間が担当することになるのかはわからなかったが、ひとまずおれたちの役目は終わったはずだった。

「なんですか?」

ベンチに座ったちびっこの形のいい頭をじっと見ていたのがばれたらしい。気まずくなったついでに話を振ることにする。おまえ、最初から鴨居桜が犯人だと気づいてたんじゃないか?

「いや、そんなことはありません。可能性はハーフ&ハーフだと思ってました」

ピザみたいに言うなよ。だが、気づいていたから、あんな芝居を打ったんだろう?

「まあ、上手くいけばラッキー、くらいのつもりでやったんですけどね。あんなに上手く行くとは思いませんでした」

 本日の小さなヒロインはそう言って謙遜してみせたが、どうだかな、とおれは口にこそ出さなかったが大いに疑っていた。こいつが前もって怒らせるような態度をとったから鴨居桜は見事に嵌まったのだ。それを偶然だと考えるほど、おれは楽天家ではない。こいつの、村崎紫の底がまだ見えなかった。

「そんなことより」

オレンジジュースを飲み干した後輩が俺に向かってにこっと油断ならない微笑みを浮かべた。

「さっき、わたしが鴨居さんに襲われそうになったとき、『うちの村崎』って言ってませんでした?」

さあな。記憶にないな。

「わたしのこと、本当は好きなくせに。大事なくせに。かわいいと思ってるくせに」

うるせえな。殴るぞ。

「ゆかりちゃん、って呼んでもいいですよ」

こいつ、と頭を軽く叩こうと思ったそのとき、ちびっこの姿が目の前から消えて、次の瞬間、背中にそこそこ重いものが乗り、首に何かが巻き付いた。

「隙だらけですよ、先輩」

少女がおれの背中におぶさっていた。誤解のないように書いておくが、おれは座っていないし、屈んでもいなかった。普通に立っていたのにこいつは背中に飛びついてきたのだ。運動神経良すぎだろ、と感心している場合でもない。おい、早く離れろ。ぶっとばすぞ。

「やです。このまま本庁まで連れてってください」

ふざけやがって。こんな姿を見られたら何を言われるかわかったもんじゃない。

「わたし、今日すごく頑張ったじゃないですか。わたしのおかげで事件が解決したじゃないですか。かわいい後輩を少しくらいいたわってくれてもいいんじゃないですか?」

やれやれ。こうなるとこいつが絶対に引かないのは経験でわかっていた。口論するだけ時間の無駄だ。しょうがない。駅までだぞ。

「やったー、先輩大好き」

だから、そういうことを言うなよ。まったく。おれはちびっこをおぶったまま駅へと歩き出した。ちっとも重くない。こんなに小さな外見なりで、大したやつだよ。

「何か言いました?」

なんでもねえから。静かにしてろ。

 おれとこいつがコンビを組んで半年になるが、コンビを組んだ理由は馬鹿馬鹿しいもので、捜査一課で一番背の高い、190センチ近いおれと一番小さいこいつを組ませて凸凹コンビにしたい、という課長のふざけた思い付きだった。おふざけに付き合うつもりはないので一刻も早くコンビを解消したかったのだが、おれの背中にいる奴はいちいち活躍しやがるので、そのチャンスはめぐってこない。いや、もっと活躍させて早いところ出世させてやった方がいいのかな。おれと一緒にいてもこいつの得になるとは。ぐえ。息が詰まったその時、ふっふっふっ、と悪のボスみたいな笑い声が耳元で聞こえた。

「生殺与奪の権を他人にゆだねてはいけないんですよ、先輩」

少女の細い両腕がおれの首を締めあげていた。チョークスリーパーだ。苦しい。呼吸できない。おまえ馬鹿だろ。おれが倒れたらおまえだってただじゃすまないんだぞ。

「いいですよーだ。わたし、先輩と一緒にいたいんです」

おれはよくねえんだよ。そうは思っても命は惜しかった。わかったわかった、ギブギブ。小さな手をタップすると首にかかっていた腕は緩み、ようやく呼吸ができるようになった。本気で死ぬかと思った。

「ほら、早く帰りましょうよ。駅でアイスを買ってくれるんですよね?」

いつの間にか約束が追加されていやがる。おれはこのままで大丈夫なのだろうか。こいつと一緒にいていいのだろうか。そう思うと、背中にかかる重みが増した気もしたが、別にそれを嫌だと思うこともないまま、おれは相棒と一緒に夕焼けの中を歩いていった。

 

(終)

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ちびっこ女刑事の事件簿 ケンジ @kenjicm

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