第15話 エピローグ




 

 宝永3年1月20日(1706年3月4日)。

 前日から危篤に陥っていた義周は、諏訪高島城南ノ丸で死去した(享年21)。

 塩漬けにされた遺体は2月4日(3月18日)幕府の検死を待って埋葬された。


 ――自然石で墓石を立ててほしい。


 最期まで義周を守った二人の遺臣、左右田孫兵衛と山吉盛侍の懇願に応えて寺域の裏山に葬ったのは、諏訪大社上社本宮に隣接する鷲峰山法華禅寺の住職だった。

 

 ――一山を古墳と成す。

 

 判官贔屓の目論見は、4代高島藩主・諏訪忠虎も承知していたものと思われる。


 若き当主・義周の死により、吉良家は廃絶した。


 生前の義周が「婆さま」と慕った生善院(富子の生母)は、江戸の上杉白金屋敷でその報を聞くと、孫息子のあとを追うようにして息を引き取った(享年92)。


 いまはむかしとなった援姫誤毒殺一件以来、夫・保科肥後守に排斥されつづけ、元禄4年7月8日(1691年8月1日)に没した於万ノ方(享年72、聖光院)の名誉の復活を、同じ家刀自として最期まで気にかけていたという。



         *


 

 それから42年後の寛延元年(1748)8月、大坂の竹本座で、浄瑠璃作者で同座の座本でもある竹田出雲らの合作による『仮名手本忠臣蔵』が初演された。


 いきなり斬りつけた浅野内匠頭長矩と家臣の仇討ちを正当化し、吉良上野介義央を徹底的な悪役に仕立て、面白おかしく歪曲した欺瞞だらけの脚本だったが、庶民に受ける勧善懲悪が好評を博し、後世に吉良悪者説を敷衍ふえんさせる発端になった。



         *


 

 時代が昭和に入って、吉良家の所領だった愛知県吉良町の有志による吉良上野介の復権が図られたが、大衆受けする当初の脚本の恣意は根強く生き残り、300余年後の現代においても、年末の歌舞伎興行などの演目として定着している。【完】


  

*参考文献

福田千鶴『徳川綱吉 犬を愛護した江戸幕府五代将軍』(2010年 山川出版社)

鈴木由紀子『義にあらず 吉良上野介の妻』(2010年 幻冬舎)

諏訪市教育委員会『諏訪 高島城』(1970年)

ほかにインターネットを参考にしました。

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赤穂事件の真実――吉良義周の述懐 上月くるを @kurutan

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