第14話 吉良義周、21歳の永訣





 ――由姫どの。


 前言を翻すようだが、わたしはもはや、どなたをも恨んではいない。


 松の廊下でいきなり義父を斬りつけた浅野内匠頭長矩。理不尽な仇討を果たした赤穂浪士の一党とそれを許された上さま。それに、わたしの運命の遠い引き金となった援姫さま誤毒殺事件、上杉綱勝さまの急死に関わったすべての人々を……。


 ――なぜ、わたしだけが、かような目に……。


 世を儚み、だれかれを恨み、恥ずかしながら自暴自棄に陥った時期もあった。


 だが、いまはすべての事物を許したい、ありのままをそっくり受け容れたい。


 自分でも不思議なのだが、わたしの内にあれほど激しく渦巻いていた感情が消え失せたいまは、清らかな陽光が燦々と降り注ぐ湖水のような心持ちに至っている。


 どなたも他人のうかがい知れない事情を抱えており、偶然と見えた折々の事件は起こるべくして起こった、やむを得なかったのだと心底から思えるようになった。


 ――由姫どの。


 わたしの命は、おそらく春まで保つまい。


 そのことはわたし自身がよく承知しているし、すでに納得もしている。


 ただ、この世に恨みを残して死んでいく事態だけはなんとしても避けたいのだ。

 すべてを許し、受け容れ、心安らかに義父母と父母のもとにまりりたいと思う。


 ――由姫どの。


 そなたのことだけが心残りだが、いまでもわたしを大切に想っていてくれるのであれば、どうか良き縁を見つけて、いままでの分まで存分に幸せになってほしい。


 それが死にゆくわたしの唯一の望みだ。


 今宵はことのほか底冷えがするようだ。

 こうして臥せていても、布団の下から凍った諏訪湖の寒気が這い上がって来る。


 明朝は御神渡おみわたりが見られるかもしれないと、そこここで騒いでいる気配がする。

 湖面の南から北へ向けて亀裂が奔り、まるで山脈のように氷が盛り上がるのは、諏訪大社上社の男神さまが、下社の女神さまのもとを訪ねた跡と言われている。


 ――わたしも、そなたのもとを訪ねられたなら……。


 すっかり薄くなった胸で詮ない繰り言を述べても、まさか神罰は当たるまい。

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