第13話 赤穂事件と吉良義周の流罪





 ――由姫どの。


 ここから先はそなたも承知のことゆえ、事実のみを簡潔に語るに留めよう。


 元禄14年3月14日、額に傷を負った養父の義央は、蘭学医の栗崎道有の懇切な治療により一応の快復を見たので、ご公儀に高家筆頭の御役御免を願い出た。


 ――意外にも。


 と申してよいだろうか、上さまは至極あっさりと許可された。


 そればかりか、3年前、上杉家の援助により、趣向を凝らして新築したばかりの呉服橋の屋敷をお召し上げになり、本所の古い空屋敷への替地をお命じになった。


 府下とは名ばかり、大川(隅田川)を渡った川向こうで、長いこと空き家だったため、板塀や壁土が無惨に崩れかけている。その古屋敷へ移転したのは、事件から5か月後の8月19日のことだった。


 養母・富子が上杉家の白金屋敷に留まることになったことは唯一の救いだった。


 12月6日、再度の願いで義央は隠居、17歳のわたし、義周が家督を相続し、表高家を称することになったが、落魄という言葉がぴったりな境涯に立ち至った。


 事件の一方的な被害者である吉良家が何ゆえか責を問われ、奈落の底に転落させられる結果になったことは、率直に言って、わたしには納得しかねるものがある。


 ――歴代ご公儀への忠節は、この際、灰燼に帰されるおつもりですか?


 できれば上さまにお訊ねしてみたいものと、いまもそう強く念じている。


 強いて理由をあげれば、おそば近くお仕えする立場上、ご公儀の事々を知り過ぎたがゆえではないかと、いまは亡き養父の独語のような呟きを思い返してもいる。



       *



 世に言う赤穂事件の発生は、元禄15年12月14日のこと。


 本所の代替屋敷で年納めの茶会を開いていた義父上を、浅野内匠頭の家臣の大石内蔵助良雄おおいしくらのすけよしたかが率いる赤穂浪士が急襲したのだ。


 無念にも義父上は斬り殺され(享年62)、後日、牛込万昌院に埋葬された。


 元禄16年2月4日、襲撃時の対応の不首尾を理由として、信濃諏訪藩高島城に改易流罪とされた18歳のわたしは、同月11日流人駕籠で江戸を出立した……。

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