第12話 浅野内匠頭、吉良上野介に斬りかかる


 

 

 貞享3年(1686)2月22日。

 上杉家の米沢城で、綱憲の2男・春千代(義周 生母は側室・要)が誕生した。


 吉良家では、46歳になった義央が、領地の三河の治水として黄金堤を築いた。


 同5年8月20日、前年に津軽政兕つがるまさたけに輿入れしたばかりの3女・阿久利が没し(享年21)、心労から眼病を患った富子は身延山の七面天女に祈願した。同時に義央は、妻の眼病快癒を供養して三河の「富好とみよし新田」の開発に着手し、9年後の元禄10年に完成させている。


 元禄2年(1689)12月9日、49歳になった義央は、かねてより上杉家に申し入れてあった孫・春千代の養子願を幕府に提出して、ただちに許可された。


 翌3年、吉良家は5歳の春千代を鍛治屋橋邸に迎えた。

 春千代には付け人として新貝弥七郎が従って来た。

 

 元禄8年5月23日、将軍・綱吉の命により、大久保と四谷に大規模な犬小屋が作られ、住民は強制的に立ち退きを命じられた。


 翌9年、11歳の春千代は初めて将軍綱吉に謁見し、左兵衛義周とあらためた。


 同11年9月6日、吉良家鍛冶橋邸の類焼により、義周は呉服橋に2,700坪の替地を賜った。新たな拝領地は北隣に松平弾正忠、東隣に蜂須賀飛騨守、さらに隣には戸田采女正と細川越中守、いずれも10万石以上の大名屋敷が並ぶ一等地だった。


 祖父で養父の義央は、屋敷の新築費用8,000両の大半をまたしても妻・富子の実家の上杉家に頼り、さらに米沢から普請奉行と50人の大工も派遣された。



         *


 

 元禄14年1月11日、61歳の義央は朝廷への年賀使として江戸を出立した。


 高家筆頭としての旅には、綱吉将軍の生母・桂昌院を従一位に昇階させるための根まわしの役目も仰せつかっていた。従来の慣例では従三位どまりのところ、


 ――出自の低い生母の、しいては、そのためもあって、なにかにつけて歴代将軍より軽く見られがちだった自分の名誉回復を、この機に一気に図っておきたい。


 綱吉将軍たっての強い願望を託されていた。


 同年2月4日、35歳の浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのりと、20歳の伊達左京亮宗春だてさきょうのすけむねはるの両名に、朝廷を迎える御馳走役が任ぜられた。それより18年前、17歳のときに同役を経験している浅野と、初体験の伊達の組み合わせだった。


 同時に、高家衆の吉良上野介義央、畠山民部大輔基玄、大友近江守義孝、品川豊前守伊氏の4名に接待役が命じられた。


 2月29日、上洛の目的を果たした義央は、早駕籠を飛ばして江戸へ帰着した。


 そして、3月14日、だれひとり予想できなかった大事件が発生した。


 江戸城松の廊下で待ち伏せしていた浅野内匠頭長矩が、朋輩の高家衆とともにやって来た吉良上野介義央に、とつぜん斬りかかったのだ。


 危うく一命はとりとめたものの、避けきれなかった義央は額に深手を負い、居合わせた留守居番・梶川頼照に取り押さえられた長矩は、即日、切腹を命じられた。


 一連の出来事を知らされた富子は、衝撃のあまり、その場に卒倒した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る