第11話 5代将軍・綱吉の鬱屈と動物愛護令
本来の将軍候補から外れ、生まれついての将軍教育を受けていないだけに周囲の目を意識し、当初から双肩に並々ならぬ力瘤が入っていた5代将軍・綱吉の為政は前将軍の裁定を根底からくつがえす「越後騒動」の裁定に始まったといっていい。
藩主・光長の跡目相続をめぐって越後高田藩松平家に起こった御家騒動は、光長の妹婿で家老の小栗美作守に不服を申し立てた糸魚川城代・荻田主馬に処罰が下されていたが、この裁定に納得しない荻田派は将軍の代替を機に再審を請求した。
――これにて決案す。はやまかり立て。
天和元年6月21日、前の裁定を取り消した綱吉は、喧嘩両成敗とし、松平家は取り潰し、藩主・光長は伊予松山藩、養嗣子・万徳丸も備前岡山藩預けとした。
重臣の意見を図らず、綱吉が独断で行った半ば強引な裁定は、将軍後継の亜流としていつまでも軽視したがる世間の風潮に、びしっと一矢報いた格好になった。
天和3年(1683)3月7日、43歳の吉良義央は、高家として最高位である
前将軍時代に親交のあった酒井忠清の失脚で、新たに幕閣の中心となった老中・堀田正俊は母方の従兄に当たるので「さすがは八方美人の高家筆頭どの。いかなるときも手抜かりがござらぬわ」義央の世渡り上手が妬み混じりに取り沙汰された。
上杉家にも動きがあった。
結婚後、3年経っても子どもができない綱憲に、養母の生善院がふたりの側室を招いたのだ。御三家から正室に迎えた栄姫にとっては残酷な仕打ちではあったが、
――綱勝が急逝したときの、お取り潰しの危機だけは二度と招いてはならぬ。
それが上杉の家刀自としての自分の役目と、生善院は信じて疑わなかった。
貞享元年(1684)8月、この頃は大老の職についていた堀田正俊をとつぜんの不幸が見舞った。江戸城中において、若年寄・稲葉正休に惨殺されたのだ。
乱心を問われた稲葉は、その場で処罰された。
ふたり同時に失脚した堀田正俊と稲葉正休に代わって将軍の側近に重用されたのは、
成貞は綱吉より12歳年上の戌年生まれ、保明(のち吉保)は12歳年下の同じく戌年生まれだったことが、のちの有名な、
――犬将軍。
を育てる素地となったことを、このときはまだだれも知るはずもなかった。
あれほど忠義を尽くした堀田大老の遺族を綱吉が顧みなかったことにより、剛直で思い通りにならない堀田が疎ましくなった将軍による策謀説が巷間で囁かれた。
「都合よく働かせておいて、煙ったくなれば、古雑巾のように使い捨てかよ」
「使い捨てどころか、一気にばっさりやっちまうとはなあ。くわばらくわばら」
「結局のところ、あれだな、お上も下々も、人情に変わりはねえってえことさ」
そんな評判をよそに、綱吉と成貞、保明両名の親密な交流は増すばかりだった。
記録によれば、将軍の柳沢邸への御成りは58回、牧野邸は32回にのぼった。
あろうことか、両名とも好色な綱吉に自分の妻や娘を自ら進んで献上し、柳沢の娘・貞(のち吉里)は綱吉の落胤と、もっぱらのうわさだった。
この年11月7日、上杉家の米沢城で、綱憲の長男・勝千代(吉憲 生母は側室の要)が誕生した。
貞享2年1月21日、紀伊家の綱教に将軍家の鶴姫(9歳 生母は側室・お伝の方)が輿入れした。将軍・綱吉と御台所・鷹司信子のあいだには子どもがおらず、側室・お伝の方が産んだ徳松は3年前に5歳で亡くなっていたので、この年40歳になった綱吉は、娘・鶴姫に男子の出産を期待して輿入れを急いだものという。
同年7月14日、5代将軍・綱吉は初めての「動物愛護令」を発布した。
――将軍御成の道では、犬や猫を繋がず、放しておいてよろしい。
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