第10話 浅野内匠頭の叔父・内藤和泉守の斬付事件
延宝6年6月1日、綱憲(16歳)と栄姫(19歳)の婚礼が行われた。
大上臈、小上臈、
念願の徳川御三家と姻戚関係を結んだ上杉家の出費は、このとき以降、あれよと言う間に加速度的に嵩み、逼迫した財政はさらに困窮の一途をたどることになる。
少しのちのことになるが、たとえばこんな調子だった。
学問好きで知られる5代将軍綱吉が、神田台に聖堂「孔子廟」を建立して昌平坂学問所を称すると、綱憲も米沢に学問所を造営、さらに幕府の書院を真似て豪華な書院や能舞台を新設したうえ、金剛流宗家の金剛五郎四郎を召し抱えるなど……。
一方、吉良家には慶事と凶事があった。
上杉の祖と仰ぐ謙信公に倣い毘沙門天に熱心に祈願した富子の努力が実ってか、この年11月16日、一家の待望の男子である2男・三郎が誕生したのだ。だが、家中をあげての喜びもつかの間、貞享2年、わずか8歳で早逝することになる。
延宝8年は、複雑な思惑が絡み合う因縁の年となった。
同年5月8日、4代将軍・家綱が没した(享年38)。
仕置きに不熱心で何事も家臣任せだったので、
――さようせいさま。
と
消極的な将軍の代わりに権力を一手に握り、
――下馬将軍。
と称されていた大老・酒井忠清は「鎌倉幕府の先例に倣い、次期将軍には有栖川宮幸仁親王こそふさわしかろう」と主張した。
一方、老中・堀田正俊(外祖母である春日局の養子)の主張は、「本来なら将軍を継がれるべき綱重公(甲府城主)は2年前に急逝された。となれば、弟君・綱吉公をさしおいて、宮家から次代将軍を迎え入れることには絶対に反対でござる」
どちらも強硬にわが意を唱え、双方に譲る気配はなかった。
結果的に、末期の家綱の説得に策を弄した堀田正俊側が勝利したのだが、かねて酒井忠清と昵懇の間柄だった吉良上野介義央は、今後の身の振り方に苦慮を強いられはしたものの、持ち前の機転で巧みに切り抜けている。
5月14日、天台宗東叡山寛永寺で家綱の葬礼が営まれた。
6月26日、浄土宗増上寺でも法会が営まれたが、かねて諍いがあったわけでもない法会奉行・永井信濃守尚長を、警衛・内藤和泉守忠勝(浅野内匠頭長矩の母方の叔父)がとつぜん
忠勝は翌日、切腹(享年26)を命じられ、志摩鳥羽藩33,000石は没収された。
乱心した内藤和泉守忠勝に斬殺された永井信濃守尚長には嗣子がなかったので、お家取り潰しの憂き目を見ることになり、丹後宮津73,000石は没収された。
この一件はあとから見れば、綱吉時代に多発する大名家廃絶の最初となった。
増上寺の法会に参列していたため、不可思議な凶行の一部始終を目撃することになった当時40歳の吉良上野介義央が、それから20年後、下手人・内藤忠勝の甥の浅野内匠頭長矩によって同じ目に遭わされようとは、予想すらできなかった。
ちなみに、義央はこの事件の概要を記録に残している。
――昨日、増上寺本堂において、永井信濃守どのと内藤和泉守どのが喧嘩。信濃守どのは深手ゆえに即座に死去。和泉守どのは、翌日、清龍寺にて切腹を仰せつけらる。検使は板倉石見守、渡辺大隅守、能瀬惣十郎に仰せつけらる。
それから2か月後の8月23日、5代将軍・綱吉の宣下(朝廷から武家が受ける最も重要な儀式)が行われ、高家筆頭・吉良義央は宣旨取次役の大役をつとめた。ちなみに、3代将軍・家光のときの同役は、義央の祖父・の義弥がつとめている。
9月6日、義央は将軍宣下の謝使として
12月、酒井忠清は大老職を免ぜられ、翌天和元年5月に没した(享年58)。
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