第9話 義央、領国・三河国吉良荘を訪問





 寛文5年、将軍の紅葉山東照宮参詣の折り、25歳の義央は義冬の名代として初めて御簾みすをあげる大役を果たした。


 同じ年、弟・義叔よしすえが従五位下因幡守に叙任され、久しく絶家していた東条吉良家を再興した。


 寛文8年3月25日、父・義冬が死去(享年62)。

 同年7月8日、義央の家督相続が正式に許されたが、そのお礼として義冬の遺品から土佐光信の絵巻を将軍に献上した義央は、当時の贈答の慣習をことのほか大切にした父を見倣い、以降、老中などへの付け届けをさらに丁寧に行うようになる。


 同年8月25日、6歳の喜平次は将軍家綱に初御目見えを果たし、登城には義央が同伴した。翌26日、桜田邸の能興業で喜平次は「船弁慶」のシテを演じた。


 9月15日、富子は3女・阿久利(女子の止め名)を出産した。


 義央の代になってますます華美を極める一方の吉良家の買掛金は6,000両に達し、

「高家筆頭という立場上、ある程度の羽振りの良さは、どうしても必要なのです。いわば必要悪と申しましょうか。義母上さま、どうかそのあたりをご理解いただければありがたく……」拝み倒された上杉家が毎年1,000両ずつ肩代わりしていた。


 里帰りした富子にこぼす生善院の愚痴は決まっていた。


「そなたの化粧料5,000石に、義央どのに遣わした分が1,000石で、計6,000石。上杉から付けてやった藩士22人の知行扶持まで、依然としてわが上杉が援助しておるのじゃぞ。なのに、そのうえ、たびたびの無心とは、そなたの婿どのは、いったいぜんたい何を考えておられるやら」そう責められても富子にもどうしようもない。


 ――吉良家との縁組みに一番熱心だったのは、ほかならぬ母上だったはず。


 言い返したい気持ちは、黙って飲み込んでおいた。


 だが、生善院の嘆息をさらに増やす出来事が発生した。捗々しくない取立に業を煮やして町奉行所へ訴え出た呉服屋伊兵衛をはじめ、さがみ屋又兵衛、薪屋庄兵衛らからの買掛金3,200両までを、さらに上杉家が立て替える羽目に立ち至ったのだ。


 寛文12年12月28日、保科肥後守正之が没した(享年63)。


 援姫誤毒殺一件以来、下手人として顧みられなかった継室・於万ノ方は、当初の座敷牢こそ解放されたものの、夫のそばに侍ることも許されず、肩身の狭い暮らしを強いられていた。


 同じ家刀自として相通ずるものを感じていたらしい生善院は、「上杉をお救けくださったお方にかようなことを申し上げてはなんじゃが、大方の信濃人と同じく、肥後守さまもよくよく頑迷なお人と見える。長年連れ添った奥方がいかような人物かもわからぬとは、世間のうわさがどうあれ、蚤のごとく肝っ玉の小さきお人よ」娘の富子にこぼす語り口に、歯ぎしりせんばかりの口惜しさを滲ませた。


 延宝元年(1673)、33歳になった義央は、名跡を継いで以来初めて領国の三河国吉良荘を訪問した。


 風光明美で温暖な吉良荘には岡山、横須賀、饗場、宮迫、乙川、小山田、鳥羽の7か村があったが、その多くが飛び地で、なだらかな海に連なる三河湾の海岸には塩田が広がり、蜜柑や茶の生産も盛んだった。


 3か所の陣屋を拠点にした義央は、いつもの贅沢を見せず、ふだん使いの駄馬「赤馬」で領内をくまなくまわり、下流に洪水被害をもたらす鎧が淵の治水などを即座に命じたので、領民は温かく飾らない人柄を慕い、だれからともなく義央は、


 ――赤馬さま。


 と呼ばれるようになった。


 この年、御三家のひとつ、紀伊中納言光貞卿の娘・栄姫(弟はのちに5代将軍・綱吉の娘婿となる紀伊中将綱教)と喜平次の縁組が決定した。


 翌2年4月18日、長年、喜平次の傅役をつとめてきた竹俣義秀が没した。

 傅役を引き受けた当初の約束どおり、上杉・吉良両家のだれにも口を挟ませず、わが手ひとつで育て上げたも同然の喜平次への遺言は、真心あふれるものだった。


 ――甘言をささやく佞臣ねいしんには、とくにご注意ください。決して心を許してはなりません。敢えて耳に痛いことを進言してくれる者こそが真の忠臣というものです。若さまがご尊崇申し上げる謙信公の精神を堅く守り、家老らに仕置きの権威を奪われないよう、くれぐれもご留意なさいませ。


 翌延宝3年2月29日、13歳になった喜平次は元服した。

 家綱将軍の一字をもらいうけて弾正大弼綱憲だんじょうだいひつつなのりを名乗り、従四位下侍従に叙任された。同じ日、義央と富子夫妻の長女・鶴子(喜平次の姉)が、喜平次の養女として島津綱貴(77万石)の継室に輿入れしている。


 同5年9月9日、37歳の義央と34歳の富子に4女・菊子(清姫)が誕生した。


「もはや男子誕生の望みはお捨てになるべきかと存じます。ここはひとつご側室を……」用人の小林平八郎らの進言を「心配無用じゃ。跡取りが生まれなければ、そのときはそのとき、打つ手はいくらでもある」義央はきっぱりと退けた。

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