第8話 上杉綱勝の急死で吉良三郎を養子に



 

 

 寛文3年10月28日、富子は待望の男子・三郎を出産した。


 ――三郎をぜひとも、わが上杉家の仮養子に迎えたい。


 吉良家に強い働きかけを行ったのは、上杉を仕切る生善院(富子の母)だった。


 結婚から4年を経たいまなお子どもに恵まれない、米沢の綱勝と継室の富子夫妻もこれを了承せざるを得なかった。翌4年1月18日、生後3か月の三郎を上杉家の桜田邸に迎えた生善院は、にぎやかな迎春の宴を催した。同年4月12日、国もとの米沢から江戸へ出て来た綱勝は、自分の仮養子となった甥の三郎と初対面を果たし、5月22日には家綱将軍に拝謁して30万石の領地判物を賜っている。


 その綱勝にとつぜん、信じがたい異変が起きたのは同年閏5月1日のこと。

 江戸城からの帰途、吉良邸に立ち寄った綱勝は、義冬、義央、妹・富子、姪や甥と酒食を共にし、夕刻には茶事でもてなされて、機嫌よく桜田邸へ帰って行った。


 ところが、その夜半、はげしい嘔吐と腹痛が始まった。

 駆けつけて来た御典医も「これは!」と恐懼きょうくするほど腹部が異常に腫れあがり、昼夜を問わず七転八倒して悶え苦しんでいたが、6日の夜には手足が冷え脈が乱れ始め、7日卯の刻(午前6時頃)、あっけなく息を引き取った(享年27)。


 発病の経緯が経緯だっただけに、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの吉良家を妬む世間は綱勝の義弟・義央による「上杉家乗っ取り説」をしきりに取り沙汰したがった。


 だが、幼少時より蒲柳の質だった綱勝はこれまでも大病を繰り返していたので、米沢からの長旅や、不慣れな政務の疲労による罹患というところに落ち着いたが、発病の前夜、自宅でもてなした吉良家の人びと、とりわけ妹の富子は、義姉・援姫の一件を思い起こさずにいられない兄の悶死に、いたたまれない気持ちだった。


 とつぜんの藩主の死は、上杉家の家中に大混乱をもたらせた。

 なにはともあれ、つぎの藩主を決め、一刻も早く幕府に届け出ねばならない。


「この際、亡き援姫さまの弟君・保科正純さまを養嗣子ようししに迎えられるのが本来の筋かと存じます」強硬に主張したのは、亡き綱勝の寵臣・福王寺八弥信繁だった。


 主の綱勝より2歳下で、衆道しゅどう関係も取り沙汰されていた福王寺八弥信繁は、父親のような年嵩の重臣たちに囲まれた綱勝にとっては、家臣というより気心の知れた親友のような存在だったが、類い稀な容色と才能を見込まれ、小姓から一気に側近に成り上がった信繁を妬む者も少なくなかった。


 だが、保科正純案は縁戚とはいえ他家の血を入れたくない生善院や重臣らに反対され、追い打ちをかけるような保科正之の辞退で、信繁の独り相撲に終わった。


 かくて傷心の福王寺八弥信繁は、いまなお深く敬愛してやまない亡き主君・綱勝の遺骨を奉じて高野山へのぼり、幻智と名乗って3年の喪に服すことになった。


 となると、後継ぎの選択肢は限られて来る。


「いまとなっては、今日を予想したかのような仮養子の手筈だったことになろう。富子、な、頼みます。どうかこの母を助けると思って、三郎を、上杉におくれ」


 再三にわたり生母に懇願された富子は、まだ襁褓むつきもとれていない赤子の三郎を手放すことをついに決意し、「上杉の繁栄は吉良ご当家のご繁栄。僭越ながら、上杉なくして吉良家の未来はございませぬ。両家ともに生き延びるために、三郎を上杉の養子にやってくださいませ」家中を懸命に説得してまわった。


 富子に言われるまでもなく、上杉家の後ろ盾がなくなれば、吉良家の財政も危うくなる。夫・義央、舅・義冬をはじめ、主だった家臣も承諾せざるを得なかった。


 かくて6月5日、吉良三郎あらため喜平次景倫きへいじかげともによる、上杉家の相続が決定した。


 表向きはすんなり運んだように見えるが、その裏に亡き綱勝の舅・保科正之による酒井忠清老中への強力な働きかけがあったことは、だれの目にも明らかだった。


 生善院たっての要請で行われた先の仮養子の縁組みは、あくまでも吉良と上杉、両家の内々のことであり、まだ幕府には正式な末期養子として届けていなかった。


 であれば、本来なら、藩主の急逝と同時にお家お取り潰しとなって当然だった。


 だが、前将軍の異母弟である保科正之の懇願を受けた幕府は、羽州うしゅう米沢30万石を廃絶のうえ、あらためて米沢15万石に半知(半分に削減)という苦肉の結着をつけることにしたのである。


 ――まことにありがたき幸せ。


 関係者一同、打ち揃って平伏すべき場面ではある。

 けれども、ことはそう簡単な話ではなかった。


 平たく言えば、ふつうなら廃藩になるところを格別のご高配だったとはいえ、5,000余人の家臣の俸禄を一率に半減してなんとか当座を凌ぐしかない上杉家仕置きの重責が、わずか生後7か月の赤子の双肩に担われることになったのである。


 当然だが、乳飲み子の三郎を養子に出した富子の心配はひと通りではなかった。


 7月11日、幼い藩主を合議制で補佐することになった長尾権四郎景光ら5人の老臣は、藩の将来を託す喜平次の傅役を全員一致で保科勘解由有澄ほしなかげゆありずみに決定した。


 だが、有澄は固辞した。


「そこを押してお願い申す」

「人品骨柄にすぐれた貴殿以外には考えられませぬ」

「上杉家の将来のために、ひと肌脱いでくださらぬか」


 それぞれ言葉を尽くしての再三の要請に、有澄は条件を出して来た。


 ――義冬さま、義央さま、富子さま、そして生善院さまは、喜平次さまの教育に関して、いっさいのお口出しご無用にございます。


 うるさ型4人の確約を取りつけておき、大恩ある保科正之との同姓を憚って竹俣勘解由義秀たけまたかげゆよしひでと改名した有澄は、以後、肉親にもまさる深い情愛を喜平次の養育にかたむけ、12年間の傅役を全うすることになった。


 気骨のある武士・竹俣勘解由義秀は、幼い藩主に謙信・景勝時代、ことに神仏を信仰し学問を愛した謙信の事績を鑑とするよう繰り返し語って聞かせるとともに、自身でも20数年がかりで『北越武鑑』を編纂した。その一方で、江戸城の老中に掛け合い、もとの30万石への復権をたびたび嘆願するなど誠意を尽くしている。


 義秀との約束どおり、生母・富子はかげながら息子の成長を見守る立場を貫き、ときに生善院の横紙破りを耳にすると、書簡を送ってたしなめることもあった。

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