不幸の絶頂

myz

タツミくんのこと

 生徒たちから回収した進路希望調査票を数えていると、その中にタツミくんのものだけが入っていないのに気づいて、わたしは、おや? と思う。

 これが“学年きってのトリックスター”、“成績優良素行不良児”であるサクラさんのものだったりしたらわたしも得心がいく(ちなみに彼女の調査票は出ているが、第一志望は“お花屋さん”だった。完全に大人をナメている)のだが、なにしろタツミくんだ。

 念のためもう一度最初から数え直してみる。しかしやはり、タツミくんのものだけがない。

 わたしは怪訝な顔になる。

 タツミくんは都内有数の進学校である我が校においても、さらに特別な生徒だった。

 成績は常に学年トップ――どころか全国模試でも首位の座を一度も明け渡したことがない。その上文武両道を地で行く勢いで、特定の部には所属していないがあらゆるスポーツ部から助っ人として引っ張りダコ。どんな競技にも対応する変幻自在の立ち回りで出場した試合は必ず勝利に導く。おまけに1年生のころから生徒会に入り、書記、副会長を経て、3年生のいまは生徒会長を務め、学校中からの信望篤い、という、マンガの中から抜け出て来たかのような人物なのだ。

 つまるところ、“超”のつく優等生。

 まさに、末は博士か大臣か――彼なら加えて、いまからプロ野球選手やプロサッカー選手を目指したって易々とそうなってしまうに違いない。

 そんな彼の調査票だけがない(もちろん、彼はこれまで提出物の締切を破ったことなど一度もない)。

 わたしの眉間にしわが寄る。

 たまたま他の先生たちは部活の指導や所用で皆出払っていて、夕焼けの光が差し込む職員室の中はガランとしていた。

 この異常事態に相談できる人もいない。

 ――もしかして、タツミくん、まだ校内に残っていたりしないだろうか。

 なんとなくそう思って、わたしは空っぽの職員室を後にする。

 とりあえず教室に行ってみようと、いそいそと階段を上がり、担任するクラスの教室の、開けっ放しの引き戸の陰からなぜだかおそるおそる中を覗き込む。

 するとそこに、タツミくんはいた。

 最後列窓際の、いわゆる“不良の特等席”。

 彼には似つかわしくないいつものその席に座って、彼は机の上に両肘をつき、顔だけ窓の外に向けて、夕映えの景色をじっと眺めている風だった。

「ああ、先生」

 しかし、わたしが一歩教室の中に足を踏み入れると、まるでそれをあらかじめ察知していたかのごとく、彼はわたしの方に顔を振り向け、ニコリと微笑みながら言った。

「おつかれさまです」

「どしたの、タツミくん? なんで残ってるの?」

「ちょっと、先生にご相談したいことがあって……」

 私が彼の席に近づきながら問いかけると、彼の笑顔がちょっと困ったような苦笑いの顔になる。

「ここにいたら、会えるんじゃないかと思って」

 やはりわたしが来るのを分かっていたかのような、不思議なことを言う。

「相談? なに? 聞かせてくれる?」

 わたしは彼の隣の席の椅子を勝手に拝借して、彼の方に向くように横座りに腰掛ける。

「もしかして、進路の紙のこと?」

「はい」

 わたしがそう切り出すと、彼は困った笑顔のまま頷く。

「ちょっと先生に話を聞いてほしくて」

「なに? わたしにできることなら力になるよ」

「じゃあ」

 わたしが前のめりに答えると、彼が椅子ごとわたしの方に向き直る。

「信じてもらえないかもしれないんですけど……」

 暮色を背負った彼の顔は薄ぼんやりとした翳を纏って、ふいにわたしは見ず知らずの人が忽然と目の前に現れたかのような錯覚に陥る。その陰翳の中で、両の瞳がくろぐろと黒い。

「ぼく、これまで一度も成功したことがないんです」

 そう切り出して、わたしが呆気にとられるまま、わたしの知らない人の顔をしたタツミくんは、ゆっくりと語り始めた――


 意味がわからない、って顔されてますよね。

 いえ、わかります。

 ぼくだって、ぼくみたいなのがこんなこと言い出したら、なに言ってんだコイツ、って思いますから。ぼくって――自分でこう言うのはヘンですけど――優等生、じゃないですか。一応スポーツもできるし、成功しまくってるじゃん、って、ふつうはそう思われると思うんです。

 でも、ぼく、小学校の中学年ぐらいまでは、どうしようもない落ち零れだったんです。

 あ、また、信じられない、って思いましたよね。

 でも、本当なんです。

 もう、“超”がつく劣等生。

 授業はなにをやってるのかなんにもわけがわからなかったですし、だから、テストもいつも0点で……いつも居残りさせられてましたよ。先生は根気強く教えてくれましたけど、でも、わからなかった。

 運動もぜんぜんできませんでした。

 みんなでオニごっこをやると、ぼくがオニになって、それからだれも捕まえられないから、だんだん誘われなくなって……。

 鉄棒とか跳び箱とかも酷かったな。みんながなんでそんなに自由に自分の体を動かせるのか、ぼくには理解ができなかった……。

 それが、小学校に始まった話でもないんですよ。

 保育園に通ってたときも同じような感じで、だから、友達もひとりもいなかったです。

 言葉を覚えるのも大分遅かったみたいで、母は、なにか障碍でもあるんじゃないか、って心配して、そういうのの専門の先生にぼくを診せに行ったりもしたみたいです。

 だけど、診断結果は異常なし。

 結局ぼくはただ極端にできの悪い子どもだっていうことで――それでも辛抱強くぼくに向き合ってくれた父と母には感謝しかないです――でも、それでぼくがどうしようもない出来損ないだってことは変わらないわけじゃないですか。

 ただ、勘違いしてもらいたくないのは、べつにぼくは怠けてたつもりは一切なかったです。

 自分では一生懸命やってるつもりでした、いつも。

 教科書もわからないなりにテストの前には何度も読み返して、今度こそは1点でも2点でも取って、お母さんによろこんでもらいたい、って、一生懸命……でも、結果はいつも、0点、0点、0点……。

 それで、どうしていつもぼくはこんななんだろう、って、どうして何もかもがうまくいかないんだろう、って考えてたら、なんだか頭にきて、ヤケになっちゃったんですよね。

 どうせ一生懸命やっても0点なんだから、もうメチャクチャにやってやろう、って。

 テストのとき、自分が思ったのとはぜんぜん真逆のデタラメな解答をしてやったんです。だって、真面目にやってもどうせ0点なんですよ。だったら真面目にやってもバカらしいじゃないですか。

 そのときはちょっと、せいせいしましたね。……だけど、返ってきたテストを見て、ぼくは愕然としました。

 100点でした。

 適当に、デタラメにやったはずのテストが、100点。

 先生はとてもほめてくれました。やればできるじゃないか、って。

 お母さんもとてもよろこんでくれて……もう、涙を流すくらい。その日の晩ごはんはぼくの好きなハンバーグを作ってくれて、お祝いだって言って。

 だけどぼくは――ただただ、気持ち悪かったです。

 気味が悪くてどうしようもなかった。

 だってそうじゃないですか。あんなに一生懸命、真面目に答えたテストはずうっと0点だったのに、デタラメを書いたテストが、100点。

 わけがわからなかったです。

 でも、もしかして――とも思いました。

 もしかしたら、ほんとにぼくは勉強ができるようになったのかもしれない。

 そう思って、次のテストにはそれまででも一番、一生懸命勉強して、臨みました。

 そうして返ってきたテストは――0点。

 目の前がまっくらになるみたいでした。

 あのときのお母さんの落胆した顔は、忘れられません。

 もうそんな顔が見たくなくて、だからぼくは、その次のテストはまた、デタラメに解答しました。

 そうしたらやっぱり、100点。

 お母さんもまた笑ってくれました。

 そういうことがあって、ぼくはこう考えるようになったんです。

 ぼくの思ったことはぜんぶ間違ってるんだ、って。

 ぼくはぜんぶ逆にすることにしました。

 右だと思ったら左、Aだと思ったらBにすることにしました。

 すると、ぜんぶうまくいきました。

 当たり前ですよね、ぜんぶ間違ってるなら、ぜんぶそれと逆のことをやれば、ぜんぶ正しいことになるんですから。

 テストはぜんぶ100点。

 スポーツは、もっと、こう、瞬間的っていうか、瞬発力がいるじゃないですか、判断に。だから慣れるまでは難しかったです。でも、とにかく、自分が思ったことと逆に動け、って思って動くと、うまくいっちゃうんですよ、これも。

 友達もたくさん増えました。ぼく、ほんとはべつにそんなキャラじゃないのに、思い切ってギャグとか言ってみたりして、そうしたらみんな笑ってくれる。

 これは先生だから言うんですけど、タバコもお酒もやったことありますよ。そうしたら、ヤンキーっていうか、不良の子なんかも、なんだおまえやるじゃねえか、みたいに、ヘンに気に入られちゃったりして。

 とにかく、いろんなことがうまく回っていくんです。ぜんぶが、すごくいい感じに。

 ……でも、ぼくの心はどうなるんでしょう。

 べつにぼくはそんなことしたいわけじゃないんですよ。

 この学校だって――ぼく、ほんとは絵本作家になりたいんですよ。保育園のころ、みんなから離れて、ひとりで部屋の隅で読んでる絵本だけがぼくの救いでした。だから、高校も美術コースのあるO高にほんとは入りたかったんです。

 でも、それは間違ってるんです。絶対にうまくいかないんです。ぼくがそう思ってるから。

 だから、一番行きたくなかった、進学校のここにしました。

 そうしたら、みんなよろこんでくれるんです。お母さんも笑ってくれるんです。

 先生、ぼくはどうしたらいいんでしょう。

 教えてくれませんか、先生。


 ――独白を終えたタツミくんの顔は、夕日の残光を背負って深い陰の中に沈んでいる。

 わたしは、彼にどう答えたらいいのか、わからなかった。

 彼の話はあまりにも荒唐無稽で、ありえないものだったけれど、それを語る彼の声色はとても切実で、わたしに安易に答えることを妨げさせた。

 そうしてわたしがなにも口にできず、固まっていると――ふいにタツミくんの影が肩を震わせた。

「はは、ははははは!」

 高らかに笑い声を上げると、まだ収まりがつかないようにくつくつと喉を鳴らす。

「すみません、あんまり先生が真剣に聞いてくれるものだから……」

 目尻の涙を拭いながら、タツミくんが言う。

 わたしは唖然としてそれを見ている。

「先生、いつも一生懸命だから、ちょっとからかってみたくなっただけですよ」

 ほら、コレですよね、とタツミくんが机のトレイから紙ピラを取り出して、こちらに差し出してくる。

 それはまさにわたしが探していた進路希望調査票で、受け取って確かめると、国内の難関大学学部のトップ3が上から三つキレイに並んでいる。

「……も、もう! 大人をからかうんじゃないわよ!」

「はは、すみません」

 そう言うタツミくんは、もう完全にいつものタツミくんで、わたしはさっきの出来事はなにかの錯覚だったのではないかと思うぐらいだった。

「それじゃあ、ぼく、帰りますね」

 立ち上がり、通学リュックを背負うと、タツミくんは折り目正しくお辞儀をする。

「おつかれさまです。また明日、先生」

「う、うん、また明日」

 わたしがぎこちなく返事をすると、タツミくんはニコリと微笑みを残して、教室を去って行った。

 わたしはしばらくじっと、手の中の調査票を見つめていた。


 ――それから、十数年が過ぎた。

 いま、テレビの中ではまだあどけない面立ちを残したタツミくんが、弱冠30歳でノーベル物理学賞を獲った天才として、流暢な英語でインタビューに答えている。

 わたしは、あの日の夕焼けを背負ったタツミくんのくろぐろとした瞳を思い出している。

 ねえ、タツミくん。

 これは本当にあなたが望んだことなのですか?

 あなたはいま、幸せなのですか?

 問いに答える者はいない。

 画面の中の彼は、如才ない笑みを浮かべたままだった。

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