クラゲ生活

雨瀬くらげ

クラゲ生活

夜の空から世界を眺めるのが最近の僕の趣味だ。


 こうしてみると、僕たちの生活がどれだけちっぽけなものなのかわかってしまって、とても嫌になる。毎日学校へ行って、死に物狂いで勉強をして、夢を掴もうとして。そんな人が大勢いて、僕の努力は社会の渦に溶けていく。


 それが嫌になって、一度逃げたから僕はクラゲになってしまったのかもしれない。


 いや、今の言い方だと語弊が生まれるだろう。僕はいつでも好きな時にクラゲになれるようになったのだ。しかも水中じゃなくても活動でき、空中浮遊ができる。ある日突然そんなクラゲになれるようになったのだ。初めは自分の体に何が起きているのかわからなくて戸惑った。しかし、慣れてみれば大したことはない。今は無理なくクラゲ生活を送ることが出来ている。


 僕は夜景を眺めるのをやめ、飛び立ったマンションの最上階へ戻る。ベランダに降り立つと同時に人間の姿へ戻った。このマンションはクラゲへ変化する瞬間がバレにくいので良い。


 地上二〇階にある部屋のひとつ。そこは、かつて僕の家の隣に住んでいた塩田姉さんの部屋だった。彼女は幼い頃から僕の遊び相手をしてくれていて、両親を亡くしてからも、僕の事を気にかけてくれている。窓を開けて中に入ると、電気スタンドの黄色い明りがタンクトップから飛び出ている肌を柔らかく照らす。彼女は缶ビールを飲んでおり、風呂上りなのか、濡れた長い黒髪は結ばずに下ろしていた。ちなみに僕がクラゲになれることを知っているのは彼女と一人の幼馴染だけである。


「塩田姉さん、今日もありがと」


 飲み終わった缶をゴミ箱へ投げ捨てながら、塩田姉さんは立ち上がる。


「あんたがまた死ぬんじゃないかと、毎回冷や冷やするよ……」

「またってまだ一度も死んでないだろ」

「そうだけどさ」


 そのまま、彼女は棚の上にある写真立てを取る。中にある写真には塩田姉さんと一人の男性の笑顔があった。その笑顔はとても幸せそうな笑顔で、今の塩田姉さんとはまったく違った。


「……あんたは、こんな男みたいにならないでよ。もしそんなことあったら、私、あんたのお母さんに申し訳ないから」

「だから、それは大丈夫だって」


 塩田姉さんの恋人、月島さんは一年前に失踪した。突然。前触れもなく。周囲では死んだのではないかと言われているが、彼女はそれを認めない。今でも月島さんの帰りを待っていることを、僕は知っている。知っているから、彼女に会わずにはいられないのだ。彼女はたった一度、待つのを諦めたことがある。その時、僕が今降り立ったベランダの縁に立っていた。僕はたまたま、彼女の家を訪れて、僕が止めた。彼女が僕の自殺を止めた時と同じ言葉をかけて止めた。


「塩田姉さんには生きていてほしい」


 僕らの関係は複雑だ。


 僕の父は僕が生まれた時に、別の女を作って母と別れ、母も五年前に過労で死んだ。そのショックもあったし、僕が当時から社会に溶け込むのに恐怖を覚えたこともあって、部屋で練炭を焚いて昼寝をした。十五分も経たないうちに、昼ごはんを作って来てくれた塩田姉さんが練炭に気づいて、すぐに一一九番をしてくれたのだ。それから約一か月後、月島さんが失踪。さらに一か月後、塩田姉さんは自殺を図った。


 僕も、塩田姉さんも大切なものを失って、上手く生きられなかった。社会からドロップアウトしかけているのに、お互いがお互いの命綱となっている。僕らはそういう関係だ。


「あの男とあんたは似たところがあるから、あんたもいなくなってしまいそうで私は怖いんだよ」

「僕は大丈夫だよ」


 僕……魚沼航は塩田姉さんの部屋を出て、今は僕一人しか住んでいない空っぽの我が家へ戻った。



 

 家に置きっぱなしにしていたスマホには通知がたくさん届いていた。その大半がTwitterのツイート通知だったが、LINEも一件来ていた。


『航! せっかくの夏休みなんだし、明日遊びに行こう!』


 相手は中学くらいからの友達の月島透子だった。塩田姉さんの恋人の月島さんの妹でもある。だから、中学に入る前から彼女の事は知っていた。塩田姉さんと月島さんとの四人で遊んだことも何度かある。そして、彼女が僕のクラゲの事を知るもう一人の人物だ。特別活発というわけでもないのだが、一般的に見て明るいと言えるだろう。というか、「頼りになる」という印象が強い。よく周りを見ているし、よく相談にも乗ってくれる。強がりなのかはわからないが、兄を失ってもその姿勢に変化はなかった。そんな人だから、彼女には恋人がいたはずだった。夏休みなら恋人と旅行にでも行けばいいのに、と断る理由を考えてみる。こんなに暑いのに外に出たくない。


 LINEを返すと、すぐに返信が来た。暇なのか。


『いいから行こ!』


 意味がわからない。既読をつけてしまったが、返信が面倒くさくなって僕はそのままベッドに倒れて寝た。


 翌朝はインターホンの音で目が覚めた。続けて、LINEの着信音が呪いにかかったかの如く連続で鳴る。怖いぞこれ。


 迷惑ピンポンの犯人はわかっているので、少し待たせても構わないと、僕はパジャマから着替えてから玄関に向かった。扉を開けると、よくわからない文字がプリントされたティーシャツを着ている透子が立っていた。


「やほ」

「聞こえてるから、何度もピンポンしてんじゃねえよ。あと、スタ爆もやめろ」

「ごめんごめん」


 と、屈託のない笑みを見せてくる。こう見ると、透子はわりと可愛いので性格も顔も良いのなら、そりゃ彼氏もできるだろうなんてことを思った。


「さ、行くよ」

「は? どこに」

「水族館」


 冗談じゃないと思ったが、僕は強制連行された。抵抗する暇さえ与えられなかったのだが。透子は「どうせ家にいても一人でしょ」と、僕の手を取った。これは僕の家の事情を知っている彼女の優しさなのだろうか。一人じゃ寂しいだろうから、遊んでやるというような。しかし、彼女の真意はわからない。


「てか、何で水族館」


 バスに乗って、僕は彼女に尋ねる。透子はスマホを取り出し、僕に写真を見せて来た。


「夏のクラゲフェスティバル?」


 僕は写真に書かれている文面を読み上げた。


「そう。それが見たいの」


「クラゲが見たいだけなら、わざわざ水族館なんて行かずに、僕に言ってくれればいいのに」

「いや、航のはいいの」

「……それ、どういう意味」


 目的地である水族館に着くと、夏休みなのもあり、人の数が尋常じゃなかった。人気バンドのライブ会場だと言われても疑わないだろう。建物の外まで列ができており、中に入れるまで何時間かかるかわからない。しかも炎天下の中で待たなければならない。暑さで体が溶けるどころか蒸発してしまいそうだ。しかし、列はスムーズに進み、三十分足らずで中に入ることが出来た。


「航! クラフェスこっちだって!」


 大量の人を避けながら、透子の背中を追う。クラゲフェスティバルは通常の展示とは別にホールのような場所で行われているようだった。施設内の端にあるためか、はたまたクラゲの人気がないためか、ホールは人の数が少なかった。後者が理由だったら少し悲しい。


「おお! たくさんクラゲいる!」

「そりゃ、クラゲがメインだからな」


 そうは言っても透子の言う通りで、思ったよりもたくさんのクラゲがいた。カブトクラゲ、ムラサキカムリクラゲなどなど、本当に色んな種類のクラゲがある。赤い色、青い色、そして発光するもの。クラゲの楽園とでも言おうか。そんな空間が目の前に広がっていた。


 僕と違い、彼らは水槽の中で懸命に生きていた。生きる力を感じるのだ。たとえ、狭い水槽でも「俺は生きるぞ」とでも言うように泳いでいる。


「あ、私が見たかったやつだ」


 透子がある水槽の前に座り込む。僕も彼女の隣に行き、水槽を覗き込む。


「ベニクラゲって言うんだよ。年をとっても若返る事ができるから、食べられない限り死なないらしいよ」


 ベニクラゲと言われたそいつは人差し指の関節くらいの大きさしく、内部の赤い器官が透けて見えていた。


 不老不死、か。


「可哀想に。死にたくても死ねないなんて」


 無意識に出た言葉だった。その言葉が誰かを傷つけてしまうなんて思いもしなかった。ただ、本音が漏れただけなのに。


 透子は目に涙を浮かべながら、僕の方を見ていた。


「今の、何?」


 僕はどう答えればいいかわからず、黙り込んでしまう。


「航、本当はまだ死にたいと思ってるの?」


 死にたい、とは思っていない。しかし、生きたいとは思えなかった。両親を失い、社会に恐怖を覚え、上手く生きられない。生き甲斐を感じない。フラフラと無気力に今日まで生きていた。それはまるでクラゲのように。


「私、航にまで消えてほしくないよ?」


 透子の目に溜まっていた涙が頬に流れる。僕は、誰かを失うことの怖さをわかっているつもりだった。それなのに、兄を失った子にあんな事を言ってしまうなんて。どう謝ればいいのかわからない。鞄からハンカチを取り出し、その涙を拭う。すると、彼女は僕のハンカチを持っている手に触れた。


「あ、ごめん。でもまだ一回も使ってないから綺麗だよ」

「私ね、昨日フラれちゃったの。結構悲しかったんだけど、ずっとあいつの事好きでいるわけにもいかないからさ。航とパーっと遊ぼうって思ったの」


 彼女は僕のハンカチで涙を拭きながら、立ち上がった。


「航の事だから、嫌がるかなって思ったけど、ちゃんと付き合ってくれてありがとね」

「僕は嫌がったよ」

「でも、来てくれたじゃん。航のそういう所好きだよ」


 返されたハンカチは、彼女の涙で少し湿っていた。


「あいつの事なんて忘れて前に進まなきゃね。そう思えるのは航がいてくれるおかげだよ」


 彼女はホールの出口へと歩いて行った。その後ろ姿はとても強く見えた。僕はまだ立ち上がることができずに、もう一度ベニクラゲを見る。


 僕だって、このままじゃ駄目なのはわかってるんだよ。



 

せっかく水族館に来たので、一応他の魚たちも見た。それから、近くのショッピングモールで透子の買い物に付き合い、ご飯を済ませて外に出ると、もう空は暗くなっていた。気温は昼間に比べ下がっているものの、やはりまだ暑い。


満月が夜空に浮かんでいて、透子の案で海岸に行くことにした。


 夜なので、さすがに人はおらず、潮の匂いのする風が僕らに吹きつけ気持ちが良い。


「海と月っていう組み合わせ、いいよね。何か情緒的」


 テトラポッドの上に座る透子は唐突にそんな事を呟いた。 


透子らしくない言い方で、僕は彼女が何を言いたいのかわからず、「どういう意味?」と目で彼女に尋ねる。


彼女は白い前歯を見せながら、


「気にしないで。泳ごうよ」


 と、波打ち際に走り出した。走りながら靴を脱ぎ、服を着たまま波に飛び込む。


「まじで言ってんの?」


 一応、僕も彼女の元に向かう。しかし、泳ぐ気はなかった。夜の海は危ないという、一般的な考えが頭に浮かんだからだ。透子は僕のそんな心配を知らない。下着が透けて見えることも気にせずに、服を濡らしながらはしゃいでいた。


「うひょっお! 航! やばい! すごい水冷たい!」

「お前さ、服どうすんの」

「夏だし、乾くでしょ」

「乾く前に風邪ひくよ」

「引いてもいいよ」


 何考えてるんだこいつ。


 突然、彼女が僕の手を掴み引き寄せる。僕は「うわっ」と情けない声を上げながら、彼女と共に波の中に倒れた。海水が一気に服に浸透してくる。


「冷たっ!」


 慌てて砂浜に上がり、ティーシャツを脱いで絞った。


「ちょっと、航、急に脱がないで、セクハラ」


 と言いながらも、彼女は笑っていた。笑い事じゃねえよ、と思ったが、濡れた体は案外涼しいものだった。夏の夜は暑いし、ちょっとくらいなら風邪もひかないかもしれない。


 一瞬だけ、泳いでもいいかもしれない、と思ってしまう。


 ティーシャツを砂浜に投げ、助走をつけて、思いっきり波に飛び込む。大きな飛沫が上がり、透子に降りかかった。


「うわ! すごい水かかったんだけど!」

「お返しだよ!」


 僕は沖に向かって泳ぎ始めた。透子も僕の後ろから追いかけて来たので、僕は加速する。その勢いのままクラゲに変身し、潜水する。そして、水面から飛び出て大ジャンプをした。水飛沫と共に弧を描いた半透明の体が月明かりに照らされる。


 夏の海がこんなに気持ちいいなんて知らなかった。海水浴に行った記憶がないから、夏の海に入るのはこれが初めてかもしれない。


 水面の満月が大きく揺れる。大波が僕を飲み込んだ。水面に上がろうとしたけど、上手く泳げずに、沈むだけだった。透子が僕の名を呼ぶ声が聞こえる。しかし、その声もだんだん遠のいていった。満月のシルエットもだんだん小さくなる。


 僕は足掻くのをやめた。


 もうよかった。最後に夏の海を味わえた。後悔なんてない。塩田姉さんや透子、怒るかもな。でも、死んだらそんなもの関係ないしな。


 いや、死んじゃ駄目だ。


『おい』


 聞き覚えのある声が聞こえた。誰の声かは思い出せないが、脳が覚えている声。その声に反応して目を開けると、光り輝く大きなクラゲが目の前を通った。さらによく見ると、大量に黄色く光るクラゲが周りにいた。その光は夜空に浮かぶ満月のように美しかった。僕は星空の真ん中にいるような気分になる。今までに見たことがない、とても幻想的な光景だ。ずっと見ていたいと思える景色だった。


 そのクラゲの群れがある方向へ泳ぎ出す。さっき目の前を通ったクラゲが僕を誘導するかのように僕の前を泳いだ。


 まだ君たちを見ていたい。僕はそう思って彼を追いかけて泳いだ。


 満月の形が見えてくる。だんだん海面に近づいているようだった。


 体が空中へと飛び出る。


 月と、海中の星空が見えた。


 僕は生きている。まだ、生きている。


 そのまま、砂浜に僕は落ちた。体は人間の状態に戻っており、起き上がると、目の前には泣いている透子と、彼女を抱きかかえながらスマホを持っている塩田姉さんがいた。


 二人もこちらに気づき、透子が僕の元へ走って来て、強く抱き着いて来た。彼女は大声を出しながらさらに泣く。


「航……生きてて良かった」


 塩田姉さんは、スマホに向かって「すみません、もう大丈夫です。戻ってきました」と言っていた。もしかしたら警察に電話をしていたのかもしれない。電話を終えた塩田姉さんも、僕らの方へ駆けてくる。


「あんた、女の子泣かせてんじゃないよ」


 と、僕の頭に拳を下す。わりと痛かった。どうやら、透子は僕の姿が見えなくなってすぐに塩田姉さんに連絡をしたらしい。それから、現場に着いた塩田姉さんが透子と合流して警察に電話をしている真っ最中だったようだ。


「ごめん」

「透子ちゃんに言え」


 そう言われて、確かに透子にまだ謝っていなかったことに気づく。僕は水族館での湿原の謝罪の意を込めて、


「ごめん」

「いいの……生きて戻って来てくれたからいいの」

 彼女は僕から離れ、ようやく涙を拭いた。

「あんた、よく戻ってこれたね」


 塩田姉さんが僕の頭を撫でる。今度は優しかった。


「光るクラゲが助けてくれたんだ」

「光るクラゲ?」

「うん」

「そうか……そうだったのか」


 なんと、次は塩田姉さんが泣き始めた。突然過ぎて意味がわからない。透子もなぜこのタイミングでとでも言いたげな顔で彼女の方を見ていた。


 塩田姉さんは手の平で涙を拭いながら海の方を見る。


「ありがとうな」


 微笑んでいるような月が、海岸を明るく照らしていた。




 塩田姉さんが走らせてきた車に向かい、僕と透子はバスタオルをもらって自分の体に巻く。そして、透子を送り届けた後、車の中は僕と塩田姉さんの二人だけになってしまった。


「塩田姉さん」


 と、僕は話しかける。


「僕、死なないから。もう、死ぬ気ないから」


 もう一度、あの光るクラゲの星空を見たい。そして、生きていれば他にもあのようなものを見れるかもしれない。そう思った。


「そう」


 塩田姉さんは前を見ながら、少し笑った。


「私もね、ちょっと頑張って生きてみようと思う」

「何かあったの?」

「あいつ、生きてるみたいだけど、帰って来れそうにないみたいだから、諦めなくちゃ」


 いつ月島さんが生きているとわかったのだろう。しかし、僕は彼女にそれは尋ねなかった。


 僕と彼女が踏み出した一歩にそれは必要ない。


 そう、ようやくの一歩なのだ。初めて足が生えた気分になれた。


 僕も塩田姉さんも透子も、ちゃんと大地を踏むことができている。


 僕はもう、クラゲじゃない。

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