正常な人がただそこにいる

崇期

手柴美術館にて



2020年12月11日。晴れ。


 福岡県は嘉麻かま市にある「手柴てしば美術館」というところに、金子広路重ひろじえの絵を見にきた。(1)


 広路重は、「幻想エッセイ」なる独自の世界を絵画で表現した知る人ぞ知る天才画家である。十数年前に一度、そしてこの新型ウイルスの脅威に疲弊した世の中に二度目のブームが巻き起こった。単に人々が自宅で暇を潰す口実をそこかしこに求めた結果の上のこととも思えたが、だからといって広路重である必要はないし、大物芸術家でさえ生誕何周年やらがなければ注目されないのに、数多の天才の中にほぼ埋もれているような画家に気まぐれな光が当たったのだ。


 とにかく、そんなこんなでコレクターの特設サイトを眺めていたら居ても立ってもいられなくなって、私の脳内のニッチ(壁の窪みを利用した収納などのスペース)に、彼の代表作『正常な人』がずっと掛かっているのも異常な芸術への執着とも思えるので、ここで本物を拝んでとりあえず渇きを潤しておくのが得策かと思った。


 私の家からそう遠くないところに存在していたのである。残念ながら、『正常な人』ではないけれど、『胃の中の動物が見る夢』が手柴美術館にあると聞いて、車を走らせること四十分。大人一人たった三百五十円、破格の値段で見られる夢であった。


 さて、作品だが。タイトルからして不穏。幻想エッセイと呼ばれている由縁はというと、絵には彼の姉やら兄やら実在の人物が描かれていて、物語があり、それが事実と大きく異なる、というわけなのだ。


 例えば『正常な人』は、真っ赤な壁が印象的な部屋に黒ずくめの兄が立っている絵で、失恋の傷が癒えるまで仮面をつけて暮らしていた兄──と説明したために、家庭を持ち銀行勤めをしていた実兄から激怒されたという話である。


 ほとんどすべての絵がそういう感じで、画家は家族にシカトされようが縁を切られかけようが、懲りることなく身内の嘘っぱちな恥を創作し絵に描き続けた。

 すごいエピソードとしては、大学時代の友人から「今度オレを描いたら殺してやる」と言われたこともあるらしい。作品としては残っていないけれど、身内以外も題材にしていたのか。ほんとに、広路重が私の知り合いじゃなくてよかった。他人だからクスクス笑って済ませられる。


『胃の中の〜』は彼の妻がモデル。生前そこまで評価されていなかった広路重だったが、この絵のエピソードは注目を浴びたんだとか。大きな鍋になにかわからない不気味な塊をいくつも投入している奥さん。その奥にテーブルに置かれた鹿の首があるので、鹿肉か? 広路重に子どもが産まれたばかりの頃に描かれていて、「子育てのために異常なまでに燃やされる母性がその偏執が見事に表現されている」というのが美術評論家のコメントだ。私には媚薬を手作りしている魔女にしか見えない。それに「胃の中の〜」と言っておきながら料理はできあがってもいない。なんとも不可思議な世界だ。でもそういうところに猛烈に惹きつけられる。

 

 この日、ほかにも様々な作品の息吹を吸収して、私の三百五十円が意に適ったりと体に染み渡っていくのを感じたのだけれども、私の心は金子広路重の重苦しいタッチと歪んだ身内愛が生んだ空気がずっとのしかかっていた。それを味わいたかったのだし、望んで浴びにいったにも関わらず取り払わなければならない気がしてきた。私だってあれこれ絵に描かれれば容易に腹を立てる自信がある凡人だ。美術館を後にすると、通りにあった加藤一二三ひふみの銅像の前に立ち、セブンイレブンで買ったコーヒーの湯気をしばらく燻らせていた。(2)


 その後、隣町の道の駅へ寄って大根などの野菜を買う。十数年前、最初の広路重ブームのときに私の周りではやったのは生の大根の丸かじり。これから家に帰って久しぶりにそれをやってみようか、と思っている。大根の辛みが得意じゃないので甘ければいいな、と願いながら……。そしてビールも飲んで、鍋を作るのだ。熱々の鍋がふさわしい、厳しい冷気が街に降りてきている。私の腹の中でもなんらかの夢が展開されることもあるのだろうか。(3)





(1)福岡県嘉麻市には美術館はあるでしょうが、「手柴美術館」は多分ありません。作者の創作です。また、金子広路重という画家も存在しません。

(2)福岡県嘉麻市には加藤一二三の銅像はおそらく立っていません。観光案内所などに問い合わせなさらないようにお願いいたします。

(3)くどいようですが、この物語はフィクションです。実際の人物や団体などとは関係ありません。このようなものを読んでくださり、ありがとうございます。

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正常な人がただそこにいる 崇期 @suuki-shu

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