最終章 目的


 目の前に現れた俺の妹、加奈。


 誰よりも俺が一番よく知っているはずだ。しかし、何かがおかしい。そもそも空を飛んできた。その時点で、俺のよく知っている『加奈』ではないと思ったのだ。だから俺は「何者だ」と訊ねたのである。


「お兄ちゃんが一番よく知ってるはずだけど?」


 兄弟だと思考が似てくるのか、加奈はそう言った。だが俺の妹は空を飛ぶ能力を有していないはずだ。普通の人間だし。


 こいつも何かの門帝か? そう思ったのも束の間、


「みっちゃんの従者だよ。この人に手を出す人はあたしが許さない」

 蜜と俺の間に片手を伸ばして割り込ませる。蜜を庇うような格好だ。


「蜜の、ということは蟻門の従者か?」

 俺が先ほどまで散々倒してきた奴らのひとりだということか?


「ううん、ヒト門のだよ」

 なっ。

 思わず言葉を失う。


 ヒト門の門帝は俺のターゲットだった。ヒト門の門帝を倒すことで、ヒト界にいられるようにするためだ。しかし蜜はもういない。『俺の中の俺だけの蜜』はもう存在しなかった。目の前にいるのは汚れた唇を持つ女。そしてそのヒト門の門帝が……。


「蜜、だというのか」

 俺の問いに加奈がうなずいて答える。


 俺はもう戦う必要がないことに気がついた。何せ俺の中の蜜はもういないし、しかも蜜が門帝だし、あれなんだかわからなくなってきたぞ。


 だが暴走した心、熱を帯びた体、自分以外のすべてを憎らしく思えた俺の闘志は冷めない。

「邪魔をするって言うなら、おまえも潰すぞ」


「本当におかしくなっちゃったんだね。それとも脳まで昆虫化しちゃったの?」

 俺と加奈はほとんど同時に構えた。


 体が熱い。蟻門の従者たちを散々吸収した俺の体は、別のモノみたいに熱くなっていた。これは俺の闘志なのか、それとも別の何かなのか。


 一気に距離を詰めた俺は、加奈の頭を掴もうと右手を伸ばす。すると加奈は俺の手を払いのけて横へ体を避ける。そして右足で鋭い蹴りを放ってきた。


 ずしり、と重たい蹴りだった。従者の力を吸収しまくったというのに、その力でようやく受け止めることができるほどだ。思えばここはヒト界だ。奴らに合わせてスケールアップされているということか。

 蛇や蚊や蟻の集合体の俺が、戦えているだけ異常なのかもしれない。本来なら、ハタかれるか、踏み潰されて終わっていただろう。


 受け止めた足を掴んだまま、体を回転させて遠心力を利用して加奈を投げ飛ばす。宙で受け身をとった彼女は、くるりと回転して着地した。


 こりゃ、長期戦は不利だな。


 そう考えた俺は、再び距離を詰めてジャブを数発打ち込む。それらを軽くいなした加奈は、こちらの隙をうかがっている様子だった。同時に俺の右手に集中している。ウーズを警戒しているのだろう。


 そこで俺は、姿勢を低くして足払いをかける。不意をつかれた彼女はその場に倒れ込んだ。素早く馬乗りになった俺は、加奈の頭を右手で掴む。そして力を込めた。


 苦痛にゆがむ加奈の顔。俺の良心はその表情を見て、一瞬力を抜こうとした。だが体が言うことを利かない。俺の体は俺の意思ではなく、何者かの意思によって動かされているようだった。


 蛇やら蚊やらの意思なんだろうか。このままでは、身内を殺めてしまう。そう考えたものの、依然として俺の意思は体を支配できないでいた。


「うぼぁっ」

 加奈の声ではない。俺の声だ。


 何者かが、俺の横腹に蹴りを入れてきた。その反動で吹き飛ばされてしまう。体に穴が開いたのではと思うほど強い痛みが走る。横腹を押さえながら、立ち上がる。そして何者かを見定めた。


「蜜か」

 俺に蹴りを入れたのは蜜だった。


「いくらタクローくんでも、加奈ちゃんに手を出すなら……」

 俺と加奈を天秤に掛けたとき、彼女は加奈を優先したということ。そのことが俺をモヤモヤとさせた。微かに残っている冷静な思考が、おかしくなってしまった体に食われようとしていた。


「ガチでいくぜ」

「こっちもガチでいくんだからッ」


 今度は蜜が構える。従者であった加奈の戦闘力から推察する。先ほどの蹴りが本気なのか、はたまた手加減したものなのかはわからないが、蜜の潜在戦闘力は計り知れない。一発でももらう前に、頭を掴まないと……逆に頭さえ掴んでしまえば、俺にも勝機はある。


 蜜の表情が、いままで見たことない真剣さを含んだものに変わった。

 来るッ!


 そう気がついたとき、俺の正面には蜜の顔があった。蜜が距離を詰めてきたのだ。そしてミドルキックを放ってくる。なんとか体をひねってそれをかわす。立て続けに拳を突き出してきた。反射的に左腕でガードをする。すると――。


 俺の体は、まるで重みがなくなったように、勢いよく後方へ飛ばされてしまった。右手を地面に突き出し、アスファルトを掴む。地面にめり込んだ腕を軸に、なんとか制止することができた。だが、左腕に激痛が走る。まるで力が入らない。


 折れたか。

 たった一撃でこの威力。俺が蜜に逆らうなんて、無謀以外の何物でもない気がしていた。



「一気に終わらせちゃうね」

 蜜がそう呟くと、彼女はウーズを契約した右手を掲げる。


 不利とみたのか、ジョカとリアが加勢しようとする。しかし加奈に阻まれてしまい、それも適わないようだった。


 手のひらを俺に向けてくる蜜。そして――無数の何かが飛んできた。そのすべては俺を狙って向かってきている。反射的にそれをかわす。自分が今いた場所に目を向けると――。


「針?」

 無数の針のようなモノが地面に突き刺さっていた。一本一本は髪の毛のような細さだが、長く、本数が多い。


「拓朗さま、気を付けてください! その針、毒性の反応があります」

 ジョカが加奈と対峙しながらも、そう助言してくれた。


「毒……本気だな」


 俺の言葉に応えない蜜は、針を飛ばしながらさらに飛び込んでくる。俺は針を避けるのに精一杯で、強襲してくる蜜を避けることができない。目の前まで迫った蜜は、左手で俺の頭頂部を押さえ、そのまま地面に押しつけていく。


 とんでもねぇ力だ。


 あっけなく地面に押さえつけられた俺は、蜜の右手のひらが目前まで迫ってきていることに気がついた。零距離で針を出す気だ――!


 ダメモトで右手を伸ばす。蜜の頭に向かって、もがくようにがむしゃらに伸ばす。頭に触れた! 思い切って掴む。蜜の頭を確保した俺は、そのまま握りしめるように力を込めていく。


「みっちゃん!」

 加奈の叫び声がする。しかし今度はジョカとリアに邪魔されて、こちらに来られないようだった。やはりタマネギのような堅さだ。懸命に力を込めていく。


 もうすぐ俺は、野々村蜜を殺す。小さい頃からずっと一緒だった蜜。家が隣同士で、親同士も仲が良くて、親戚一同の付き合いもあって……たぶん、結婚するかもしれなかったヒト。


 いつからこうなってしまったのだろう。あのミミズを踏んだとき? それとも蜜の告白を断ったとき? ジョカとリアが転校してきたとき、すぐに追いかけて止めていれば、また違った運命だったのだろうか。


 俺は、門帝になってからも、蜜と一緒にいられる、そのことだけを夢見て、がむしゃらに走ってきた。だけど、一日、たった一日すら彼女は待てなかった。いや、それは俺の思い違いだったんだ。一日も待てなかったと、俺が思い込んだことが原因か。信じてやれば、また……違ったのかもしれない。


 タマネギが軋む音を立てた。


 俺の体は俺の意思とは別の何物かが支配していた。攻撃などは反射的に避けるようだが、それ以外は俺の思考とは、何の関連もなく動作している。よって、力を止めることもできない。嫉妬の炎に焼かれた俺が、俺の体を食い散らかして、そして心まで食われようとしている。それだけだった。


「さよなら」

 蜜が言った。


 そう言えばコイツは抵抗していない。もう諦めたのか? それとも……。


「ああ、さよならだ」


 俺はそう答えた。蜜は瞳を閉じて、されるがままになっている。相手の力を吸収することを表す光が、蜜の全身を包み始める。この後、彼女は干からびていく。さらに見るに堪えないものへと変わっていくんだ。


 俺は何を得たのだろうか。

 一番得たかったモノを失って、何を得たのだろうか。


 自身の手で抱きしめたかった彼女は、もういない。

 彼女がキスをしたからだ。ウーズの契約とは言え、キスをしたからだ。


 キスぐらいで何言ってんの? って思うヤツもいるかもしれない。だけど、蜜のファーストキスはそうじゃない。そんなんじゃないんだ。真っ白な紙に、一滴の絵の具。それはもう真っ白じゃなくなるんだ。だから、だから……。


 次の瞬間――光が収束していった。


 だが。


 目の前に広がる光景に、俺は一瞬訳がわからなくなった。


 足? それはヒトの足だった。白いサンダル履きの足。

 それが眼前いっぱいに広がっている。問題はただの足ではない。巨大なのだ。俺がつま先にちょこんとのれるぐらいに。


 思わず空を見上げてみると、蜜がいた。白いワンピースの中が丸見え。その時点で俺は察した。蜜がウーズを使ったのだと。


 ヒト界なので、奴らの大きさに合わせてスケールアップしたんだ。巨人になったんだ、と。


 だが。


「拓朗さま!」

「タクローちゃん!」


 歩み寄るジョカとリア。遅れて加奈もやってくる。


「何コレ……」

 半ば絶望したように加奈が言った。


 驚くことに、みんなスケールアップしているではないか。なんで俺だけ小さいままなんだ!

 驚いている俺に、ジョカがこう言った。


「拓朗さま……ウーズの使いすぎです」

 は?


「なにそれ? 制約があるなら早く言えよ」

「でも、既にご存じかと思っておりました」


 なんで?


 なんで?


 あっ……。


 俺は思い出した。


 前帝ナーガが、ミミズだったことを。

 その理由が、ウーズの使いすぎだったことを。



「そんな副作用あるんだ?」

 加奈が言う。他人事のように「へぇ」と付け加えた。


 まあ、他人事なんだけどさ。


「これでは戦闘続行不可能ですね」

 ジョカがため息をつきながら言った。


「だねー。タクローちゃんの負けだ」

 リアがその場にへたり込む。


 おいおい、おまえら。そんな軽々しく言うなよ。


「タクローくん」

 蜜がしゃがみ込んでそう言った。


「かわいい」

 蜜は俺を両手で掴んで胸のポケットに入れる。


「加奈ちゃん、私、これ飼う」

「マジで言ってんの? ……まあ、みっちゃんがそう決めたならイイヨ」

 勝手に決めんじゃねぇ! 俺の人生どうなるんだよ。


「それでは蜜さま。今の拓朗なら帝位継承の儀式を行えると思いますので」

 ジョカがそう言った。もう呼び捨てですか。用が済んだらポイですか。


「あ、蚊門もやるう」

 俺の存在を無視して、話がどんどん進んでいく。


 俺のときと同じように、ジョカは蜜にひざまずいて右手の薬指に軽くキスをする。リアは小指にカプリと噛みついてチューチュー吸っている。


「これで蜜ちゃんは、四つの門帝を制して――門帝王になったわけだけど」

 満足げなリアがそう言うと、つづけて、


「タクローももうヒト門の門徒だから、このままこの世界にいるのに制限を受けないよ」

 おまえも呼び捨てか。つーか、小人になって制限なくなっても仕方ねぇんだけど。


「門帝神まであと一歩ですね」

 次の肩書きは門帝神らしい。こいつら、完全に俺に価値がなくなったと思ってやがるな。


「タクローくん、かわいい」

 蜜は蜜で、ポケットから取り出した俺に頬ずりをしてくる。そしてまた大事そうにポケットにしまい込んだ。蜜自身人外のことに興味はないらしい。こりゃあ門帝神とやらも遠いんじゃないか? 本人にやる気がないんじゃあな。


 こうして俺は、この日から蜜に飼われることになった。


 その夜、蜜の部屋に集合した俺たち。いや、俺は強制的に連れてこられたようなもんだから、集合したのは他の三人か。


「……というわけで、ウチの両親にはお兄ちゃんは旅に出たって言っといたよ」

 加奈はひとつのクッションに腰を落ち着けてそう言った。


「それで納得したわけ?」


「うん」

 オヤジとオフクロも、俺のこと何だと思ってんだ。ナーガを踏んでから、割と真面目にやってきたつもりなんだがなぁ、それがこの結果か。


「よかった。これでずっと一緒にいられるね、タクローくん」

 今となれば、俺のことを大事にしてくれるのは蜜だけだった。


「それで、蜜さま。この後の帝務についてですけど」

「えぇ、もういいよぅ。タクローくんと一緒にいられるんだから、私はもういいの。ジョカちゃんに任せるね?」


 やる気の欠片も感じられない蜜。そう言えばコイツ、ヒト門の門帝も司っていたっけ。ヒト門の門帝がこんなんで大丈夫なのか? と一瞬思ったが、俺はもう蛇でも、蚊でも、ヒトでもない。だからもう関係ない。今までのしがらみから解放されたいま、意外と悪くなかった。


 元々俺は蜜と一緒にいられればそれでよかったのだから。


                                     了

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司 -Tsukasa- さくらとももみ @sakuratomomomi

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