第五章 従者


「私とリアさんで筋肉の方――マーオを相手します。門帝様はツラキを」


 素早く状況を判断したらしいジョカが、耳打ちするように言った。リアは首を少しだけ縦に振って肯定の意を見せた。


「俺が門帝をやっていいか?」


「いや、門帝は私とやりたいらしい。おまえは従者ふたりを頼む」


 そして気がついた時、リアとジョカはすでにマーオへ飛び掛かっていた。


 まずリアが大きく跳躍して全宙を披露する。右足だけを出したまま、勢いを利用して踵落としを仕掛ける。だがマーオは左手を伸ばして、リアの足首を軽々と掴んで踵落としを阻止する。彼女の重心が頭に移る。そのままぶら下がるような逆さの格好となる。長いスカートが捲れ上がりそうになっていた。それを両手で必死で止めている。緊張感の欠片もなかった。


 すかさずマーオは右手でフックを繰り出してきた。リアの右足は足首がマーオによって掴まれていて、彼女の両手はスカートを押さえている。バランスが取りにくそうで左足もあまり役に立ちそうになかった。マーオの拳が、幼女の身体の腹部を狙っているとわかるところまで迫った時。


 ジョカが飛んでいた。落下速度に合わせて取り出したのは、小脇に抱えていたタブレットPC。それを構えて直下目掛けて振り下ろした。


 それはさならが教師の持つ出席簿のようであった。

 出席簿の角で生徒を罰する時のような。


 タブレットPCの角はマーオを手首に直撃する。弾みでマーオの手がリアの足首から離れた。地面に落ちて這いつくばるリア。着地したジョカ。そんなジョカを狙って襲い掛かってくるのはマーオの右拳だ。


 そして、ジョカの、蛇族の、従者の力の片鱗を目の当たりにすることになった。

 瞬時に変態したジョカは、くねくねと蠢く大蛇のようなモノになっていた。それがマーオの右手に絡みつき拳の動きを止める。


 しかしジョカは大蛇ではない。ただの大蛇ではない。彼女自身が言っていたことだ。


 ジョカの変態したモノは、同様の大蛇が全部で八匹いた。深い緑色の鱗が身体全体を覆っている。それらを繋げる役目を果たしている胴体からは前足が二本、後ろ足が二本。首よりも二倍ほど長い尾が生えていた。


「ヤマタノオロチ……のミニチュア版」

 ジョカの姿を見た時、日本神話の中に登場する伝説の生物が思い起こされた。紛うことなきイメージ通りのヤマタノオロチ。……サイズ以外は。


 一本の首がちょうど筋肉隆々のマーオの腕と同程度ほどの太さ。前足と後ろ足のサイズも、人型フォームに幻身した時の四本分程度の太さ。胴体の高さは百五十センチぐらいだろうか。そこからそれぞれ一メートルほどの首が伸びている。頭部の大きさは筋肉マンの手のひらと同程度だ。手首に噛みつこうものなら共食いっぽく見えてしまう。


「もちろん巨大化もできますよ!」

 ジョカの謎のアピールが周囲の森に反響した。発生源は見当もつかない。周囲に振動するような感じの声である。


 つーか何のアピールだ。


「へぇ、それがジョカの姿なんだ」

 地面から上半身だけを起こして、尻餅をついた状態のリアだ。


 ってか、バトルフォーム? ユニフォーム? 関係なくね?


 ヤマタノオロチ(小)は、幻身した姿で纏っていたスーツの類も眼鏡もなくなっている。破けたシーンもカットされたようになくなっていた。


 一本の首がマーオの左腕に忍び寄る。思わずヤツは首の射程範囲外へ飛び下がった。しかし右手は拘束されたままのため、大きくは距離が空けられない。マーオが着地した瞬間、ジョカの長い尾が彼の腹部をしなやかに打ち付けた。


 呻きながら片膝をついたマーオが、左手で腹を押さえている。裸身だった上半身の尾が打ち付けた箇所は、赤く腫れ上がっていた。


 ジョカが一歩前進する。そうすることで他の首の射程範囲内にマーオが入る。左腕、両足、首、胴。それぞれに首が巻き付いてマーオの身体を拘束し始めた。首自体が波打つように蠕動している。その度にマーオは苦しそうに喘いだ。


「今ですよ、リアさん」

 また振動音のような声が響いた。リアは小さく頷いて素早く飛び上がる。高音域の羽音を鳴らしながらマーオの首元へ。そしてカプリと噛みついた。


 吸血……?

 するとどうでしょう!


 幼女だった彼女の姿がみるみる膨らんでいった。バストは目算でエフカップ、腰にくびれが増して、尻も肉が付いていく。手足は伸びて、顔付きもあどけなかったモノがやや女を感じさせるほどに美しくなった。


 まさしく変態。幼女から美女に成長したリアは、見習い天使のコスプレが以前よりも似合うようになっていた!


 どーでもええわ。


 そのままマーオに吸血を続ける様子だった。俺から見てもこのまま倒せるだろうと思った。その証拠にリアは変態後も首元から口を離そうとしない。だが――。


「あっ……」

 そうジョカが言った。


「申し訳ありません。私はここまでのようです」

 そう言った。ジョカだったヤマタノオロチの姿が少しずつ霞んでいく。最初、白い霧に覆われているように見えた。しかし彼女の身体が確かに消えていっている。


「あー時間かぁ」

 首から口を離したリアが、一呼吸で飛び下がって言った。


 ここは蚊門のテリトリー。俺はホームにいるだけなので問題はないが、ジョカは別だった。八時間経ったのだ。


「惜しいなあ、もうちょいだったのに……」

 悔しそうに呟いていた。そしてすぐに何かに気がついたように、


「もしかして、こいつあたしひとりで倒すの?」

 少女となったリアがゆっくり立ち上がった。身長も伸びた彼女は百七十センチほどまで急成長している。


 だが頭の方はあまり変化がないらしい。

 ようやく復活したらしいマーオが立ち上がる。リアと対峙するように向きを変えた。全身の肌を震わせて力を込める。相手の姿に怯んでしまっていたリアは逃げ腰だ。


「無理だって、こんな筋肉マンなんかあたしひとりで――」


 彼女が言い掛けている途中で、マーオは素早く踏み込んだ。突き出す拳。寸前のところで身体を捻って躱すリア。振り上げられる蹴り。背面へ飛び下がって鼻の先をかすめる距離で何とか回避した。


 その後もマーオはひたすらに拳と蹴りの連打を浴びせていく。リアも必死の形相でそれらを躱していくものの、すべてが間一髪に見える。断じて攻撃に転ずる余裕はなさそうだった。


 一撃でも当たれば終わり。


 そう感じた。いくら美女に変態したとは言え、幼女からの変態だ。真の変態であるマーオは完成された変態であろう。つまり変態加減で勝てるように見えなかった。変態。


 見ている方がハラハラとさせられる。いや、勝率が掴めないという意味でハラハラするのではない。いつ負けるかわからないというハラハラだ。


 リアが持ってくれている間に、俺は俺の仕事をしなければならなかった。



「やりあう気になりましたか」

 ツラキはにやりと笑っている。


「これはこれは申し遅れました。私の名はツラk――」

 そうなるだろうと意識したことではなかった。


 俺はただヤツに近づこうとしただけだ。

 だが身体は思ってた以上の速度を生み出していて、気がつけば眼前にはツラキのイケメン顔があった。次に頬を殴ってやろうと思った。すると自分が思ってる以上の反応速度で腕を振りかぶっていた。そして凄まじい速度で左の頬目掛けて拳が放たれる。


「ぐ、ぐぅ……」

 目の前で立っていたツラキが足から崩れていく。


 気持ちが異常に高揚してくる。自分でもよくわからない力が、自分が思っている以上に身体を振るえるということが、こんなにも気持ちが良いものだとは思わなかった。


 例えるなら、何の苦労もせずにプロ格闘家を倒せたような気分だ。脳からの指令が敏感になって四肢へ渡っていく。身体能力そのものも向上しているのか、自分の限界を超えた速度を、所作を、すべて目視できた。


 これがスケールアップか……? それとも門帝の継承した力?


「悪いな。時間があまりないんだ」

 急上昇した自信がそうさせたのだろう。俺の口からはそんな台詞が自然に吐かれていた。


「ま、まさか……私の夢が……がうっ」

 倒れたツラキを踏んでやる。その言葉を最後にツラキは死んだ。


「きゃぅっ」

 俺がツラキを踏み殺した時、悲鳴が聞こえた。


 声のした方向に目を向けてみると、リアがちょうどマーオの拳を避け損ねて、左手で受け止めようとして吹き飛ばされていたところだった。


「きゅぅ」

 リアはそのまま倒れるようにして伸びてしまった。


 してやったりという表情でマーオが俺に振り返った。


 これが経験の差というやつなのだろうか。自称ナンバー2のリアは一撃でやられてしまった。そのことがマーオの自信を増長させる形となったようだ。にやにやと見下すような笑みが浮き出ている。


「やっと門帝とやりあえるってことか。これで俺があんたを倒せば、俺が門帝となるわけだ。口うるさいツラキもいなくなったからな」


 太い二本の腕を組んで豪快に笑う。

 こいつの力はプラスになるな。


 そう思った時、俺の身体はすでに動き出していた。

 やはり眼前にマーオの顔がある。驚いているようなその顔を、俺は右手のひらで掴んでそのまま指に力を入れていく。


「うががっ」

 メリメリと音が鳴った。俺の指が額と両のこめかみへとめり込んでいく。その度にヤツの苦痛を帯びたくぐもった声がする。


 それと同時のこと。

 俺の全身に外から何かが染み込んでくるような感覚があった。とても気持ちが良い感じがする。よく見てみるとマーオの肌が、早送りの人生を送っているように干からびていっていた。


 みるみる老化していくマーオの顔。皺が増えて、あまった皮が垂れ下がった箇所が次々と増えていく。指の隙間から覗いている瞳が虚ろになり、開かれた口からは透明の体液を垂らしていた。


 彼がしなびていくのと同じタイミングで、俺の中に染み込んでくる気持ちが良いモノ。それは『力』や『エネルギー』が具現化したモノだと説明されれば、納得がいくような気分だ。内から熱くたぎってくる。


 太かった腕も、しっかりと身体を支えていた足も干からびていく。間もなくして俺の右腕にぶら下がっているようになった。


 これが門帝の力か……。


 マーオが絶命したと思われた。たなびくような風にすら吹き飛ばされそうな物体と化している。試しに手を離してみると、想像通りに風に流されてどこかへ吹き飛んでいった。


「リア」

 地肌へ身体を投げ出している彼女。側に寄った俺は彼女を抱きかかえる。うっすらと瞳を開いたリアが力なくこう言った。


「さすがタクローちゃん……今のがインヘイルだよ……」

 再び瞳を閉じてぐったりとした。


「くー……」

 寝た。


 従者に就任早々、門帝が崩御して、クーデターが起こり、その間にあった様々な雑務をこなしてきたのだろう。腕の中のリアは、可愛い寝息を立ててぐっすりおやすみ中である。


 俺は彼女を抱きかかえたまま、蚊門の四畳半に戻ることにした。


「それはそうとさ、リア」

 帝座についた俺は、意識を取り戻した彼女に目を向けて声を掛けた。


「うん?」


「マルティアリスは、なんでヒト界に来てたんだ?」


「あー……後継者探しに行ってたんだよね」

 どこか言いにくそうに説明するリア。


「蚊門の門帝自動継承者がアレだったっしょ? ツラキっていう曲者も潜んでいたし。だから同一門には任せられん! とか何とか言って憤慨してたわけよ」


「ふむふむ」


「で、最近流行ってるヒトへの帝位継承をやってみよう、とヒト界へ旅立ったの。ちょうど夏だったしね」

 バカンスにでも来たみたいな口ぶりだった。


「それでね、どれにしようかなーって言ってる時にバチーン! ってされちゃったわけ。タクローちゃんに。本人も本望だったんじゃないかな」


 意味わかんねぇ。

「ずっと、もう隠居したいって言ってたし」


「そうなのか?」

「うん。前帝ってずっとひとりで切り盛りしてたから。いい加減疲れたんだって。あたしが従者になってから一週間毎日言ってたよぉ。聞いてる方が疲れるっちゅーの」


 ころころ笑ったリアが更に、

「自分で切り盛りしてるから、次が育たないでしょ? 育たないからまた自分で切り盛りするって感じで、マルティアリス様一本で支えられていたものだからねぇ、蚊門は。クーデターも鎮圧したし、これからが大変だけど頑張って再興していこーね」


 仕事はこれからだと言わんばかりだった。



 田んぼと田んぼに挟まれたあぜ道。車が一台通るのがやっとの幅である。その道を俺たちは登校するために歩いていた。雀や鳩が飛び回り、あちこちで鳴き声が聞こえる。


 朝、家を出るときはひとりだった。でもすぐにどこからともなくジョカが現れて、少女となったリアが現れて、三人で行くはめになったわけである。俺を中心に彼女たちが両手を飾る。無論周囲の人から視線を浴びることになる。「なんだあいつら」と言わんばかりに。


「良い朝ですねぇ」

 蛇の彼女はそう言った。


「ホントホント。夏の朝は気持ちがいいね」

 蚊の彼女が合わせるように答える。


 非常に和やかで結構なことだが、彼女たちは人外である。周りは当然そんなことには気がつくわけもない。昨日、クーデターを鎮圧したとは思えない和やかっぷり。昨日、蛇の彼女は伝説のヤマタノオロチだったなんて夢のようだ。


「そう言えばさ、ふたり共なんで学校に来たんだ?」

 ふと前々から疑問に思っていたことをきいてみる。


「拓朗様のことをどんなことでも把握していなければなりません。しかしヒト界でのことは私の手に余ること。では制限時間の間は側にいようと思いました」

 それっぽい説明のジョカ。実に彼女らしい真面目な理由だった。


「とーぜん、タクローちゃんと一緒にいるためだよっ」

 実にリアらしかった。直球過ぎて。

「でも安心してよ。帝務はコレでちゃーんと捌いてるからサ!」

 脇に抱えているタブレットPCを指して言った。


「結局それって何?」


「んとね、今って門界の情報はすべてデータでやりとりしてて、電脳空間で繋がっているわけよ。だからそこの入り口にアクセスすればたいがいのことはできちゃうわけ」


 つまりインターネットね。


「昨日のことで、ジョカの元の姿がヤマタノオロチだってことはわかったんだけど」


「ああ、はい……」

 途端に後ろめたそうな顔になるジョカ。あまり知られたくなかったのだろうか。

「リアの元の姿は?」

 何故か辺りが静まった。先ほどまで泣いていた雀やら鳩やらの鳴き声も止まる。遠くで走っていた車の音も止まる。


 なんで……?

 音のなかった世界でリアがこう呟く。


「悪かったわね……」

 どうやら何かの地雷を踏んだらしい。それは彼女の発しているオーラからしてもわかる。殺意と怒りが混じった縁起でもないオーラをビンビン感じる。そんなウーズは契約していないが明らかに感じる。


「悪かったわね! ガキっぽくて!」

 朝の登校中。リアは突如、そう怒鳴り散らした。まばらな通行人たちの注目を浴びる。


 誰もそんなこと言ってないんですがね。

「どーせ私はボウフラですよーだ! 幼虫ですよーだ!」


 そう叫んでいた。もちろん通行人は何事かと、何だったら新手のイジメかと言う視線で、『俺』を見ていた。


 とにかく、彼女の元の姿はボウフラらしい。そしてそれは地雷となるらしい。今後は言わないようにしておこうと固く誓ったのだった。


 登校中にモメている俺たちを取り巻く人の群れの中に、見慣れた顔を見かけた。

 鍔の広い白い帽子。ロングスカートの白いワンピース。絹製の貴婦人のような白い手袋。そして白い日傘と白いサンダル。


 野々村蜜である。


 群衆に紛れ込むようにして、何事かと覗き込んでいた。俺と目が合って双方同時にハッとする。反射的に声を掛けて手を伸ばそうとする。だが。


 彼女に並び立つようにしてヤツがいた。


 蜜とキスをしていた、長身の男である。さわやかそうな彼は、優しい目を彼女に向けていた。蜜が男を見上げる。ふたりが見つめ合っている。口元が動いていた。何かを話し合っているようだ。そして男がこっちに目を向ける。


 一瞬でそれまでのさわやかさ成分が蒸発した。

 冷たい、血の通っていないような、ヒトとは思えない瞳だった。


 ヤツを真正面から見るのは初めてだ。そしてヤツに見られるのも初めてだ。蜜とヤツが一緒にいるところを見ている俺を見られるのも初めてだった。


 何となくそういう期待があったのかもしれない。

 どこかでそう思っていたのだろう。


 蜜が申し訳なさそうな表情で、少々慌てた様子で、まるで「違うのっ!」って言いそうな口で、俺を見ていると思っていた。


 しかし現実はそんな風でもなく、仲の良い親戚と一緒にいるような、友達と一緒にいる時のような、いわゆる『恋人と一緒にいるところを見られた』素振りなどはなかった。もちろん申し訳なさそうな感じもないし、後ろめたそうな感じもしない。


 普通だった。

「あ、見てみて。あそこにいる男の人、幼馴染みなの」

 と彼に語っていそうな感じだ。


 そのことが俺の心をキュッと掴んで離さなかった。

 同時に沸き立ってくる強い焦燥感。身を焦がしそうな炎。それが嫉妬だと気がついた時、俺はすでに走り出していた。


 蜜たちに向かって。



「タクローくんっ!」

 金切り声で蜜が叫んだ。続けて、


「どうしてそんなコトするのっ?」

 一瞬だけ俺を見ていた蜜は、悲しげな瞳をすぐに伏せて、倒れているその男の側へと駆け寄った。しゃがみ込みソイツを抱き起こす。何だったら気遣うように優しく声を掛けている。男は土の表面で大の字になっていた。


 一直線に男に向かっていった俺は、飛び込んだ勢いと共に右の拳を放ったのだ。ヤツの鼻っ面の正面からぶち込んだのである。さわやかだった男は鼻血ブーして倒れたという流れだった。今はさわやかさ一パーセントもない。


「拓朗様。さすがにいきなり殴り掛かるのは感心できません」


「そうだね。ギャラリーも多いし、誰が見てもタクローちゃんが悪者になっちゃうよ」

 俺の後を追ってきたらしいふたりが、横に立ってそう言った。


 男が気がつく。左手で鼻血を拭ってこっちを見上げた。それと同時に少しだけホッとした表情を見せた蜜が、今度は俺を見てキッと睨んでくる。


 蜜にそのように睨まれると、良心を直接、鋭利な刃物で刺されたような気分になった。見続けていられなかった俺は、視線を男に移す。


「立てよ」

 見下したまま男にそう言い捨てる。男は片膝を立ててゆっくり立ち上がってきた。


 長身の男は俺よりも頭ひとつ分ぐらい背が高かった。今度は俺を見下すようにしてくる。


「何をするんですか?」

 涼しげな声でそう言ってくる。ヤツの視線が少し下がった。手……を見ているようだ。最初は左、次に右、そして。


「なるほど。そういうわけですか」

 勝手に納得しやがった。すべてを悟っているようなその顔を見ていると、妙にイライラしてくる。とにかく見た目で負けている。その事実が重くのし掛かってくる。


「どうして、そんなこと、するの?」

 もう一度、今度はゆっくりと諭すように蜜が言った。自然と彼女に目を向けると、いつの間にか泣きそうな顔になっている。言葉が詰まっていたのはそのせいらしかった。


「おまえら……」

 勢いで出掛かった言葉を飲み込んでしまう。今度はなかなか上がってこない。


「ねえ、どうして? タクローくん、そんなヒトじゃなかったのに……」

 哀れむような眼だった。


「そんな乱暴なことするヒトじゃなかったのに……」

 両手で顔を覆ってしまった。嗚咽をあげている。


 俺だってこんなことしたかったわけじゃない。

 蜜を泣かせようだとか、悲しませようだとか、不幸にしてやろうとか。決してそんなことは思わなかった。一度だってそんなことを考えたこともない。


 俺はただおまえと一緒にいたかっただけなんだ。

 今更どうしてこうなったんだろうという想いが込み上げてくる。

 それは非常にやるせないもので、生きる意欲が削がれていくような感じだった。


 何で待っていてくれなかったんだ?

 そんな疑問が頭に浮かぶ。


 そもそも俺たちの仲はその程度だったのか? 積み重ねた十五年間は? 互いに近づきすぎず、離れすぎずを保っていた訳は? おまえの気持ちはどこにあったんだ? その男か? 年上の大人で、さわやかで、イケメンで、冷静で、頭がよさそうで、背が高かったからか? その条件に当てはまればおまえは誰でもいいのか?


 連続して訪れる思考の連鎖。それらはいくら連鎖しても消えることなく、ずっと消せないブロックとして残っていく。だんだんと積み上がっていく。最上段のラインを超えればゲームオーバーだ。


 ひとつひとつを消していき、処理できなかった俺に落ち度があったのだろうか。

 しかし消そうとはした。彼女に真実を話したし、ヒト門の帝位を奪って元の生活に戻ろうともした。現状やったことと言えば蚊門のクーデターの処理だけだが、俺が帝位を継承してまだ数日程度しか経過していない。右も左もわからないなりに必死だった。両方の現実を受け入れようと、俺の脳は全力で回転していた。


 たった一日すら彼女は待てなかった。

 この十五年間の想いは――。


 その程度だったのだ。

 そしてすべての元凶がこの男なのだ。


「キスしてただろ……俺、見たんだ。校庭で……」


 半ばヤケになった思考がすべてを放棄してしまった。確実にこれまでの関係が壊れるであろう言葉を、この現実に生み出してしまったのだ。


 案の定。顔を覆っていた手のひらを解いて、今度はキスをしていた口元に当てている。涙に濡れた瞳は見開かれていて、俺をじっと見ている。


 その涙は誰のために流したものなんだろうか。ふとそんなことを考えていた。


 蜜は息を呑んだままの様子で、身動きをとらなかった。白い手袋に覆われた手のひらに隠れているため、男に捧げた唇が動いているのかどうかすらわからない。


 だけどこう言った。

「見てたんだ……」

 もう一度、俺の中の何かが音を立てて崩れ去った。


 それは何だったのだろうか。

 現実? イメージ上の蜜? 夢? 将来? よくわからない大切なモノだった。


「でもあれは違うの!」


 蜜はそう言った。この期に及んで何を考えているのかまったくわからなくなる。女とはこういう生き物だと、インターネットのどこかの記事で見た記憶があった。その時の感情とぴたりと当てはまった印象だ。


「何が?」

 冷たく聞き返していた。蜜に罪はないのだ。信じていた俺に告白を断られ、傷ついた彼女の目の前に現れたのがこの男だった。普通はぐらついてしまうだろう。ずっと好きだった相手にフラれたのだから。


 それにしても早すぎるよ。もう少しだけ……待ってて欲しかった。

「あれは……」


 蜜は言葉を詰まらせた。言い訳を考えているのだろうと俺は考えた。

「あれは契約の儀式ですよ」


 代わりに答えたのは男の方だった。

「ケイヤクの……ギシキ……?」


「あなたも行なったでしょう? 後ろの彼女たちと」

「俺はキスなんてしてない!」

 群衆の視線が集まる中で、恥ずかしい言葉を叫んでしまう俺だった。


「いえ、拓朗様。そういう意味ではなく……私たちと」

「ケイヤクしたでしょ? ウーズの」


「ウーズノケイヤク……? オレト? オマエタチガ? キスヲ?」

 男は小さく鼻で笑った。

「彼女……蜜様は蟻門の門帝ですよ」

 大きく首を縦に振ったのは蜜。


 何言ってんだこいつら? 頭おかしくなったんじゃねえ? そんなデタラメ信用できるわけねーだろ。そんなシラの切り方あるかよ。普通に愛し合っているからキスしたんだって言えばいいじゃねーか。なんで中途半端に俺のことを気遣うんだ? おかしくねえ?


 おかしいのは俺だった。それらの言葉が頭で積み重なっていく内に、あの時のことを思い出したのだ。


 俺が蜜に告白された日。学校からの帰り道。俺の置かれた状況。それを彼女に話した時。それに対しての彼女のリアクションだ。


 ああ、なるほど。

 あの時、蜜はこんな気持ちだったのか。


 ひどく冷製な気持ちだった。

 蜜が左に付けていた絹の手袋を取る。彼女の小さな白い手が現れた。薬指には指輪がはまっている。指輪に嵌っている石の色は青かった。


 俺は自分の左手を見てみた。同じ鈍色の指輪だ。造りも同じである。ただひとつ違ったのは俺の指輪の石は緑色になっていた。


 蜜は更に右手の手袋を外した。白くて綺麗な肌が現れた。ただ二箇所を覗いて。


 人差指と中指の爪。そこには柔らかで清楚な手のひらにはかなりの違和感がある。どす黒く変色していて、表面には所々にいびつな棘が無数に生えていた。


 ウーズの印だ。

 自分のモノと見比べても色以外に違いがない。あのキスは……ウーズの契約だった。


 だったとしてもどうして!


「あれでも、少し間を空けたんですよ。蜜様のご希望で。指輪の授与だけ先に済ませておきましたが。しかし何やらショックな出来事をご経験されたようで、勢いに飲まれてあの時ウーズの契約を承諾頂けました」


 つまり、蜜も蟻を踏んだか何かで帝位を継承してしまっていた。だが告白を受けた帰り道の時に指輪はなかった。それ以降に継承したのだろう。翌日、指輪を隠すためなのかお嬢様スタイルで登校してきた。ジョカが転入してきて、リアが転入してきた。修羅場となった。感情的になった彼女は……。


 キスしてしまった。ウーズの契約とは言え。キスしてしまったんだ。


「何で、ウーズの契約を受け入れた?」

 蜜に向かって尋ねると、


「……ヒト界に八時間しか居られないから」

 間髪入れずに俺は答える。


「それはウーズを契約しても同じことだろ?」

「ヒト門の門帝を倒すため……そうすればヒト界に居ることができるから……そうすればタクローくんと一緒にいるのに時間を気にしなくても済むと思ったから……」


 ……。

 こいつも俺と同じ考えだったのか。


「でも後から気がついたの。そう言えば、タクローくんも八時間しかココに居られないって。だからもしかして同じこと……門帝を継承しちゃったのかなって……でも後から気がついたの……ごめんなさい」


 蜜は男と重ね合わせた唇でそう言う。


 俺はコイツを愛していると思っていた。


「そう言えば、俺、門帝の話はしなかったよな。まぁ言っても信じてもらえねーと思ってたから、やんわりと言わなかっただけだけど」

 深く愛していると思っていた。


「うん、私もあの時どうしてタクローくんは、そんな嘘をついてまで私を傷つけないようにするんだろうって疑問だった……何となく意味がわかっちゃったの……でもそれは間違いだったんだよお」


 でもそれは間違いだったんだ。


「何でこんなことになったんだろうな……」

 俺は彼女を深く愛していなかった。


「ホントにね……大好きな人の言うことぐらい、信じていればこんなことにはならなかったのに……私のファーストキスだって……」


 強く愛していただけだったんだ。自分中心的に、一方的に、彼女の人格を否定し、自分の望みだけを押しつけるほど。蜜を強く愛していたに過ぎなかった!


「こいつとキスしたんだよな……」

 彼女は身を切ってまで俺と一緒にいようとしてくれたのに。


「しちゃったね……でも本当は、タクローくんとしたかったよ……だって初めてなんだもん。十五年間も好きだったんだもん。生まれた時から……好きだったヒトなんだもん」


 俺は自分のことしか考えられなかった。


「ねえ……もう一度言っていいかな?」

 熱いマグマが足下から噴出して、頭の先まで駆け巡る。


「何を?」

 脳内から大きな噴火が発生する。


「私と……」

 俺はそれだけ、『俺の中の蜜』が好きだった。


「付き合ってください……」

 俺のためだけの蜜は、もうそこにはいなかった。


「ごめん、やっぱり無理」

 崩されたイメージを修復できないほどに、『俺の中の野々村蜜』を強く愛していた。



「うぼあっ」

 次の瞬間には俺の眼前やや上に、男の顔があった。


「ヘウレカさん!」


 横にいた蜜が叫んだ。彼はヘウレカという名前らしい。俺はヘウレカの顔面に、右手の五指を食い込ませていた。瞬きをする間もなく、イケメンがこの世からなくなる。頭部を失ったそれは、重力に任せて地面に落ちた。


 群衆から悲鳴が起こった。一瞬で判断したらしいジョカとリアが、凄まじいスピードで縦横無尽に駆け巡り、すべての群衆の首元へ背後から手刀を繰り出していく。例外なくすべての群衆たちはその場に倒れていった。


「大丈夫です、拓朗様」


「気絶させただけだから」


 蚊門のクーデターでは片方は時間制限で帰って、片方は一発でのばされた彼女たちであったが、一般人との戦闘力の差は歴然のようだった。


 俺のすぐ隣では両眼を見開いてキスをした口元を、俺の視線から隠すように両手のひらを当てた蜜が微動せず立ち尽くしていた。ずっとヘウレカの頭部があった空を見つめている。息をするのも忘れているような様だった。


 そんな中、空の彼方から急激に迫る光があった。

 最初豆つぶほどの大きさだったそれは、徐々に大きくなってくる。すぐにヒトの姿だということが視認できた。光をまとったままで、俺と蜜の前へ着地する。足下からは微かに煙があがっていた。


 空の彼方から飛んできたのは、まだあどけなさの残る少年だった。黒い髪を短く刈っていて、横縞のシャツとGパン。白いスニーカーという出で立ちである。


 着地後に謎の彼は顔をあげて、蜜を見ながらこう言った。


 彼女はと言えば、同じ表情と仕草のままで少年を見下ろしている。連続して驚いているという感じだ。


「お待たせしました。門帝様。ヘウレカの後任となる、蟻門の従者で――うがっ」


 俺はすかさず少年の頭部を右手で掴む。そして指に力を入れると、桃の果実のように柔らかな感触で潰れてしまった。


「ああっ……」

 蜜が呻いたまま、また頭部のあった空を呆然と見つめていた。


 すると再び空の彼方から飛んでくる光があった。それはヒトの形をした光で、だんだんと大きくなってきて俺たちの前へ着地する。


「お待たせしました。門帝さm――うぼあっ」

 そいつの頭部を掴んで、蜜柑のように握り潰した。蜜は声にならない声をあげる。


 程なくして空の彼方から飛んでくる光があった。それはヒトだ。大きくなってくる。俺たちの前で着地する。


「お待たせしm――あがっ」

 頭部を掴んで無花果のように握り潰した。


 間もなくして空の彼方から飛んでくる光があった。ヒトだったそれは大きくなって俺たちの前へ着地した。


「おm――はぐぁっ」

 頭部をバナナの実のようににゅるっと握り潰した。


 それを百回ぐらい繰り返した時。

「拓朗様……従者はどれだけ倒してもキリがありませんよ」

 早く言えよ。


「そういうわけだ、蜜。穢れてしまったお前は、もう見るに堪えない」

 そう伝えて今度は――、


「あうっ」

 蜜の頭部を掴んだ。今までと比べるとタマネギのように硬く思える。


「ああっ……」

 悲痛な叫びをあげる蜜。震える右手をゆっくりあげる。震える左手をゆっくりとあげる。震える両手は俺の手を掴もうとしていた。


「ああっ!」

 更に指へ力を込める。やはり今度は硬い。

 ぷるぷると震える蜜の両手が、俺の手首を掴もうとした時……彼女の手が止まった。


 しばらくその位置で止まっていた。

 躊躇いを見せた後、今度は手がゆっくり下降していく。


 こいつ……。

「あううっ……た、くろー……く、ん……ご……めん……ネ」


 諦めたのか……。

 俺がそう考えた時だった。


 忘れかけた空の彼方から飛んでくる光があった。それはヒトの形をしている。今度は小さな少女のようであった。それが少女と分かるほど距離が縮まった時、俺の身体が硬直してしまっていた。


 今度の光はただの光ではなかったからだ。

 頭部だと思われるそれが、俺の横っ腹に激突した。


「ぐっはぁっ……」

 五メートルほど吹き飛ばされた俺は、地面に転がって激しく噎せ返ってしまう。蜜の頭部を掴んでいた右手で腹を押さえる。すかさず俺の側に飛んでくるジョカとリア。


 い、いてぇ……。

 光、頭部の正体を見極めようと顔をあげると――、


「みっちゃんに手を出すってどういうこと? おかしくなっちゃったんじゃない? お兄ちゃん」

 加奈だった。


「お、おま、え……」

 咳き込みながら、やっとの思いでそれだけを口にした。


「一番やっちゃいけないことだって、わからない? お兄ちゃんがどれだけみっちゃんのことを思っていたのかもわかるけど、みっちゃんがどういう想いをお兄ちゃんに抱いていたかわかんないの?」


 仁王立ちの加奈は両手首を腰に付けて、倒れている俺を見下すように怒鳴ってきた。

「おまえ……何者だ?」


 呼吸が落ち着いた俺は、左右脇に立っていたジョカとリアの肩を借りて立ち上がった。

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