もりめろん

 ぼくが生まれたのは退屈な田舎町だった。


 住宅街と団地が並ぶだけのベッドタウン。でももう少し昔にさかのぼれば、この町にはもっと何もなかった。そんなことを昔、親戚との宴会で酔った祖父が語っていた。

 ――この辺りは湿地帯だったんだ。あたりには葦が茂るだけ。その中に一本の小川が流れていて、傍らには一本の柳の木が生えていてな、不思議なことに、柳のくせにカブト虫が捕れたんだ。ふつう、カブトは柳に寄らん。


 待合室に飾られた一幅の絵を見ながら、そんな祖父のふと想い出していた。額縁の中には、晴天の下に一本の大木が収まっている。この話をしていたのはいつの頃だったか。随分小さいころだったと思う。祖父は、ぼくが物心つく前に亡くなっているのだから。

 名前を呼ばれた。ぼくは立ち上がって〈妊娠デザイン室〉に入った。



「この度は妊娠おめでとうございます」

 中央にすえられた椅子に座ると、目の前の女性がにっこりと笑って頭をさげた。

 妊娠が成功したということは通知書で知らされていた。二〇四〇年のいま、もはや流産や死産と言ったリスクも存在しない。人類の妊娠にとって残る問題は、誰と、どのような子を作るか、という点にあった。


 妊娠革命のきっかけは中国の民間企業による人口子宮の開発にある。米国主導による西洋各国の批判は生じたが、そんなものは技術進化の歩みを止めはしない。これは女性の権利運動だった。なぜ、女性だけが妊娠を押しつけられなくてはいけない? 身体がそうあることが理由なのならば、技術的な解決を目指すのが科学の役割だと、世界中の女性たちからの声援もあった。

 そうして日本の病院にも人口子宮はもたらされ、ぼくたちの家族観を大きくかえた。年齢や性別に縛られない生殖が可能になり、そこには様々な掛け合わせがあった。もちろん、たった一人の遺伝子から精子と卵子両方を取得する人たちもいて、それは実質的なクローンだった。今のトレンドは、山羊に恋をしたと語るタイの富裕女性が訴える、種族越境的な妊娠にあった。


「この度の卵子提供者は、ご友人の一般女性ですね。お相手からの承諾書も受け取っておりますので、お選びできる遺伝子操作の選択肢はこの通りになります」

 女性がそう言って机を人差し指で軽くたたくと、机がぼんやりと発光した。その上にアイコンと横に〇×が、そして説明書きが書かれた文書が浮かぶ。ぼくはスクロールして読み進めた。

 免疫力の向上 〇 十万円、性別選択 × 五万円、知的能力の向上 〇 十万円…。

 彼女は殆どの許可を認可していた。ただ一つ、性別選択を除いては。

「お選びいただいた遺伝子操作は、提供者の方にも通知がいきます」

 選ぶ操作はすでに考えてきていた。ぼくは長寿全うのための「免疫力向上」、それと「身体加工」にチェックしてエンターを押した。

 

「おめでとう。これで春から家族が増えるな」

 そう言ってぼくたちはリビングで乾杯をした。ぼくはゲイのカップルと都内でルームシェアをしている。ふたりが用意してくれていた料理をつまみながら、ぼくらはワインを飲んでいた。

「でも、不思議な感覚だよ。まさか美月の子を育てることになるなんて」

「美月の、じゃない。ぼくの子どもだ」

 ぼくが訂正を入れると、彼はすまないと言って首を振った。恋人が彼の肩に手をそえる。

 元々、この家には中学校からの友だちである、ぼくと彼とで一緒に住んでいた。そこに転がりこむ形で彼の恋人もやってきて、彼らが婚姻した後も、ぼくらは一緒に住み続けていた。それが、ぼくらにとって自然な形だった。その中で、ぼくが今回こうした決断をしたことを二人は尊重し、子育てを手伝うとまで言ってくれた。ぼくはその提案を喜んで受け入れた。そうして、遺伝子提供の書類を持って美月に会いにいった。


 ぼくは美月のことが好きだった。それは昔のこと、ぼくたちが中学生のときの話だ。美月は特別かわいいわけではない。だからモテたわけでもないのだが、ぼくらはとても仲がよく、放課後には互いの家や近所の公園などでよく遊んでいた。当然、冷やかしも受けた。本当は付き合っているんだろう。どこまでやったのか。なんて稚気あふれるしょうもない噂話。 

 美月は左手の指が四本しかなかった。本人は理由を語りたがらなかったので、ぼくはその理由を今でも知らない。中学生の頃に一度だけ、ぼくは美月と手を繋いだことがある。その頃の僕は声変わりが始まって、身長もぐんぐんと伸びていた時期だった。今までは美月の方が身長が高かったのに、それを越したぼくの背丈。

「ねえ、もう君の方が大きいね。手だって、ほら」

 そう言って彼女は左手を目の前でぱっとひらく。ぼくはその手の平に自分の手をぴったりと重ねる。関節一つ分大きいぼくの指。そして空中であまる小指。今更に恥ずかしさに震えたぼくらは、けれどもそのまま指を滑らせ、しっかりと手を絡ませては目を伏せてはにかんだ。

 けれども美月は転校してしまった。連絡を取り合おうと約束をしたぼくらだが、次第にやり取りの間隔が長くなってしまう。そうしていつか止んだ。再会したのは十年後のことだった。



「身体加工って何するん」

 ぼくらは互いの中間地点の駅で落ち合っていた。既に契約は済んでいたので、手続き上の問題のために会う必要はもうない。今回はこの間の遺伝子操作の結果報告を受けて、彼女との約束を果たすための待ち合わせだった。

 ぼくは美月の手元に視線を落とす。四本の指でマグカップを持つ、薬指には鈍く光る指輪。その視線に気がついた美月は眉根を寄せてぼくを睨む。持ち手の指に力がこもる。

「まさか指を欠損させるつもりじゃないよね」

 ぼくは持って来ていた鞄から小切手を渡した。そこにはちょっとした金額が記されていて、それは彼女の人生を変えるには充分な額のはずだった。彼女はそれを受け取ると、

「…まあいいよ。好きにしなさい。きみの子どもなんだから」自身の鞄にしまいながら言う。「どうせ非天然赤児アンナチュラル・ベイビーなんだし」

 異性間以外での出産形態が立ち現れたことによって変貌した家族観の中で、最も世相に色濃く表れたのは差別意識だった。同性愛やクローン自体への非難は減り、天然/非天然の子宮による分娩か否かが、〈非天然アンナチュラル〉として差別の大きな軸になっていた。

「きみは私の遺伝子をつかって、女の子をつくりたいんだと思っていたよ」

 美月はマグカップを口に運んでからそう言った。

「きみのこと好きだったよ。あのとき、私たちは好き合っていたよね。けど、まだ幼かったし、それが恋だなんて考えもしなかった。まあ、気づいたとしても何も変わっていないと思うんだけど、もしかしたら、君がこんな提案をしてくることはなかったかもしれないね。きみの今回の提案、正直言って嫌悪感しかない。さよなら、連絡は二度としないで」

 美月は小銭を置いて立ち上がった。ぼくは彼女の眺める。すると、近くに座っていた四十代前半らしき男も立ち上がり、彼女の横にぴったりを肩を合わせ、腰に手を回した。ぼくはその回された手をよく見る。そこに指輪はない。店外に出た彼女の姿が、ガラス越しに遠ざかってゆく。ようやくぼくは冷めたマグに手を伸ばした。



 家に帰るとふたりが迎えてくれた。食卓を囲みながら今日の話をすると、ふたりは憐憫の視線を向けながら、お疲れ様、とねぎらってくれた。

「お前のやろうとしていることは、人間の尊厳を札束で殴るようなもんだ」

 幾重にも不幸の道に落ちた初恋のひと。彼女と同じく四本の指を再現された我が子を、ぼくはふたりと幸せにしてみせると誓う。それは美月の人生が間違っていると指摘することと同義だった。生まれた子にとっても、歪な一方通行の愛の結晶だなんて残酷すぎると思う。

 小切手に刻まれたのは、彼女の人生を救うための金額ではない。ただ、歪な愛情の、ぼく自身の醜い欲望の桁数を証明するものでしかなかった。

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