母について

潮騒の音が聞こえる。


奇妙なほどに凪いだ海。


私はそれを、酷く穏やかな表情で眺めていた。


海辺に佇む私はさざなみに裸足を濡らしながら、ゆっくりとそちらに歩いていく。


深き、深き、いと深き


「―――り」


昏き、昏き、いと昏き


「――み…り」


私たちの故郷。私たちの冥道。私たちの、母さんの…


海鳥みどり!!!」


「姉さん……?」


気が付くと、姉の海魚みおが、私の腕を必死の形相で掴んでいた。



夜、眼を覚ますと家をフラフラと出ていく妹の姿を見た私が必死になって追いかけた先で見た者は、今にも海へと入水しそうな彼女の姿だった。


「姉さん、何してるの…?」


「海鳥こそ、自分が何をしていたのか分かっているの…!?」


茫洋とした顔で、海鳥は呟く。


「何って、それは…呼ばれたから、行こうと思って…」


「呼ばれたって、誰に…?」


「姉さんは、聞こえないの?」


海鳥は、凪いだ海を指さした。


「聞こえない…」


嘘だ。ずっと前から。その声は聞こえていた。


「ほら、海を見て。あそこから呼ばれているじゃない」


「聞こえない…!」


「でも、すぐそこに居るよ?」


私たちの、お母さんが。


私は決して海を見まいと下を向いた。

視界の端。月明りが照らす凪いだ海面に、白いドレスの端が揺らめく様が、見えた気がした。


「いいから、帰りましょう」


グイと妹の腕を掴んで、海から遠ざかる為に走り出す。

ザザザ、と波音が追ってくる。

あれほど凪いでいた海から、大きな波が迫ってくる。


――あれに追いつかれたら、引き込まれる。


妹の手をとって、全速力で砂浜を駆ける。


――人の言葉ではない、歌のようななにかを無視して、


三段飛ばしで、堤防の階段を駆け上がる。


――視界の端に映る、懐かしい人影を無視して、



そうして堤防の向こう側にたどり着いた瞬間。

轟音と共に大波が堤防を叩いた。

衝撃に足元が揺らぎ、妹と一緒にアスファルトの上に倒れこむ。


バラバラと水飛沫が全身を叩く中で堤防を見やる。

そこには、悲しそうに顔を歪めた母の姿が浮かび――


それは、返す波と一緒に、消えていった。



「ねぇ、海鳥みどり…」


「何?海魚ねえさん…」


母なる海。

全てのいのちが生まれた場所。


「引っ越しましょう。この海辺の町を出て、何処か、海の無い場所に」


けれど、陸の上に住まういのち私たちがここに居るのは、海から逃れた末の結果ではなかったか。


深き、深き、いと深き


昏き、昏き、いと昏き


私たちの故郷。

私たちの冥道。

三年前に、私たちの母さんが行ってしまった場所。


堤防の向こうから、潮騒の音が聞こえる。


海は、相変わらず、私たちを呼んでいた。





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海の見える街 @ZKarma

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