流刑のひとに文字を教わった話

今日は、流罪にあった人と過ごした時の話をします。現代、交通手段のそれなりに発達した時代においては比較的廃れた刑ですが、以前は遠流という仕置がありました。


人里より離れたところに打ち捨て、野垂れて死ねばそれまで、生き延びて恩赦を待つならそれはそれで、というのが流罪です。


政治的な理由などで殺すに殺せぬ罪人などがこの刑に処されることが多かったようですが、わたしたち魔縁の山にも時折、遠流の者がありました。わたしが自分の山を持ったのは比較的最近のことです。当時はまだ若く、友人の師筋の山に逗留していたときだったと思います。


基本的に流されてくるものは辛気臭いものが多く、心の底でわたしは彼らを軽蔑していました。過去の便利な暮らしや傅かれた記憶が抜けぬものども、逆にその落差からいっぺんにひどく卑屈になるもの。気の触れるもの。奪われて死ぬもの。


ある朝です。わたしが沢で顔を洗っていると、鹿が何かをくわえて引きずってきました。

何かと思って振り向くと、それは人でした。

ぎょっとして鹿を見ましたが神使ではなく、ただの鹿のようでした。

「おまえ、それは食えぬものよな」

わたしが話しかけると鹿は初めてわたしに気付いたようにびくっと身をすくめ、角を翻して駆けて行ってしまいました。


鹿が引きずってきたものは貴人のようでした。長い髪はそれほど傷んでもおらず、着ているものもまあまあ仕立てのよいものです。山に捨てられたにしては身綺麗で、乱暴された跡もありません。


「難儀なことですね」

わたしが声をかけると、その人は開かぬ目でわたしを見るような仕草をしました。病か傷か、盲いたのは比較的最近のようでした。

聞くと、やはり位の高い人だったようでした。おかした罪に対して命までは取られなかったことは僥倖であるというようなことを、その人は言いました。何をしたのか、どこから来たのか、わたしも尋ねませんでした。


その人のために作られた小屋は、山の中腹にありました。事情があるのか、その人は里に降りたがらないようでした。二日に一度、その人の生死を確かめに里から使いが来ました。使いはいつも同じ、口のきけない男でした。


その人は盲いてはいましたが、わたしが訪ねるといつも、すぐに戸口を振り向きました。どうしてわたしが来たと解るんです、と問うと、ちょうど人に会いたいと思っていた頃です、とつやつや笑いました。


以来、わたしはその人と時折話をしました。

他愛のない話が多かったように思います。一度、その人はわたしに書を教えてくれようとしました。盲いたまま、水で板に書く文字は、それでもかつての達筆を偲ばせました。わたしは見真似で文字を書きました。その人は、筆を動かすわたしの手に手を重ね、見えませんがきっとうまく書けていますよ、と微笑みました。

何度か教わりましたが、わたしの字が世間一般でいう達筆ではないのは、その人のせいではありません。


回を追うごとに、その人が板に書いた文字は少しずつみだれてゆきました。それでも、不思議なうつくしさがあったように思います。


別れは突然に訪れました。

その人は床に臥せり、戸口に立つわたしにも気付かないようになりました。わたしは招かれなければ小屋に入りません。

わたしは、戸のない戸口から、寝ているその人を見ていました。声をかければ聞こえたとは思います。しかし、わたしはただ見ていました。


ある日、帰ろうとすると、そこにいますか、という声が聞こえました。返事をせずにいると、そこにいますね、と穏やかな声に変わりました。


わたしは半分その人のことが好きになっていました。見知った人が死ぬ姿を見るのは、あまり楽しいことではありません。かわいそうにと思うこともありますが、遺言を託されても憶えていられるものばかりではありません。

どうしたものかと思案していると、その人はゆっくりと起き上がり、しんと坐りました。


わたしは招かれて再び小屋に入りました。二日に一度来ていた使いに労いを伝えてくれという伝言を託されました。

書いておけばいいでしょう、と言うと、それもそうだね、とその人は筆をとり、わたしは墨をすりました。静かな日でした。甕から水をとり、さり、さりと墨をすりました。

わたしたちは口をきかず、ただ墨をすりました。


さらさらと例の板に書いたそれは、読めるものではなかったかもしれません。読めますか、と聞かれてわたしは嘘をつきました。その人は何度か咳をしました。


もう使わないものだから、と筆を貰いました。そしてわたしが瞬きをすると、そこに坐っていた盲目の貴人は、橙色の貂に変わっていました。

貴人は、やはり人ならざるものでした。おそらくは化生でもなく、神使でもなく、もっと旧いものです。


流罪は、赦されましたか、と問うと貂は首を振りました。そしてわたしの左手に頬を擦りつけると、貂は傍をすり抜け、戸口から外に出たようでした。それきり会うことはありません。神在月のことでした。わたしとその人の話はこれで終いです。


わたしはいくつもの出会いと、別れを経験します。おそらくはこれからも、それは続くでしょう。交わるものは、ただ交わります。場所でだけ交わり、そしてそれぞれの方向へ進みます。


その人がしばらく暮らしていた小屋は、主人がいなくなってしばらくしたら焚きつけの薪にされてしまいました。あの、うつくしい手紙はおそらく読まれることがなかったことと思います。

使いの男は静かで、小屋を解体するときも一人でした。斧をふるう間、側の杉の梢から眺めるわたしに、終ぞ彼が気付くことはありませんでした。

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白蔵主天狗、思い出の話 高橋 白蔵主 @haxose

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