白蔵主天狗、思い出の話

高橋 白蔵主

鯨の寿司と沈丁花の話

むかし、船遊びをしていたら、鯨に飲まれてしまいました。ゼペット翁の話と違って、実際の鯨の胎内はぬるぬると湿ってて暗く、狭うございました。参ったなと思案していると奥の方から鼻歌が聞こえました。先客がいたようでした。


先客は、普通の人間で、やはり舟遊びの最中に船ごと飲まれてしまったということでした。

なぜ鯨の寿司はないんだろうかね、なんて悠長なことを言っていました。わたしはそんな先客に、まあ、葬式の幕は鯨幕というしね、と暢気に返事しました。縁起の悪いものを寿司にするというのもひとつの粋ですが、客商売なれば態々縁起の悪いものを看板にせずとも良い話であります。


先客とのお喋りは退屈ではありませんでした。ただ外の景色も見えず、身動きも出来ず、存外面白くなかったのでどうにかしようとわたしは思い立ちました。おい君、そろそろこんな所は出て家に帰ろう、と告げると先客はもう大分、とろとろとした声でした。

それはうまくないよ、君、僕は鯨の胃液であらかた溶けてしまった。僕はもうここからは出られないだろう、などと言うので励ましてやりましたが依然むにゃむにゃ言います。なら仕方ない、わたしもここにいようかと声をかけましたが、それも悪い塩梅なのだといいます。


僕はこうして鯨の中で朽ちて行くけれど君は戻れるなら行けと言います。そんなつまらない話があるかと叱りましたが、先客の消化は随分と進んでいるようで如何ともし難いようでした。なら最後まで待っているよと、わたしは話を続けました。


鯨の寿司は何故ないんだろうね、と尋ねると、先客はそれは僕が最初に言ったのだと言いました。そうだっけかな。わたしが返事をすると暗闇の中、握った手が少し細くなったように思えました。


わたしは話を続けました。

谷崎潤一郎は「別れる男には花の名前をひとつ、教えておきなさい」と書きました。花は毎年咲きます。別れた後も花が咲くたび、わたしのことを思い出させようというのは、いびつな独占欲という呪いでしょうか。たった一言わたしの「あれが沈丁花よ」という言葉がこの先の50年を生きるのです。


沈丁花は、基本的には白と、挿し色で赤紫のある美しい花だよ、とわたしは教えました。先客は、現物を見ないとわからないよと笑いました。そういうのは花を見ながら言わなければね。ここから帰ったら、見せてあげようね。わたしは返事をしました。先客はいよいよ不明瞭になった声で、僕は君にとって、別れる男になってしまったのか、と言いました。

わたしはいま、ひとつ嘘をついたよ。わたしは大きな声を出しました。鯨の胎内にそれは響きました。帰らないとわからない嘘さ、いったいどれが嘘なんだろうね。ねえ、君。


暫くして、先客は眠ってしまったようでした。姿を見られぬならまあいいか。

わたしが男を抱え、鯨の腹を割いて出た先は、大崎の沖だったでしょうか。久しぶりに空の下に出て、息を吸いました。日の元で見た先客は存外の色男で、もう駄目だなどと言った割に額の端をすこし火傷した程度でした。わたしは男を船着に棄てて帰りました。


わたしが彼についた嘘は、些細なものです。別れる男には、と書いたのは谷崎潤一郎ではなく川端康成でした。


その後、深川あたりでこの男が女給を口説いているのを見かけました。白い花を指して「知ってるかい、これ、沈丁花って云うンだぜ。江戸川なんとかって人が言ってたンだ。花の名前を教えられたら、ずっと記憶に残るのさ」なんて嘯いていたのでひとしきり笑いました。ものを知らぬというのは愛しいことです。

後ろから小突いて、わたしは言いました。

「バカめ。それは紫陽花だ」

男はわたしの声だけは憶えていたようでした。


物語というものは、いつだって書いた人間すら置き去りにして、世界を描きます。そこに書かれているのは確かに虚構かも知れませんが、頁を捲る指も、読んでいるわたし達も確かにそこにあり、そして、耳を塞いでも止められない声がそこにはあります。


他人の心にいつまでも消えないしるしを残すこと、残したいと願うことは人間の業だと思います。

わたしたちはそうやって静かに、そしていつだってあなたの横にいます。この一年があなたにとって良い年でありますように。そして、困難に当たったり、選択に迷ったり、人生が退屈だなと思ったりしたら、ぜひわたしたちに手紙をくださいね。


鯨を寿司にしない理由は未だよくわかりません。あるいは、どこかの地方では寿司にしているのかもしれません。もしどこかで鯨の寿司を口にすることがあれば、鯨幕の寿司だなんて嫌わず、紫陽花を沈丁花だと云って人の記憶にちゃっかり残る、色男のことも思い出してやってください。

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