第7話 廊下に立つ夢

 何か解放されたような気持ちでいた。

 私は今廊下に立っている。壁と床は白く、照明は暗い。左右の壁には手すりがついており、等間隔でスライド式のドアがあった。無機質で、長く、冷たい廊下だ。


 そんな薄気味悪い場所にもかかわらず、身体は一向に動こうとしない。私は黄色の花束を手にしたまま立ち尽くしていた。

 何をしたらいいか分からないのだ。しなくてはならないことが、あったような気がする。でも何も思い出せない。

 頭にもやがかかったような、半ば操られているような感覚。しかし気分は良く、恐怖や焦燥感はない。ぼやけた意識の中である種の心地よさを感じていた。


 ふと、学校を早退して熱に浮かされ、太陽で明るい自室に寝かされた時のことを思いだす。自宅に戻った安心感と、まだ勉強している同級生への背徳感。少し楽になる身体と、眠気で誘い出される浮遊感。熱を持つ頭に、時折そよぐ風の涼しさ、そして、そして。……何だっただろう?

 

 突然、肩を叩かれて、後ろを振り返る。

 そこには誰かがいた。誰かがいるのだが、顔も身体もあるようでない。認識できないのだ。まぁ、そんな事もあるだろう。

 そいつは悪戯っぽく笑って、ねぇ、と呟く。


 「どこへいくの。」


 言葉は聞き取れるのに、声はよく分からなかった。質問されたことに対して、自分が苛ついたのがわかる。

 

 『わからない』


 喉から声が滑り落ちる。誰かは少し首を捻った。


 「迷子?」


 『わからない』


  ふーん、と、その誰かは私の周りをぐるっと一周する。


 「ここのこと好き?」


 その誰かの問いに、私の口は開かない。代わりに、血の気が引き、じんわりと背中が冷たくなっていく。焦りに似た気持ちだった。


 「ごめんごめん」


 私の様子をみて、そいつは驚いたように謝った。なんだか悪い人じゃないなと、遠くで感じた。


 「─のことは?わかる?」


 聞き取りにくい。わからない、と首を振った。

 その誰かは悲しそうな顔をしているようだった。

 何となく申し訳ない気持ちになって、私は手にしていた花束を誰かに向かって差し出した。


 「これ、くれるの?」


 余程驚いたのだろう。その誰かは素っ頓狂な声をあげて背筋を伸ばした。

 そんなに驚くとは思わず、私までたじろいでしまう。何となく誰かが悲しい顔をするのは嫌だった。


 『悲しまないで』


 私がそう言うと、そいつは泣きそうな笑顔になってしまう。私は悲しまないでって言ったのに。


 「駄目だよ。それは持っててね。」


 誰かはそう言って、私に背を向ける。気付くと廊下の先に光が見えた。私は後を追おうと、影になっている背中に向かって一歩踏み出す。こつん、とヒールの音が響いた。


 「違うでしょ。君は、そっち。」


 途端、誰かは振り返り、私の背後の廊下を指差す。

 私もつられて後ろを見る。光を見た後だからだろうか、最初に見た時よりもその廊下は不気味で、暗いように感じた。それでいて寂しそうに、おいで、おいでと私に向かって手招きをしている。

 たまらずその誰かに向かって叫ぶ。


 『やだ』


 そう言ってしまってから、後悔した。誰かが怒ったのが分かったのだ。

 そいつは震えながら、影がかった身体を倍くらいに膨らませた。頭が天井にまで到達している。顔は見えなかったが、見えなくてよかったと思うくらいに、その迫力は凄まじいものだった。怖い。思わず一歩下がる。

 

 『ごめんなさい』


 私がそう謝ると、誰かははっとしたような顔をして、身体を元に戻した。両手で頭を抱えてぶつぶつと一人で何か喋っている。

 私は気が抜けてしまい、遠く見える光をぼんやりと見つめた。

 そうか、私はあっちに行っちゃいけないんだな。

 そう思った途端、その光が愛しく、とても懐かしいもののように感じた。そしてそこに行けない自分が堪らなく惨めで、悲しくなってしまう。

 私もそっちがいいよ。

 そう口には出さながったが、代わりに涙が溢れてしまう。


 「ねぇ。」


 ふと気づいたら、そいつは私の目の前に立っていた。

 そいつもそいつで悲しそうな目をして笑っている。思わず頬に手を添えると、そいつはその上から、優しく私の手に触れた。


 「覚えていて。─のこと。」


 『ごめんね』


 私はもう一度謝った。

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