住居(夫婦)
「――そんなわけでね、一人暮らしは当分いいわ」
話し終えた真白は、甘いカクテルの入ったグラスを片手に、呑気そうにニコニコと笑っていた。
「やだっ、こわーい! いかにもジャパニーズホラーっぽい!」
「ゴーストハウスから黒猫さんを助け出したんは、旦那様でしたちゅーわけか。愛やなぁ」
「うーん、そーいうんじゃないと思うけど」
藍川夫婦の家庭内別居が解消され、コバルトの仕事が一段落ついたタイミングでようやく開かれた、小さな飲み会。気心の知れた面子だけで行われたそれで、桃壺に引っ越しの理由を問われた黒猫が経緯を語ったのだ。
――気のせいだと思うし、ヤマもオチもないけど。
そう前置きされた上で語られたそれは、案外上手い真白の語り口もあって、桃壺と
目の前の賑やかなやりとりに、一人だけ素面(運転手であるため)の明彩は深い溜め息を落とした。
金縛りの原因は肉体疲労やストレスだろうし、悪夢は精神的なものから来ているのだろう。血痕に見える床の汚れは建物の古さと材質の問題。錆びた臭いは配管に原因があったのだろうし、黒猫だけがその臭いに気付いていたのは鼻の感度の問題だ。不動産屋は配管の不具合を隠していただけだろうし、一緒に居たコバルトが気付かなかったのは、妙なところで鈍いせいだろう。
不吉な事を言い当てた子供は近所の悪戯小僧の戯言、前住人か、更にその前の住人が忘れていったのであろう、写真の子供は他人の空似で片が付く。どれもこれも怖がる程の事じゃない。
――そんな事より、甥の妻は自分が置かれた環境の恐ろしさを理解しているのだろうか。
明彩は甥がこの家に妻以外の他人を招き入れたのが、今日が初めてである事を知っている。気さくだがパーソナルスペースが広くて他人を寄せ付けないところがあるわりに、甥は愛妻が関わると豹変するのだ。大体、ここ暫らく忙しかったのだって、真白の引っ越しを手伝うために、スケジュールを前倒しに詰めさせたせいらしい。
それに最近、社長の機嫌を損ねた社員が一人、会社から姿を消しているのだが、その事に真白は気付いているのか。
そこまでやるこの男が、自分の元から離れようとした妻を手元に引き寄せるために、何も細工をしなかったと、どうして言える。
明彩は横目で甥を観察する。コバルトは知己達と楽しげに話す妻を眺めて、上機嫌に目を細めていた。
「コバルト君、一体何をしたんだい」
「妙な真似って?」
「真白さんのマンションの住人を買収して悪戯させたりとか。彼女が怖がって戻って来るように仕向けたりしたんじゃないのか?」
コバルトはワイングラスを片手に、心外そうに明彩を見た。
「叔父さん、僕がそんな事をするわけないだろう? 僕は父さんみたいに、奥さんが不幸になるような真似はしないよ。絶対にね」
明彩は亡兄譲りの端整な顔をじっと見つめる。
この男は見た目通りの男ではない。世渡り上手な仮面の裏には、傲慢と執念深さ、そして底知れない何かを隠しているが、少なくとも藍川真白という人間に対してだけは真摯だ。
嘘を言っている様子はない事を確かめて、肩を落とす。
「……私の杞憂ならいいがね」
明彩はあっさりと持論を覆した。大体多少の細工を施したとして、真白が思い通りの方向にメンタルを崩すという確証もないのだ。コバルトが関与した前提で考えるのも、現実味の無い話ではある。
いつの間にか優しい表情で己の妻を見つめていたコバルトが、手の中のグラスを弄びながら唐突に零した。
「でも僕、別居はそう長くは続かない気がしてたけどね」
「なぜ」
「何となく」
「君にしてはハッキリしない答えだね。真朱君がこの場にいなくて良かった」
コバルトは楽しそうに声を上げて笑った。
「ただ、あの部屋を最初に見た時は、ここしかないって、すごく良い部屋だって思ったんだ」
なぜだろうか。コバルトのその言葉を聞いた時、明彩の背筋が鳥肌を立てた。
「……どこが良い部屋なんだい。彼女の話を聞く限り、ホラー映画になりかねない物件だが」
「理由なんて分からない。フィーリングだよ。――この部屋を選ぶのが俺と真白さんにとっては一番良い事になるって、あの時は本気でそう思った、だか、止めなかった」
言って、コバルトは立ち上がる。どうやら桃壺と橙はそろそろ家に帰るらしい。見送りにと立ち上がったコバルトの背を追うように、明彩もまた己の荷物を手に取っていた。この家に二人と一緒に残されるのは、何となくイヤだった。
『――僕と真白さんにとっては、一番いい』
実際、あの部屋をきっかけに、コバルトと真白は元サヤに戻ったようだ。以来、二人は毎日幸せそうに鴛鴦夫婦になっている。
けれどそれは二人にとって本当に、良い事なのか。
甥からしてみれば、短期間の別離を我慢するだけで全てが思い通りになったのだから、万々歳というものだろうが。
コバルトが狙って何かをしたわけではないのだろう。……状況的に、そうなのだろうと思う。だが得体の知れない何かが甥の味方をしているような気がして、それが一番、気味が悪い。
「じゃあ、月曜日からよろしくね!」
三人で玄関を出て、ほろ酔いの桃壺が上機嫌に手を振る。
「うん、またね」
年下の夫に腰を抱かれて笑顔で手を振り返す甥の妻はまるで虜囚だ。それでも世界一、幸せそうに見えた。
椋家の怪事情(1/1編集) 狂言巡 @k-meguri
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