最果て町の過客

敦煌

最果て町の過客

 フッと気がついたら、知らぬ無人駅に立っていた。

 学校の帰り、電車の中でうたた寝をしていたら乗り過ごしてしまったらしい。そうして途方に暮れて、今は肌寒い夜風の中、莫迦ばかみたいに白いセーラーを着て、黒革の鞄を引っ提げて立っているのである。

 あわてて駅名標を確認を確認したが、暗闇の中から徐々にぼんやりと浮き上がってきた薄汚い四角の板には、前も後ろもなく「最果さいはて」とだけ書いてあった。

 プラットホームの蛍光灯には、苔で黄ばんだ明かりの下に、蛾とか蜻蛉とかの虫がちら〳〵と群れて舞っていた。


「お嬢さん、其処で何してはるんですか」

 少し高くてガサ〳〵掠れた、優しげな四十代くらいの男の声の、テレビで聴くようなその生粋の旅州話りょしゅうわを聞いてひどく驚いた。

 やっと人に会えたと安心して振り向くと、丸顔に上品な雰囲気の細い目をして、白髪混じりの頭に茶色い中折帽なかおれぼうを被った、やはり四、五十代くらいの、灰色スーツ姿の小太りな男が立っていた。

「すみません、私計陽けいよう市に帰りたいんですが、この駅は何処なんでしょう」

 尋ねる私に男は何が愉快なのか、軽く笑って言う。

「何処でもおまへんで。ホラ、看板にも最果てと書いたありますがな。計陽行きの電車はいずれ来るかもわかりませんけども」

「じゃあ、何時いつ来るんでしょう」

「さあ。お嬢さんが帰るべき時に、来るんとちゃいます」

 ハア、何を仰るんです、と聞き返す私をよそに、男は微笑みながらさらに尋ねる。

「そうや、折角来てくれはったんやし、うちの町でも見て行きはりますか。おもろいですよ」

 最果てに町なんてあるのかと見渡すと、ホームの横、ずっと遠いところに小さく灯が見える。耳を特別に澄ますと、風や虫の鳴く雑音の中に、太鼓と笛の微かな音色も聞こえてきた。

「今はお祭りもやっとりますさかいに、案内しますで」

 男は尚も優しげな笑みを浮かべている。祭などに参加する余裕のない私はもう一度訊く。

「本当に、此処は何処なんですか。それと貴方は誰なんですか」

「せやから、何処でもおまへんがな。少し町を見て行ったら、解るかもしれまへん」

 男は、失敬、と懐から葉巻とライターを取り出した。カチ、カチと小さな火花が散ると、葉巻の先端がほんのり橙色に光って、私は男の唇から吐き出される白い煙が冷たい空気にゆっくりと融解していくのを見た。その甘いような苦いような不思議な香りが鼻を掠めた。

「僕のことは『散木さんぼく』とでも呼んでくれれば結構ですわ。ところでお嬢さんは、お名前何て謂いはるんです。見る限り学生さんのようですけど」

氏家うじいえちひろと謂います」

「ちひろさん。素敵なお名前ですなあ」

 そう云うと散木と名乗る男は、薄暗い改札口に続く階段を二、三歩降りて、此方を振り向いて手招きする。如何しても私の方をヂッと見ているので、仕方がないからとう〳〵着いて行くことにした。

 

 その薄暗い改札口には切符を切る駅員どころか誰も居なかった。そう云う訳で、駅舎は只々、所々に灯のちらついている真っ暗な町並みに向けてあんぐりと口を開けていた。

「最果て町へよういらしました。ここが僕らの住む町です」

 散木がそう云って両手を広げる、小太りなシルエットの後ろには、何処かノスタルジックな、来たことなど無いにも関わらず懐かしさが感じられる、異界の町の光景が繰り広げられていた。

 ぽつ〳〵と見受けられた橙の灯りの正体は旧式のガス灯であった。また、暗灰色の夜空の奥には真っ黒な山陰が貼り付いていた。ひんやりした空気が体を撫でる度に、人影の無い駅前広場に生えている草花の、青臭い香がツンと鼻をついた。

 そして耳を澄ますと、草陰から己の居場所を知らせる虫の声や、耳元で小さく低く呻る風の音の奥に、笛と太鼓の旋律が聴こえる。

「ほな、行きましょか」

 散木に導かれて往く町角は、此れをまさしくデジャヴというのか、何処かで、しかもごく日常の身近な所で見た事があるような、或いは長い旅路から自宅へ帰る道程のような、心地良い安心感があった。もしかすると姓名も告げず散木と名乗っているこの人も、遠い親戚に居た誰かしらの叔父なのでは無いかという錯覚すら起こりそうな程であった。

 小さな家々が立ち並ぶ住宅地を過ぎて、古ぼけた祠を過ぎて、シャッターがズラリと並ぶ商店街を過ぎて、ネオン看板の所々消えかけた場末ばすえの繁華を過ぎて、段々と囃子の音が大きくなってきた。

 恐らくアパートか何かの、黒ずんだ灰色の大きな建物の角を曲がった所で、スッと視界が開けた。

 

 ごた〳〵した方体の建築物と、暗い空に更に黒い枝を広げる樹木と、橙色のガス灯の光に縁取られて、円形の小さな広場がぽっかりと存在していた。

 小さな広場の中央には、此れまた小さな舞台が設置されていた。先程から耳にしていた囃子の正体は舞台の前に座って控えている二人の奏者のようである。その舞台を囲むように数軒、たこ焼きやら、かき氷やら、果物飴やら、焼そばやら、射的やら、金魚掬いやらの色とり〴〵の縁日の屋台がひしめき合って並んである。

「ちひろさんなんか都会から来はったさかいに、こう云うのも又違う雰囲気有って、中々ええもんでしょう」

 目を見張った。

 どこの町にもあるような風景とどこの祭りにもあるような屋台の群だが、其れは確かに幻想的な空間であった。丁度古い昔の、太陽と入道雲の季節が終わって、短い夢から覚めつつある時期の様な、浴衣の紅い縞模様と線香花火の星の様な金色の燦めきに縁取られた、紺色の晩夏の日の記憶が甦るような心地がした。

「あのう、何か食べて良いですか」

 散木は幼き日の追憶にすっかり夢現ゆめうつつになっている私を見て、何でも好きなもん食べや、と微笑む。

 幼い頃、近所の公園でやっていた夏祭りの縁日で、六個入で三百円のたこ焼きを、私と弟で買ったことがある。青い夕暮れの中で遊具に腰掛けて、香り立つソースと鰹節の匂いに大喜びして早速食べようとしたのだが、爪楊枝で持ち上げた所、上手く刺さらなかった様で落としてしまった。破れたクリーム色の生地の中から紫の蛸をすこし覗かせて、温かな湯気を立ち昇らせながら、底面がじゃり〳〵の砂にまみれたそのたこ焼きを見て、当時僅か三、四歳程であった弟は、顔を真赤にして洟を垂らしてびー〳〵と大泣きした。私は困り果ててしまって、「あれは蟻さんのご飯になったんだよ」と解説をした。其れで結局残り五個を三対二で分けて、私は無論後者だった訳である。

「たこ焼き一つ下さい」

 そんな思い出を突然想起したので、たこ焼き屋の屋台の前で立ち止まった。奇遇な事にそれも六個入で三百円だった。

「たこ焼きですか。ええですやん」

「散木さんも、半分如何ですか」

 散木はハハハと軽く笑ってそれを丁重に断ったが、私が何度も勧めるとじゃあ、と言って爪楊枝に手を掛けた。

「相変わらず美味いですわ。ほんまに、何時迄も変わらへん味や」

 それは本当に、何時迄も変わらない味だった。初めて訪ねた町の知りもしない祭りなのにも関わらず、あの時の記憶が更に鮮明に思い出された。

 そんな思い出に浸りながら、あの時と全く同じ味わいを咀嚼していたが、ふと此れが気になった。

「そう云えば散木さんは、何時いつからこの町に住んでおられるんですか」

 散木は口元を隠すように手を当てがいながら上の方の空を見て、記憶を辿っている様子だった。

「其れがよう分からんのですわ。二十歳の頃やったと思うけど、詳しくは覚えてへんな」

 如何云うことなのだろうか。引っ越してきた時のことを覚えていないと云うのは些か不思議に思えたが、これ以上訊いても仕方ないと云うか、何となくこの町に住んでいる上で、そんな事は重要な問題ではない様な気がしてやめた。

 

 丁度たこ焼きを食べ終わった時、不意に子供のぱた〳〵と云う足音と、跳ねるような小さな鈴の音が近づいてきた。散木は其の音の方を少し見ると、穏やかに目を細めた。暗がりの中から徐々に姿を表したのは、赤いべべに若草色の帯を締めて、百二十センチくらいの身の丈の、烏色をしたおかっぱ髪の小さな女の子だった。散木は前屈みになって、ゆっくりと両手を広げ、走って来るその小さな身体を優しく抱き留めた。

「小説家のおじちゃん。また、あたしにお話書いて」

 其の子は散木の太腿に抱きついてピョン〳〵と跳ねる。そう云えば、彼の職が物書きであるとこの時で初めて知った。この男は中々謎の多い御仁なのかも知れない。そんな散木は地面にしゃがんで子供と目線を合わせるようにすると、帽子のつばを軽く持ち上げて、其のガサ〳〵した優しい声で語りかける。

「あゝ、ええねんで。どないな話にしよか」

 子供は暫時、うんと考える仕草を見せたが、少しするとまた、散木の脚を取り巻いて朗らかに跳ねる。

「あたしがお姫様でね、王子様がやってくるの」

「ほな、黒くて大きな蟾蜍ひきがえるに乗った怖い魔法使いがお嬢ちゃんの事を攫ってまうとかどうや」

 その話には聞き覚えがあった。

 何時だろうか。ぼんやりとした記憶だが、たしか此の子と同じくらいの時に、何処かで聞いた事があったのだ。あの話をしてくれたのは誰だっただろう。確か、丁度こんな風に、其の人が無垢で純粋な幼少の私の為に作った物語だった。

「そいで、その王子様が助けに来るのね?」

 キャッ〳〵と無邪気にはしゃぐ女の子と、柔らかい視線を向ける散木と、そんな二人の様子を見ていて、段々と話を思い出してきた。今ならその続きを云える、そう思った時にはもう、口から出ていた様である。

「お姫様は魔法使いの城で薬を飲まされて眠っているけれど、王子様は額に接吻キスをするんです。其れで起きる」

 散木は少し驚いたような顔を見せたが、すぐに嬉しそうに微笑むと、女の子の方を向いて、其の背中をトン〳〵と優しく叩いた。

「お姉さんがええ話考えてくれはったで。マリちゃんも有難う云いや」

「お姉さん、有難う」

 其の子はマリちゃんと謂うらしい。マリちゃんは背筋をピンと伸ばして、爪先を揃えて、ペコリと大きくお辞儀をした。そうして、またねと散木と私に挨拶すると、百二十余センチの小さな影法師は、ガス灯の灯りの届かぬ闇の中に消えていった。

「マリちゃんもえらい喜んどりましたよ。良かったですねえ」

「いえ、其の話、何故か聞いた事が有ったんです」

 其れを聞いて、散木は些か驚いた様子であった。

「ほんまですか。あれは今即興で作った筈やねんけど、そないな事が有るとは。何とも不思議な話や」

 散木は顎に手を当てて考えるような素振りを見せた。私は先程からずっと気になっていた質問をぶつけてみる。

「そう云えば、散木さんって小説家でらしたんですね」

「ええ、実はそうなんですよ。ちひろさんの住んでる様な所では僕の本なんて売ったあらんと思うけど、一応物書きとして生きてるんですわ」

 自己紹介をほぼされていないから、散木の事を何も知らない。この素性の知れない男の小説がどんなものか、少し読んでみたいような気もする。どんな話を書くのだろうか。

 暫くはそうやって話をしていたが、散木は突然、せや、と何かを思い出した様に屋台の列の方へ小走りで向かっていった。一分もしない内にまた小走りで帰って来て、其の手には紅い宝石のような林檎飴が握られていた。

「さっきはちひろさんに奢って貰ろてすまんかったさかいに、是非此れ食べはってください。美味いんですわ」

 そうして其れを渡されたので、有難うございますと軽くお辞儀をして、紅玉石ルビーのようなそれを一口齧って見ると、薄く透き通った飴の殻の中から、姫林檎の果汁が口いっぱいに溢れ出てきた。

「美味しい。小さい頃、お祭りの屋台で必ず買ってました。あの頃のと同じ味だ」

「そうでしょう〳〵。僕なんかこう云う甘いもんばかり食うてるから、こないに太ってまうんですけどねえ」

 そう云って少し出ている腹に手を当てて、二人は一寸ちょっと笑う。

 

 不意に、囃子の音楽がはたと止んだかと思うと、中央の舞台に人影が現れた。其れは玉の様に白い肌と燃える様な赤の唇をして、丈の長い真紅の旗袍チーパオを着て、結った黒髪に此れも又赤い花飾りを付けた美しい女性であった。其の人が出て来た途端に、散木の表情が少しだけ真剣になった様な気がした。

 間も無く、笛と太鼓の旋律が再び奏でられた。舞台の上の舞姫は、街灯の光を浴びながら、細く長い手足を存分に使って、美しく結われた髪を振り乱して、紅い旗袍の裾を翻して、扇の舞を踊っていた。その爪先が舞台を踏み鳴らす律動さえも音楽の一部であったし、又、奏者の取る休符の間にある息遣いさえも舞の一部であった。舞姫の一挙手一投足の度に、椿の紅い花弁が散っているような錯覚をする様だった。

 其の舞台上の、全てが美しかった。

 長い間、二人は只ヂッと押し黙って、その舞踊を見つめていた。しかし私が思うのと、隣に居る散木が想っている事では全く違ったのだ思う。

 音楽が鳴り止み、天上の人の様だった女性が舞台から降りて来た。そうして真っ直ぐに私達の方に向かったが、如何やら散木の姿を認めたものらしかった。

 女性はやって来て、散木と私にぺこりとお辞儀をした。息が上がっている様で、頬は僅かに赤く色づいていたし、その額や、首や、腋にはじっとりと汗が滲んでいた。

紅沙羅コウシャラ。まだ踊るんか」

「ええ。もう一度位踊ろうと思って」

 紅沙羅というのが彼女の名前らしい。其の二人はやけに親密な様子だった。其れを聞いて散木は少し心配そうな表情をして、懐から茶のハンケチを出して紅沙羅の額を優しく拭いた。もう片方の左手は、肩に添えられていた。彼女は特に抵抗する風でもなく、相手の胸板に手をそっと置いて、只々眼を伏せて大人しくしていた。

「せやかてお前、もう一刻も踊ってるさかいに、えゝ加減休んだらどうや」

「良いんです、まだ踊れますから。余り気になさらないで下さいな」

 散木は小さくため息をついて言う。

「ほな身体には十分気い付けや。夜は冷えるし、何時迄もそんな格好で外居たらあかんで」

 それと、と付け加えると顔を相手の方に寄せて、耳元で声を顰めてこう囁いた。二人の表情ははっきりと見ることが出来なかった。

「終わったら何時いつもの店で待っといてな。じきに向かうから」

 其の後、紅沙羅が私の存在を気になったので、散木から遠くから来てくれはった客で、ちひろさんと言いはんねや、と説明があった。それから私は彼女に軽く挨拶をした。

「ほな、僕らは行きましょか」

 それで私のことを思い出したのか知らないが、散木は急に紅沙羅から一歩離れて、忙しなくジャケットの埃を払ってみたり、白い毛が混じったもみあげの辺を弄ってみたり、キョロ〳〵と視線を定めずにして云った。其の様子からはこの男の心中に生まれた些かの羞恥が見え隠れしていた。

 下手な事を云って場の空気を悪くするのも面倒だったので何も黙って散木に着いて立ち去ったが、暫くしたらあの様子が滑稽に思えて来て、別に冷やかすのではないが、この男の色恋的な事情について、少しだけ知ってみたくなったのである。

「紅沙羅さんは、その、如何云うひとなんですか」

 そう云う風に自分で云っておいて、多少小っ恥ずかしくなったのも事実である。普段こんな話題を持ち出す機会なんて滅多にない。

「何です、そないに揶揄からかわんといて下さいよ」

 散木は都合が悪いのか、困った様な顔で私から眼を逸らして高いしゃがれ声の調子を妙に低くして云った。

「揶揄うつもりなんて有りません。只一寸ちょっと気になったんです」

 今の台詞のうち前半分は嘘だが、後半分は本当である。あの時、散木が憂えげな眼をして腕中の紅沙羅の汗ばんだ額を拭うのを見ていて、其の二人に対する憧憬の心持は確かにあった。散木は暫時、呍、せやなあ、己と彼女との関係をどう呼称するかとと考えていたが、ふいに立ち止まって、涼しげな夜風の吹く空を仰いだ。

「何と云うか、大切なひと、やねんな」

「結婚はなさったんですか」

 否と首を横に振って、照れくさいのか散木は笑った。それからなんだか困った様な表情になって、もうええでしょうと云われたので流石に辞めた。

「色々訊いてしまって失礼しました」

「何にも、興味を持つのはええ事ですよ。ちひろさん位の歳の子なら尚更や」

 少し申し訳なくなって謝ると、散木は其れを笑って許した。

 

 祭のやっている広場から離れて、ポツ〳〵と灯りの連なる細い道を歩いていくと、小さな橋に辿り着いた。少し歩いた所から階段で下に降りられる様になっていて、石だらけの岸の真ん中に潺潺せんせんとせせらぎの音を立てて黒い川が流れている。

 其の川岸に、膝を抱えて座っている、若い男らしき人影が認められた。散木は顔馴染みなのか、橋の上から手を振って大声で呼んだ。

「オイ君、こんな所で何してんねや」

「アッ、散木さん」

 若い男はすぐに気がつくと、此方を向いて立ち上がった。散木は私を連れて小走りで土手を降りて、ヤア〳〵と親しげに云いながらそちらへ近づいていった。其の男はわたしと同い年か其れ位で、黒の学ランを着て其処で立っていた。散木が降りて来ると背筋を伸ばして、学生帽を取って礼儀正しく辞儀をした。

「今日に試験が終わって、それで色々考えて居ました」

「どないやった」

 学生は首を横に振った。何が駄目かと訊かれると、俯いて幾何きかだと云った。散木はそれを聞いて意外そうな様子であった。

「何でや。幾何なら前、十分に教えたったやろうに」

 学生は下を向いたまま、散木に謝礼を述べた。

「其の節は有難うございました。でも、僕にはもう何をやっても仕方ないのだと思っています」

 学生はそう云ったきり、そのまますっかり黙りこくってしまった。そうして誰も何も云わずに、暫くは虫の声とせせらぎの音がこだまするだけだったが、それを見かねたのか、散木は彼の肩に手を置いた。

白飛はくひ。今更終わった事考えたかてしゃあないで、今日はもうはよ帰って寝や」

 白飛と謂う学生は、それでもまだ俯いてぶつ〳〵と何か言っている。散木は其の背中を強く叩いて、この青年の後ろ向きな思考に呆れた風で語りかけた。

「何やねん、世の中なんて試験の点数が全てやないで。それにたかだか一科目や、他のは存外ええとも分からんやろ」

「いいや、幾何が駄目なら他も駄目です」

「嗚呼もう分かったから。そないに辛気臭くならんと、どうせお前、飯食って寝たら全部忘れてまうんやから、ほんまにはよ寝」

 まるで自分を見ている様であった。一々何かある度に落ち込む癖に、直ぐにそれを忘れて同じ事を繰り返す。学業でも、生活の中でもずっとそうである。散木の叱咤の言葉が自分の胸にも直接届いて来た。いつも〳〵愚痴を聞いてくれている友人達の心の声を代弁していた様な気がした。

 それでやっと、白飛ははいとうなづいて散木に一礼したが、今度は私の方を指して何処の学生さんですか、と問うてきた。

「この子はな、ちひろさん云うて、今日は偶々遠くの街から遊びにきはったんや。どや、丁度お前と同い年位とちゃうか」

 そう云う簡単な挨拶の中で、相手が十六だと云うので、私も同じですと云って暫し談笑をした。

 白飛のそういう悲観的な心境には何となく親近感を感じていたから、自分への戒めも込めてこう云ったのである。

「散木さんの言う通り、次にいい成績取れば良いんです」

「励ましの言葉有難う。お互い頑張りましょうね」

 

 散木はそれを穏やかな笑みを浮かべつつ聴いていたのだが、ふいに何かを思い出した様に腕時計を見て云った。

「失敬、ちひろさん。そろ〳〵夜も遅なりますさかいに、帰られたらどうです」

 もうそんな時間らしい。そう云えば明日も学校があるし、早いうちに帰らねばならない。

 そうして二人は白飛に別れを告げて来た道を戻った。広場まで来ると笛と太鼓の囃子に合わせて、舞台の上でまた踊り子が舞っていたが、あの紅沙羅とは違う人であった。しかし散木はそれには目もくれず、段々と囃子の音が小さくなっていく中、私を連れて橙色のガス灯の光に縁取られた白い方体の建物群の道を、更に駅の方に歩く。

 ようやく駅前の広場に着いた時、誰もいない駅舎の後ろに、いつも乗っているあの電車が停車しているのが見えた。夜の暗闇の中で、その窓が煌々と四角い光を放っていた。

 駅舎の何もない改札を通り越して、青白い蛍光灯に照らされたプラットホームに出た時、私は散木に振り返って手を差し出した。

「今日は有難うございました」

 散木は又笑って握手に応じた。私の手を握る、その手は温かかった。

「いえ〳〵。楽しかったでしょう」

「あの、私、又来れますか」

 思えば、最果て町なんて聞いたことがない。もう二度と来れないのかも知れないと少しだけ思った。

「勿論。ちひろさんが来たいと思いはった時には何時いつだって来れますさかい、安心して下さいな」

 それを聞いてほっとした。絶対にまた来ますと伝えると、散木は懐から、何処にでもある様な茶の封筒を取り出した。

「さっきも言うとりましたけど、僕は小説家として生きとる者です。せやからちひろさんの為に一つお話を書こう思て、この封筒だけ渡しときます。家に帰ってから開けてください。今はまだ白紙ですけども、着きはる頃には書き上がったあると思うので」

 散木の言っている意味がよくわからなかったが、私はその封筒を受け取って鞄の中のファイルに仕舞っておいた。

 二人だけの静寂の中、発車ベルがけたたましく鳴り響いた。電車に乗り込むと、ほなまた、何時でもいらして下さいと云う声に手を振った所で、ドアは閉ざされた。

 

 そうして電車に乗って、ずっと寝ていたような気がする。身体中に、長時間の眠りから覚めた時特有の気怠さがあった。あの最果て町の祭は結局夢だったのだろうか。雑踏が賑やかな最寄駅のプラットホームについていたから、ふらふらと電車から降りて、改札を通過して、いつもの見慣れた道を通って家へと戻った。

 家に着くと、時刻はもう九時近くであった。母親が友達と夕飯でも食べて帰ってきたのかと聞いてきたので、改めて考えるとあまり腹は減っていない様である。適当に食べてきたと答えて、自分の部屋に戻ることにした。

 しんとした部屋のベッドの上に座っていると、あの記憶が甦ってきた。そう云えば、と床に放り出された通学鞄を開けて、プリントが乱雑に入っているファイルを取り出した。やはり、そこにはあの茶色の封筒が仕舞われていた。

 

 封を切ると、三つ折りにされた白い便箋の裏側から、文字がしたためられているのが確かに見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

最果て町の過客 敦煌 @tonkoooooou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る