ドゥーチェ

敦煌

在りし日のベニート青年に捧ぐ

 僕がまだ大学生だった頃、首都パラッツォから少し離れた郊外の街ソボルゴに住んでいたのだが、当時はちょうど十一月十八日の政変で、社会人民党がクーデターを起こしてアルベリーニ政権が廃止され、宰相のベニート・アルベリーニが首都から行方を晦ましたのと同じくらいであったと思う。

 僕は何かにつけ斜に構えて捻くれた学生だったから―まあ今でも厭味癖は完治していないのだが―、周りの様にやれ革命だ反独裁だ、アルベリーニをギロチンに処せなどと声を上げることはまず無かった。歴史と神学の勉強で忙しかったし、もちろんアルベリーニ政権のきな臭いプロパガンダには心底うんざりしていたのだが、だからと言って人々に迎合して馬鹿の一つ覚えの如く政権打倒と騒ぐのは、質の悪いポピュリズムの様で嫌いだった。

 民衆は気まぐれだ。経済が良かった頃は彼を総帥ドゥーチェと呼び、党大会の演説で大々的に謳われる粗悪なナショナリズム擬きに陶酔して、皆同じ敬礼をして、パルナポリ王国万歳と叫んでいたものを、一たび戦争に負けるとなれば一斉に掌を返す。僕の恋人のジャンネッタも、当時は彼に熱心なラブレターを送る敬虔な信者だったのだ。

 まさか弱小野党の生き残りが打倒アルベリーニを叫んだ時、あれほど多くの人が賛同するとは思わなかった。結局パラッツォ市民の殆どが仕事を休んで議事堂へ押し掛けたのだが、あの中に元から反アルベリーニ派であった者は幾何居たのだろうか。

 モダンな全体主義は民主主義の上に成り立つ。大衆を支配し続けるには、彼らの身勝手な民心を伺うほか無い。とどのつまり、あの怪物を産んだのは我々自身なのだ。

 

 その日は肌寒く、昼になっても薄灰色の雲が低く流れていた。ちょうど正午頃だっただろうか、石畳のラーパ通りを粗末な馬車が乱暴に走っていた。しかし通りの中心部に来るにつれてその周りに次第に人が集まり、がやがやと騒ぎ立てるので、ついに馬車は立ち往生してしまった。僕は昼食を買いに行く道中でその様子を遠目に見ていたが、並々ならぬ物騒な空気に吸い寄せられるように近づいていった。小さな馬車を囲んで、市民たちの罵詈雑言が飛び交っている。御者は手綱をだらし無く持ったまま、大義そうにため息を吐いて、曇天の空を仰いでいた。騒ぎ声はますます大きくなる。ドアや窓を石で叩き壊そうとする者も出てくる。ついに乗客がカーテンの隙間から姿を見せると、馬車を大破させる勢いで人々の腕が雪崩れ込む。

 馬車から引き摺り下ろされた男を見て僕は心底吃驚した。

 黒のジャケットに身を包んだ細身の紳士は、ベニート・アルベリーニその人であったのだ。

 その顔は窶れ、目は我々を見て怯え切っていたが、なにより新聞の一面で嫌と言うほど見かけたトレードマークのカイゼル髭が、この数日間の逃亡ですっかり乱れ、もはや無精髭となんら変わりは無くなってしまっていたのが印象的だった。騒ぎ立てられた中心で、大勢に押されたり引かれたりしながら、彼はやっとのことでゆっくりと立ち上がった。

「ソボルゴの市民諸君、私は――」

 そう言いかけた途端、すかさず誰かがその痩けた頬を殴り、地面に蹴倒す。数ヶ月前まで彼の演説に心酔し、国家や政権に最大限の忠誠を誓っていた民衆は、もはや言い訳の機会すら与えてくれなかった。


「この独裁者め。戦争には負けた、恥を知れ」

 どこからか男の声が叫んだ。その他大勢も、皆口を揃えてそうだそうだと囃し立てる。騒ぎを聞き付けた野次馬たちに押されて、僕は輪のさらに内部へと流れていった。

 初めてこの目で見たドゥーチェの姿は、あまりにも無様で憐れであった。

「今更どこへ逃げるんだ」

「貴様はペテン師だ」

 口汚い罵倒の言葉が飛び交う。若い男が彼の胸ぐらを引っ掴んだまま、交差点の近くの広場へと引き摺る。僕はそれにただついて行ったが、数人かは道端の石を集めて戻って来ると、アルベリーニに向かってそれを投げつける。手前の女は箒で乱暴に横たわる身体を叩いた。ジャケットは既にズタズタに裂かれてしまっていた。全身血塗れ、顔じゅう痣まみれになっても、辞めてくれ、辞めてくれと弱々しく何度も嘆願しながら、彼は何度も立ち上がろうとした。しかしそのたびにまた地べたへと叩きつけられ、殴られ、蹴られ、石を投げられて、弱り果てたアルベリーニは次第に無抵抗になっていった。

 僕とてあんな独裁者を庇うつもりなど毛頭ないが、彼を殴り、踏み付け、罵り、石を投げる民衆は、彼がそれ以前に一人の人間であることすらも忘れていた様に見えた。

 彼にもベニートという名が有る。「祝福があるように」という意味らしい。アルベリーニの家に生まれ、両親に祝福されてそう名付けられた、僕らと何ら変わらぬ血の通った人間であるはずだ。

 恐ろしい事に、大衆はそれを忘れている。

 そして僕だって、傷だらけの彼を庇い、流された血を拭く為のハンケチを貸す事など出来ずに、ただ薄鈍のように突っ立っていたのだ。


「諸君らが私を選んだのだ」


 そうやって三十分以上も暴行を受けた後、彼は消え入りそうな声を振り絞った。殆どはやかましい喧騒にかき消されてしまっていたが、僕はアルベリーニがそう言ったのを確かに耳にした。しかしその直後、底の厚いブーツを履いた男に頭を踏みつけられて、それっきり彼は黙りこくってしまい、だらしなく四肢を垂れて横たわったまま、血か涙か涎かわからぬものを垂れ流すだけであった。

 ソボルゴを抜ければ港町のオンダータだ。おそらく彼はそこから船で海外に亡命しようとしていたのだろう。弄ばれている無惨な遺骸をふと見ると、それはもはや誰なのかも分からないほどに損壊している。どうやら御者は馬車と乗客を放って逃げ去ってしまった後のようである。

 結局、社会人民党党首のピエトロ・ヴァレンティが新宰相に就任した。就任式の写真を見ると、アルベリーニの時と同じで、王は縫い包みのように玉座の上で座っているだけだった。

 彼を殴り殺した人々は裁かれなかった。それどころか、そのうちの一人は平然としてその事についての新聞記事のインタビューを受けていた。「あいつは国を陥れた大嘘つきのペテン師だ」と語っていた。

 国家も、弁論も、民衆も、そして法律さえも死んだのだと悟った。

 

 あの当時アルベリーニの論じたお粗末なナショナリズムの毒素は、奔放なパルナポリの国民たちを結束させ、そして同様に病ませた。負の感情によって人民を統一することは、一見成功したかに見えた。しかし病んだ民草を懐柔する為には、彼らの機嫌を窺うことを怠ってはならなかったし、何より「強い国パルナポリ、偉大なるイステル民族」という幻想を壊さぬ為の戦績は、最低限必要であったのだ。

 彼は自らが醸成した毒で、その身を滅ぼす事になった。冷静になってみれば、あれは大したことのない、つぎはぎだらけのチンケな極右思想に他ならなかった。

 結局、ヴァレンティ政権も同じであった。アルベリーニ体制を痛烈に批判した彼の演説の聴衆達は口々に洗脳が解けた、今まで何故あんな虚言を信じていたのかわからないと言っていたが、それは新たなプロパガンダの始まりでしかなかったのだ。

 あれから三十年が経つ。僕もずいぶん歳をとった。それでも病める人々はまだ慰められぬ。あの戦争に負けてから、この国の経済はどん底に落ち、また新たな指導者が生まれ、滅ぼされ、この繰り返しで、我々パルナポリ人は大切なものを幾つも失ったように思う。そして、いくら宰相が代替わりしようとも、王は相変わらず傀儡であった。


 今も民衆は渇望している。再び彼らを導く救世主ドゥーチェの存在を。

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ドゥーチェ 敦煌 @tonkoooooou

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